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他の学問はすべてマスターしてしまったので、超マイナー学問を研究していた教師(元最強賢者、転生n回目)、マイナー過ぎて追放される。そして追放された先で学問以外の出会いを果たす。

作者: ソナラ

「さて、教師オースティン、もうすでにお解りと思いますが、貴方の“縫合術”教室は、閉鎖となります。つまり、貴方はクビです」


 ある日突然呼び出され、教師オースティン……つまり俺はクビを言い渡された。


「な、ちょ、ちょっとまっていただきたい! 俺はクビになるようなことはしていない!」


「ええ、ええそうですね。貴方は“何もしていない”。ええ、ええ、理由としては十分でしょう?」


 王立ユグドラス総合学院。

 ユグドラス王国のあらゆる叡智が集められたその学院で、俺は教師をしていた。

 教えているのは縫合術、自慢ではないが超が付くドマイナー魔術で、生徒が三人しかいないという致命的過ぎる欠点を除けば、至って真面目な教室である。


 ……あれ? 確かにそれは言われるまでもなくクビになるな?


 ユグドラス学院は全校生徒十万人の超マンモス校、いまいちピンと来ないかも知れないが、この世界で学院と言えばユグドラスのことを指す、名門中の名門だ。

 そんな学院で生徒が三人しかいないとか、確かに存在する意義が問われるといえば、そのとおりなのだが。


 それでもおかしいものはおかしい。


「だとしても、教室が閉鎖になっていきなりクビというのは、異例なことではないかと!」


 普通、別の教室の副教師になるのが普通だ。

 一発でクビなんてありえない。


「おや、言わなければわかりませんか?」


 そういいながら、メガネをクイっとやってみせる禿頭の教師。正確には教師長という役職の男は、えらく横柄に俺を見下ろしながら言ってみせる。


「貴方のような無能を飼っている金は、この栄誉ある学院にはないということです」


「は……?」


「縫合術? そんな価値のない学問を教えるだけなら、まだいい。だが、お前はあろうことか、ユグドラス王国の姫を誑かした!」


 ……こいつは何を言っているんだ?


 姫様、というのはこのユグドラス王国の第二王女、リアリス王女殿下のことだろう。

 聡明で、周囲からの人望も厚い。第二王女という、皇位継承権はそこまで高くはない身分でありながら、周囲から次代の王に、という声も上がるほどの才人。

 と、いうのは表の顔。実際には傍若無人で我儘放題な、腹黒お姫様なのだが、こいつは心底あいつに心酔しているようだ。

 あいつの素を知らない――身内でもなんでもない、ということでもあるが。


「姫様は大事な御身だ。彼女が縫合術の授業を受けていることが、この国にとって最大の損失と言っても過言ではない! そうだ、お前は姫様を誑かした詐欺師! 教師と名乗ることなど烏滸がましい!」


 まさか、こいつ……


「それは、単なる嫉妬じゃないか! 姫さんは確かに俺の授業を受けているが、それは姫さんの自由であり、あんたの指図を受けるようなことじゃない!」


 確かに、俺の縫合術教室には、この国の姫、リアリス第二王女が在籍しているが、それは彼女が自由に取得出来る単位の一つを俺の授業に割り振っているに過ぎない。

 いくら教師長という立場にあったとしても、口出しできるはずがないのだ。


「うるさいうるさい! 私はユグドラス王国の伯爵位に就く貴族だぞ!? お前のような平民上がりが指図など許されるものか! 教師でなければ、今すぐこの場でクビを切り落としているところだ!」


 貴族!? こいつ貴族だったのか。

 そりゃあユグドラスの貴族ともなれば、縁故だけでそれ相応の地位に就くことだってできるが、仮にもユグドラス学院で十人しかいない、この学院の教師たちのトップの一人が、こんなクソみたいな縁故就職のお飾り貴族だっていうのか!?

 学院は素晴らしい場所だと思うが、それを運営する王国は、はっきり言って腐っているのかもしれない。リアリスの姫さんには悪いが、そう思わざるを得なかった。


「文字通りでクビになるじゃないか、それじゃあ! いくら何でも横暴だ!」


「私にはその権限がある、ということだよ。なんと言おうと君の教室は閉鎖、君はクビ。これは私の決定だ」


 言葉が詰まる。

 権限、と言われてしまえばそのとおり。この男には、この横暴を通す権力があり、俺にはそれに対抗する権力がない。

 と、いうよりも、だ。


「……解った。そういうことなら、出ていくよ」


 いいかげん、この言い争いも面倒くさくなった。

 怒りというのは、高まりすぎるといっそ思考を冷静にさせる。この男の言うことはあまりにもふざけているが、ソレに対してどうこう言うことも、億劫なくらい俺は頭が痛くなってしまった。

 もう、こいつと話をするのはまっぴらごめんだ。


「ふん、これは天罰というのだ、教師オースティン。お前のような不敬な輩が姫様に近づいたことを、後悔して野垂れ死ぬがいい」


 さり際にそんなことを言われて、しかしため息の一つすら出てこなかった。

 そもそも、学院を辞したところで死ぬわけじゃない。こいつは箱入りの貴族だから学院の外というのを知らないから、教師をやめれば死ぬしかないと思っているかもしれないが、食い扶持なんて幾らでも稼ぐ方法はあるのだから。


 とはいえ、そうだ。

 これだけは言って置かなければ。


「天罰……天罰といえば、アンタも気をつけろよ教師長。姫さんは怒らせると怖いんだ」


「おい、言葉には気をつけろよ、お前はもうこの学院の教師でもなんでもない。今この場でお前に自死を命じても咎める者は……」


「それは、あんたが貴族でいられたらの話だろ」


 俺は、その言葉に少しだけ“真実”を込めた。


「――は?」


 ぞくり、と。

 教師長は言葉にできない悪寒を感じ取ったのか、目を丸くして、一瞬呆ける。

 ……おいちょっとまて、まさかこいつ、今のを探知できなかったのか? 仮にも初歩の初歩みたいな魔術だろうに、ほんとにこいつ教師長なのか?


 試してみるか。


「……姫さんがこのことを知った時、命が残っていればいいな?」


「――ひっ!!」


 なんてことはない、こいつにしてみれば歯牙にかけるまでもない挑発――なのだが、どういうわけか教師長は泡を吹いて、白目を剥いたまま気絶してしまった。

 ……嘘だろ、こいつ耐性ゼロかよ。そういえばこいつが授業をしてるところ見たことねぇな。

 やっぱりお飾りの貴族様だったってことか。王国も地に落ちたもんだな。


 まぁいいか。


 ああ、しかし。

 縫合術なんてドマイナー学問、研究できるのもこの学院くらいだったのに。


 これから俺は、どうやって縫合術を……というか、“俺の知らない学問”を研究するか、と頭を痛めるのだった。



 ――



 クソ野郎の部屋を出た足で自分の部屋に向かっていた。俺は、さっさと荷物をまとめてこの学院を去ることにしたのだ。あいつが俺を追い出すといった以上、すでに手続きは済んでいるはずである。何より王国への不信感から、この学院に関わる気力も大きく萎えてしまった。

 ここでしか縫合術を学べないから所属していたが、権力闘争から距離を置いていても貴族様の機嫌一つで職を失う立場にこだわっていては、生きていくことすら困難だろう。


 まぁ、なので出ていくことには異論などないのだが。


 ふと、俺の部屋に入ると、周囲の空気が変わる。部屋の温度というか、空気が外の部屋と比べて寒い。体感で数度違うとなれば、季節が一つ巡ったくらいの違いがある。


『ふざけています!』


 原因は、すぐに俺の目の前に現れた少女だった。ベールをまとった、神秘的な少女。見た目は十代半ばの幼い少女だが、その実年齢は数千歳を誇る。

 大精霊と呼ばれる種族で、透き通るような白髪が特徴だ。今は、赤色の瞳を怒りに震えさせている。


 俺とこいつの関係が何なのか、と言われると――


『ご主人さまも、もうすこし言い返してよかったのではないですか!?』


「言い返すよりも、関わらないことを選んだんだ。ああいうのは俺と関係ないところで俺と関係ない悪事を働いていてほしいもんだ」


 俺は部屋の荷物を魔術で浮かべると、ぽいぽいと何もない空間へしまっていく。“収納術”と呼ばれる特殊な魔術で、人類においてこれを使えるのは歴史上に二人しかいないとされるとんでもない魔術だ。

 当然、学院でも教えていない。というか、教えても使える奴がいない。俺のユニーク魔術の一つだな。


『あの男、学院の教師でありながら魔術耐性を持っていなかったのですよ!? インチキもいいところではないですか!』


 魔術耐性。

 これは簡単に言うと、『どれだけ魔術を知っているか』によって得られる魔術に対する耐性だ。

 魔術というのは深淵の神秘。それに一つ触れるたびに、人間は魔術に対する耐性を得る。学問の一つでも“マスター”すれば、簡単な魔術なら何もしなくても弾いてしまう。


 この学院の教師は何かしらの学問をマスターしていることが就職の条件なので、俺が使った威圧の魔術は普通弾かれるものなのだ。

 あの禿頭教師長は、まさしくインチキということだろう。すくなくとも、数百人単位で存在している教師たちのトップ10に入るとはとてもではないが思えない。


「……そんな奴が教師長をしている時点で、この学院は終わってたんだ。王国が腐りきってたのは知ってたが、もう少しこの学院には関係ないと思ってたんだけどな」


『人の世が腐りきっているなど、もはやわかりきっていることではないですか……! やはり人類は悪……滅ぼすべき……!』


「おちつけ、ラグナ」


 ラグナ――こいつは数千年生きてきた、言ってしまえばこの世界の女神のような存在なのだが、数千年も人類を見守ってきたからか、悪堕ち気味なのが欠点だ。

 なにかあると人類を滅ぼすべきといい出すが、ヘタレなので実行できないのである。


『それもこれも、ご主人さまの転生周期が長すぎるのが悪いんです。死んだら一年以内に転生してください!』


「無茶を言うなよ!?」


 ぷんすこ、と無茶を言い出すこの女神様。

 彼女の言い分としては、俺が永遠に生きて世界を支配すればそんなこともないだろうということなのだが、そんなのまっぴらごめんだ。


『でもでもご主人さまは、かつて一度世界を救った英雄様なんですよ!? もう一度世界を救うべきですよ!』


 そう、俺はかつて世界を救った賢者である。自分で言うのはアレだが、そうやって歴史に残っている以上、そう自称する他ない。謙遜は厭味にもなるのだから。

 で、そんな賢者様は人生を終えた時、思った。

 俺はまだこの世界の真理をすべて解き明かしたわけではない、と。


 結果転生を決意した。それが俺だ。まぁ、今の俺――オースティンに至るまでに、何回か転生を果たしているわけだが、その転生の理由は真理の追求。

 決して世界を救うためではない。


「あのな、俺が世界を救ったのは、そうしないと本当に世界が滅びて生き物も人間も、全て消滅してしまうからだ。んで、それを防いで数千年、世界が滅ぶなんてことにはなってないだろう」


 流石に、世界が滅びそうになればそれを防ぐ意志はあるが、今の所初代俺の頃に一回滅びかけた以外、世界が滅んだことはない。

 世界も人類も、案外図太いのだ。


『その結果が、あの腐れ果てた禿頭だったとしてもですか!?』


「健全なことじゃないか。俺は一切関わりたくないが、俺と関わらない場所で好きにやってくれといいたいね」


 まぁ、今回はそうも言っていられないから、こうして学院を去ることになったわけだが。


「それに、ああいうのが極まればいずれ立ち行かなくなって、自然と自浄作用が働くんだよ。リアリスの姫さんなんか、その典型だろう。姫さんとその周囲が、いずれ王国を改革してくれるさ。戻るのはその頃になってからでいい」


『あの女狐の方が、私は信用できませんけどね!!』


 ご立腹。

 ラグナ様はご立腹だ。まぁ、大雑把な長命種族にとって、腐れ禿頭も腹黒姫さんもそう変わりのない人種ということだろう。禿頭はともかく、姫さんはアレで見込みがあると思うんだがな。

 いずれ、鉄血女帝とかそんな二つ名が付きそうな怪物姫さんを思い出しながら、俺は荷物をまとめきった。


「よし、ここを離れるぞ」


『ふん、言われなくともです! ああ、せいせいする!』


 俗世に興味のないこいつはともかく、俺としてはここを離れるのは惜しい。

 前世、俺がうまく言ったらいいなという気持ちで埋めた種が、ようやく芽吹いたのだ。この学院に所属することが今世での目標だったのだが、うまく行かないものだ。

 あと三十年くらい早く転生していれば、もう少しまともな学院に……ああいや、縫合術事態が数年前に発見された学問だから意味ないか……他の学問はもうマスターしてるしな。


 ――俺、オースティンは学徒だ。魔術という深淵の神秘、そのすべてを解き明かしたいとかつて願った存在である。

 最初の人生、俺はそんな志のもと生きたが、ちょうど俺の時代に世界の滅亡なんて危機が重なってしまうものだから、その解決に奔走することになり満足な研究ができなかった。


 そこで転生魔術を開発し、次の人生は目一杯研究に励もうと考え、実行した。しかしそこで問題が起きたのだ。

 俺は生まれてから一度もねぐらを離れることなく、自分の知っている学問のマスターに集中した。結果70を越えてすっかり爺さんになったころにそれは完了したのだが、せっかくだからと外に出てみるとなんと世界には俺の知らない学問が溢れかえっていたのだ。


 結果、俺は二度目の転生を決意した。俺が学んでも学んでも、追いつかないくらいあらたな学問はポンポン生まれてくるのである、仮に全部マスターしてしまっても、次の転生を千年ほど先にすれば新しい学問が生まれているのだ。

 人類とは恐るべき速度で進化している。

 ユグドラス総合学院は、その学問の進化と未知の学問の発見を目的とする研究機関を作って欲しい、と前世で俺の弟子に当たる人物に頼んだ結果、こうして出来上がった学院だったのだが。


 ああ、悲しきかな学院。腐れ落ちてしまった王国に生まれたのが最大の不幸。姫さんが改革を成功させた頃に戻ってくるよ。二十年くらいで終わるかな?



 ――



 ユグドラス王国第二王女、リアリスは激怒していた。

 可憐と評され、美しい花に例えられる人々から“優しい”と評される穏やかな姫が今、自身の本性を隠すことなく激怒していた。

 柔らかな微笑みから、天使とも呼ばれる少女の実際の性根は、まさしく悪魔というほかないものだ。信頼したごく一部の身内を除いて、絶対にその本性を覗かせることない。周囲にただ優しいだけと思わせながらも評価される立場に立つ王女が、実際には政争においてもこの国で頂点に立つ才覚を持つとは、誰も思わないだろう。


 そんな人生を十六年続けてきた、黒髪の少女は、今その牙城を揺らがせていた。

 目の前には、その原因となった禿頭の木っ端――リアリスにとって、どれだけ位が高かろうと、腐っていて自分の政敵であるならそれは木っ端だ――貴族が一人。

 笑みを浮かべるリアリスに、心にもない美麗字句を浴びせつけてきている。もはや耳にも入らなくなってしまったが、だとしてもそれがリアリスの怒りに油を注いでいることを本人は気付いていない。


「――それで、教師長」


 名前を呼ぶことすらしない。というかリアリスはこいつの名前を知らない。教師長はこの学院の頂点。十人の優秀な教師なのだが、その一部はこいつのように王国の権威でねじ込まれたお飾りだ。そいつらの名前は覚えるには値しない。


「今すぐ消えろ、と伝えたはずですが」


「は、いや、しかし――」


 そもそも、話はすでに終わっている。リアリスは要件を伝えた、この男はその内容を理解できず、何かの間違いだと思ってリアリスをなだめるような発言をしていた……らしい。

 ゴミの戯言は続く。いや、戯言という言葉にすら、その発言は失礼だろう。リアリスにとって身内以外の人間はもとよりゴミとそう変わらないが、こいつはその中でも一層ひどい。

 なんと評すればいい? 評することすら汚らわしい、今すぐこの汚物は、掃いて捨てる以外に対処法はあるまい。


「ですから、あのような男と姫様が会話することは本来、あってはならないことなのです!」


 ――そして、そいつはついにリアリスの地雷を踏んだ。

 驚くべきことに、この男が入出し、リアリスがこの男のクビと貴族位の没収を宣告した時から数分、べらべらとまくしたてるような長口上は続いていたが、それまでオースティンに対して触れることは一切しなかった。真っ先に、理由を伝えたにも関わらず。

 それだけ、オースティンを意識していなかった。あの男をただの平民上がりの教師だと思っていたわけだ。何の知識もない、権力だけで椅子に座っているだけの無能が。


 ああ、本当に何も理解していない。


「教師オースティンは……」


 いい加減、リアリスもこの茶番は飽きていたところだ。ゆっくりと手を挙げる。禿頭は息を呑むように、それを見ていた。ああ、こいつ。

 これから何が起こるのかすら理解できていないのか。


「私の師でした。この学院で唯一、師と呼ぶにふさわしい男でした。あの男は学徒……いえ、そのような言葉すら生ぬるい。狂っている。あいつは学問に狂っていた」


 このユグドラス総合学院に教師は数いれど、リアリスにとって師と呼べる存在はオースティンだけだった。教師としての質、志。何もかもが他とは違う。


「この世に学問を“マスター”したといえる人間がどれだけいるのです? それだけの学徒がこの学院にどれだけいるのです? 一生を学問に捧げられる者がどれほどいるのです?」


 教師が何かを学ぶのは何故か。

 教師が何かを教えるのは何故か。


 金と、名誉、そして成果のためだ。


「けど、あの男だけは、あいつだけは違ったんですよ。心の底から、ただ学問だけに狂っていた。学ぶことだけに気を割いていた……本当に、ひどい男です」


 どちらが素晴らしいか。

 そんなもの決まってる、名誉も、金も、そして成果も手にしたものこそ、多くのものに称賛される。ただ学ぶだけの狂人など、見向きもされないのが世の常だ。


 だとしても、リアリスはそれがよかったのだ。


「私にはないもの、私が絶対に目指せないものを持っていた。……あの男を手放したことは、この国の終わりも同義よ」


 リアリスは王女だ。そしてその立場にふさわしい才覚があることを彼女は自覚している。困難はあるだろうが、いずれ彼女はこの腐った国を改革し、女王として君臨するだろう。

 そのときに、隣にあの男はいないのだ。


 そして、


「さて――気付いているでしょうが、喋ることができなくなっていますね? 教師長」


「――――!!」


 ひとり語りを終えて、リアリスはゆっくりと手を挙げる。


「勘違いをしないでほしいのですけど、もし彼が縫合術以外の……本当に何の役にも立たない木っ端魔術を教えていたら、私はこの授業を受けることはなかった。もっと別の方法で彼に近づいていたはずです」


 変化はすぐに起きた。まず、禿頭は口が聞けなくなっている。というよりも、口が何かで縫い合わされている。そう、まるで何かに縫合されたように。

 加えて、男の体は突如として男の意志に関わらず動きだした。


「縫合術とは、糸を使って物質を縫い止めること。これは非常に応用が効く上に、糸は透明で周囲から視認しにくいものなのです。用途は暗殺や自衛、物質の操作にも使えますね」


「――――!!!!」


 叫びだそうとする男は、ゆっくりと部屋の外へとあるき出す。本人にはそのような意志、一切ないというのに。


「そして、糸の長さは本人の技量に寄って変わる。あの人なら下手したら大陸全土に糸を伸ばせるかもしれないけれど、私だって――」


 恐怖。

 男の顔に恐怖が浮かぶ。


 もはや自分がどうしているのか、どうしてこうなったのかもわからない。わけのわからない現状に、わけのわからない状況が合わさって、男の頭は恐怖と混乱で染まっていた。


 ただ、男の耳にすでに見えなくなったリアリス王女の声が響く。

 それは男の体に――“頭”の中にすらまとわりついた――彼女の糸が、振動を伝えているだけなのだけど、当然男に解るはずもない。



「この学園全土なら、私は糸を伸ばすことができるの」



 妖しく、艶やかに、少女は笑う。

 彼女こそ学園の支配者、リアリス王女。いずれこの国を彼女の糸が覆うとき、腐れおちたこの国は、もう少しまともなものへと変わっていることだろう。

 そこには、彼女の独裁という現実も、同時に存在しているのだが。



 ――



 学院を追い出された後、俺はユグドラス王国を離れることにした。理由は二つ、リアリスが怖いのと、この国に残る理由がないからだ。

 前者はなんてことはない、俺が王国に残っていれば、姫さんは即座に俺を招集しようと遣いを出すだろう。別に姫さんのことが嫌いというわけではないが――むしろ彼女の人間性は好ましいが――姫さんの手の中に収まるということは、俺は姫さんのモノになるということだ。

 研究は幾らでもやらせてくれるだろうが、姫さんが望む研究を優先することになるのは想像に難くない。

 それはいくら相手が姫さんでも、許容するわけには行かないのだ。

 ……と、前に正面から本人へ面と向かって行ったら、何故か更に懐かれた。好感度を下げるつもりで言ったんだが、姫さんはよくわからない。


 そしてもう一つ。この国にいる理由がない。

 単純に、俺が求める知識がここにはないからだ。ユグドラス王国にあって、あの学院にない学問は存在しない。ましてやこの大陸すべての知識があの学院に集まっているわけで、俺は今自分がいる大陸を離れ、別の大陸に行くしかない状況にあった。

 なので俺は船に乗って海に出るべく、港町を目指していたのだが――


 道中、一つ山を超える必要があった。


 別に大きな山ではない。街道も整備されていて、山の裾を横切るように道が通っている。当然ながら人通りも多く、困難な旅路というわけではない。

 ただ、その時不幸だったのは、そこを通る際に、大雨に見舞われたということか。


 結果土砂崩れが起き、幸い被害は出なかったものの道は塞がれ、土砂の撤去には数日が必要という状況。


『ご主人様ー、これ早く移動しないとリアリスちゃんに見つかっちゃいますよぉ。ふっとばしませんか? 土砂』


「今は場所が割れてないから見つかってないんだよ。目立ったら即見つかるだろ?」


 気分屋なラグナは、宿の自室で俺にべたぁ、と張り付きながらそんなことを言う。リアリスちゃん呼びをしている時のこいつは、基本的に機嫌がいい時だ。

 女狐呼びをしていると機嫌が悪いので、触ってはいけない。


「この雨じゃな、しばらくはムリだろ」


 土砂崩れの上に、大雨はまだ降り止んではいない。後一日はこのままだろうというラグナ様(大自然の女神的存在)によるお墨付きのため、これから出発するとなると相当目立つ方法が必要になるだろう。

 こっそり隠密して山を抜ける、というのも考えられるが、リアリスの場合何をしても俺が魔術を使った時点でそこに違和感を感じて気がつくだろうからムリ。あと土砂をふっとばして普通に移動するならまだしも、そういう地味で面倒なことはやりたくない。手間はどちらもそんなに変わらなくても、だ。


「ま、しばらくはここで研究に励むさ」


 そしてなにより、研究なら宿でも出来る。持ち込んだノートに色々と考えを纏めながら思索にふける。理論を考えるのはどんな時でもできるのだ。

 そしてそれをこういうタイミングで纏めないと、仮説まで持っていけない。この推論が一番楽しいのだと俺は思う。


 俺が残したいのは研究の成果を記したノートだ。そこに実践も、実験も必要ない。まとめることが楽しいのであり、その結果など所詮は二の次。他人に迷惑をかけなければそれでいいのだ。


『またご主人さまが自分の世界に入ってるぅ』


「入ってても、話はできるだろう。それにもうすぐ終わるさ」


 俺は少し悩んで、文章を締めくくる。結びの文を考えるのが一番苦手だ。結論でもない、他者へこの文を読んで伝えたい意図を明らかにする文章。

 いいじゃないか結論が出ればそれで。後進への一言とか、研究しての感想とか他人に知られる必要はない。

 俺は研究して、研究して、研究して、死ぬまで研究できればそれでいいんだ。


 それ以外のことなんて、どうでもいい。


 ただ……

 腹の虫が鳴った。こいつはいつも俺を邪魔してくる。ちょうど書物も終わったことだし、メシにしないといけないな。


「よし、と。何か食わないとな、朝食を抜いてるから、流石に腹が減ったな」


『毎日三食、ちゃんと食べましょうよお。また早死しちゃいますよ?』


「流石に、いつぞやみたいな醜態はさらさないさ」


 一度、自分の体を改造して食事も睡眠も必要のない体にしてから、研究だけをして生きたことがあるが、三十年もしないウチに死んでしまった。自分でも不思議だが、体というのは面白いものできちんと人間らしい生活をしたほうが長く生きれるものらしい。

 魔術による医療が発達したこの世界では、下手すれば百年くらい生きる人間もいる。その人間の活動時間と比べると、三十年はいくら食事、睡眠を取っていなくたって非効率だ。


 あと、他者と意見を交わした方が研究は進む。人体を改造した結果見た目が化け物になっていてそれができなかったのも、以降人体改造をやめた理由の一つだ。


 ともかく、宿屋の一階は食堂になっている。適当に食べてから研究を再開しようと思い、俺は足を運んだ。



 ――そこで、不思議なものを見た。



 部屋中に、魔術による装飾が為され、幻想的なキラメキがあちこちを行き交っている。外は大雨、どんよりとした空気がジメジメと室内を浸しているはずのこの状況で、この部屋だけは雰囲気が明らかに違った。

 幻想的な夜の世界。冒険者が秘跡を踏破して、やっと拝めるようなそんな光景が、そこには広がっていた。


『すごい――』


 ラグナが感嘆している。彼女はそういう未踏の地を故郷としている、神秘の大精霊だが、そんな精霊すら魅了してしまうほどの光景ということだ。

 見れば、その顔は郷愁に満ちていた。一度、里帰りをするのもいいかもしれない。


 俺はといえば、その光景が素晴らしいものであるということは解る。しかしそれどころではなかった。この光景よりも、この光景の根源に俺は意識が向いていた。

 何せ俺は、


「――始めてみた」


 この魔術を、見たことがない。

 つまり、それは――



『それでは皆さん、聞いてください。これが最後の一曲――!』



 響くような声だった。拡声の魔術を使っているのか、声ははっきりとよく通る。見ればこの魔術の中央に、この食堂で詩人や大道芸人が芸を披露する場所で、歌姫が一人、立っていた。

 ピンク髪の、素朴ながら純真さを感じさせる美貌を持つ少女。年齢は姫さんより二つ下くらいだろうか。十代前半。この宿屋は旅人向けということもあり、旅人の多くは二十代以上。それを考えると余りにも若い。


 そんな少女が、この魔術の中心で、歌を披露していた。


 ――ああ。

 何故か、俺はその歌に聞き入っていた。先程まで、俺は別のことを意識していたはずなのに、どうしてか。何故かその歌が耳から離れなかったのだ。

 ありえないことだ。だって俺は今、未知なる魔術の前に立っている。それはつまり、彼女は俺の知らない学問を知っている。


 それよりも先に歌へ意識が行っている!?


 ありえない、あってはならないことだ。

 俺が今まで研究を続けてきた学問の道は、一体どれほどの積み重ねの末に成り立っている? 俺はどうして学問を追求しようと決めた? 何年の間、学問以外を切り捨てて生きてきた?


 命すら、生き方すら、矜持すら、全てを捨てて成り立っている自分という立ち位置にどうして俺は疑問をいだいた?


 ――気がつけば呆然としていた。


 そんな中で、ただ彼女の歌だけが、俺の耳の中へ、突き刺さるように入ってくるのだった。



 ――



 宿の通路で、件の少女を見つけた。

 風呂上がりなのか、宿の寝間着に着替えてすまし顔で俺の前を通り過ぎようとしている。気がつけば、声をかけていた。


「す、すまない! 少し、お時間をよろしいだろうか」


 声が上ずるなんて何年ぶりだ? 少なくとも、この人生では初めてのことだ。ラグナが部屋で寝ていてよかった。こんなところをあいつに見られたら、一体どんな反応をされるか。

 一生からかわれるくらいなら、まだいい方だ。


「ふぇっ!? な、なんでしょう!」


「ああ、失礼。俺はオースティン。学徒……ああいや、先日までユグドラス総合学院で教鞭を取っていたものだ。まぁ、先日職を辞することになったのだが」


 卑怯と言えば卑怯な話。

 この王国で、学院の教師だったと言えば、当然それ相応の立場が証明される一つの免罪符。不当に追い出されたとは言え、リアリスはきっと追い出された俺にだって怒りを覚えているはずだ。

 勝手な人だ、と。そんな俺が学院の権威を笠に着るのは、なんとも卑怯な話。


「きょ、教師様ですか!? す、すごい人なんですね……?」


「いや、すごいと言うには、教えていた学科は零細もいいところなんだが……本題に入っていいかな。君の先ほどの演目のことなんだが」


「……あ、ライブ見てくれたんですか!?」


「ライブ……?」


「はい! 私が考えたんですけど。ああやって道化術を使って歌って踊る。魔術によって作られた偶像の生の姿。アイドルライブって呼んでるんです」


「――道化術」


 なるほど、聞いたことのない魔術だ。

 彼女が編み出したのか、はたまた誰かが彼女に伝授したのか。


「ああ、素晴らしいライブだった。それでそのライブについてなんだが……道化術、といったかな」


「ありがとうございます。えっと、道化術は私が作ったんですけど――」


 ……前者か、この子は非常に稀有な学問の創作者……“魔法使い”というやつなのだろう。俺も、幾つかの学問において魔法使いの立場にあるが、歴史上魔術を学ぶのではなく創る存在は、数えるほどしかいない。


「どうりで……あの魔術は学院でも見たことのなかったものなんだ。王国の叡智が集まる学院でも、だ」


「そうなんですか? あんなすごい学院なら、こういう魔術の一つはあると思ったんですけど」


「まぁ、いずれ科目の一つに加わるかもしれない。それで、なんだが――」


 さて、ここからが本題だ。

 この少女は純真なのか、はたまた俺の立場を信用してくれているのか、随分と俺の言葉に好意的だ。なんというかそんな少女に取り入るのは自分が悪いことをしているような気もするが、俺の存在理由として彼女にそれを頼むことは絶対と言っていい。


「――俺に、君の道化術を教えてくれないだろうか」


「え、ええ!?」


 帰ってきた反応は、思ったとおりの素直な困惑だった。

 これまでの会話からでも、彼女が自分の魔術を特別だと思っていないことは明白だ。彼女にとって魔術とはライブのための手段でしかないのだろうから当然といえば当然だろうが。


「君が作ったということは、道化術は君しか知らない知識なんだ。それは素晴らしい財産なのだが、学院で教師をしていた身としてはそれが後世に残らないことは、財産の喪失と感じてならない」


「え、ええ? そ、そこまでですか!?」


「そうだ。君のライブは素晴らしいが、それを支える道化術もまた、素晴らしいものなんだ。どうかそれを後世に残す手伝いを俺にさせてほしい。謝礼なら幾らでも払う!」


 畳み掛ける。最後に付け加えたように謝礼の話をするが、彼女がそこで反応が変わる。


「しゃ、謝礼なんて受け取れません! 道化術を教えるくらいなら、この雨と土砂崩れの問題が解決するまでの時間でなんとでもなりますし、それくらいなら私、全然構いませんから!」


「そういうわけには行かないだろ。俺は依頼者で、君に教えを請う生徒なんだから。学院でもそうやって謝礼というのは必要な前提だ」


 知識を学ぶということは、相手の財産を譲り受けるということだ。これは俺の持論だが、その間には信頼関係も大事だが、誰の目から見ても解る合理的な契約が必要で、その最も簡単な方法が金銭の授受なのだ。

 もし、これがタダでもいいということになったら、それは相手の善意だけで契約が成り立っているということになる。それは道理が通らないだろう。


 これに関しては、俺もリアリスの姫さんも、珍しく気が合うことだろう。対等な契約というのが後腐れがなくて好きなのだ、俺も姫さんも。


 対してこの子は、人が良すぎるきらいがあるが――


「……そういうことなら、一つお願いしてもいいですか?」


 だからこそ、俺が真剣にその契約関係を望めば答えてくれるはずだ。


「なんなりと」


「わう、貴族様みたい……じゃなくてえっと。私、あの山を越えた先の街で、大きなライブをしたいって思ってるんです」


 山を越えた先。俺と目的地は一緒ということだろう。ユグドラス王国最大の港町にして、貿易と文化の街。あそこでは多くの人々が行き交い、各国の文化が集まる。

 彼女のように、芸で一旗揚げようという者も多い。その中で、ああいった演目――ライブをするというのは自然なことだ。


「そのお手伝いを?」


「えっと……はい。何分初めてのことなので、うまくいくかはわからないんですが……あ、いやえっと、お兄さんがお暇じゃなかったら、っていう前提もあるんですけど……」


「もちろん、君に力を貸すことに異存はない」


 実際には、姫さんに見つかると偉いことになるのだが、俺が新しい学問を見つけたとなれば、俺が見つかった理由を知った姫さんも、どうして俺が見つかったかに付いては凄まじく納得してくれることだろう。

 その後の姫さんの癇癪については、アレだ、その時になってから考えよう。

 学問の探究は何よりも優先される。俺の生きる意義そのものだ。


 ――本当に?


 そんな心底の疑問符をスルーして、俺は続ける。


「そういうことなら、契約成立で構わないだろうか。俺たちは君がライブを成功させるまでの協力関係。ビジネスパートナーというやつだ」


「び、ビジネ……ふわあ、なんか都会っぽい言葉……あ、はい! わかりました!」


 そう言って少女は、くるりとターンをして、通路の真ん中に立つ。あ、今俺がすっと手を伸ばして握手を求めたのには気が付かなかったようだ。俺はそっと腕を伸ばして笑みを浮かべる。

 寂しくはない、ほんとだ。


 それから彼女はピシっとポーズを決めて。


「私、ライラっていいます! 夢はアイドルとして多くの人をライブで笑顔にすることです。よろしくおねがいします!」


 ――名を名乗った。

 なるほど、これは確かにアイドルらしい名乗りだ。握手よりは、よっぽど彼女が解るというもの。


「俺はオースティン、最近まで学院で教鞭を取っていた。少し不当な理由で学院を追われてしまって、今は職はないのだが、まぁ学徒であることに違いはない。よろしく頼む」


「そ、そういえば学院を追われたって言ってましたけど……今、大丈夫なんですか?」


「教師時代、給料はほとんど貯金していたからね、死ぬまで質素に暮らすくらいの蓄えはあるよ。学院を追われたのも、まぁ向こうに問題があっただけだから、気にしなくていい」


「そうなんですか……えっと、じゃあ」


「ああ、改めて……よろしく頼む、ライラ」


「はい、オースティンさん!」


 ――こうして、俺とライラ。

 元教師とアイドルという異色の契約関係は成立した。


 そこからの話は、まぁまたの機会というやつだろう。ライラのことをラグナに伝えたら、でしょうねという冷たい目線を返されてライラを困惑させてしまったり。港町にたどり着いたものはいいものの、無名の芸人でしかなかったライラに到底大規模な会場でのライブというのはムリな話で、その権利を勝ち取るためのオーディションを兼ねた大道芸大会に参加したり。

 そこでのライラの評判から俺の存在を嗅ぎ取ったリアリス王女が突如として港町にやってきて、騒動を起こしたり。何故か港町の海に眠っていた大怪獣が目を覚まし、俺やリアリス、それからライラも加わってそれを鎮めたりなどなど、色々ととんでもないことが起きるわけだが。


 まぁ、しかし。

 俺はこの時、自分の本心から目をそらしていた。道化術というライラの魔術。新しい学問という俺の本懐を言い訳に、自分の本音を、奥底へ、奥底へ――しまい込んでしまった。

 そのことが後に、大きな事件につながってしまうのだが。


 それもまた別のお話、だ。

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