恐怖体験な続
身体が自由になったバロンは薄目を開けて私の様子を確認した後に、寝台の端の、ぎりぎり手足が届くくらいの位置で腕を枕に丸くなった。
円を描く身体の真ん中、お腹の部分に手を差し込みたい衝動に駆られるのを必死に我慢し、もう一匹のもふもふへと視線を移す。
アイギスはバロンのブラッシングを始める前から変わらず扉の前で見事な土下座を披露している。
バロンの魅惑のお腹を触り損ね、ブラッシングもできなかった部分も存在し、消化不良のもふもふ欲が残っている。
これを解消するためには更なるもふ分の補充をしなければならない。
見つめ続けてもアイギスの顔が床から離れる様子はない。寝ているわけではないだろう。
小さく揺れ続けている耳の動きは寝ている時のそれではなく、同じ姿勢を続けることで酷使された筋肉が悲鳴をあげている時の揺れだ。
辛いのなら顔を上げればよいと思うが、上げた瞬間にバロンと目が合った場合を考えると恐怖で動き出せないのだろう。
先住猫の恐怖政治にさらされる後輩を助ける方法を誰か教えてください。いや、バロンだって悪くないんだけどね。
凝視する圧に負けたのかアイギスが恐々と耳の隙間からこちらを見上げてきた。
上目遣いで震えながらこちらを見るアイギスも可愛いな。
アイギス専用のブラシを構え、笑顔を返す。アイギスはこちらを窺う姿勢のまま数秒間固まった。
心配しなくてもバロンは見てないよ~。なんか壁を見つめたまま動かなくなってるよ~。本気で怖いからそろそろ動いてほしいよ~。
私の念が通じたのかアイギスがそろそろと寝台に近づいてきた。
ありがとう、アイギス。本命はバロンに動いてほしかったんだけど、アイギスがそばに来てくれて心強いよ。
虚空を見つめ続ける猫のそばに一人でいることが耐えられなくなってきていたので、アイギスの存在がありがたい。
「アイギスもブラッシングしようね~」
のそのそと膝の上に乗って来たアイギスの頭を優しくなでて、かるく全身を確認する。
毛玉ができている様子はなく、汚れが付いている様子もない。耳もきれいな桃色だな。よし。
汚れと言ってもこの世界で地面の土が衣服や表皮を汚すことはない。事実、アイギスと出会った時に東の草原で転んだが手足に土が付いたりはしなかった。
地面を歩いた後のバロンやアイギスの足の裏を見ても土汚れもない綺麗な肉球だったし、この世界で真っ白な毛皮が汚れる機会はほとんどない。
老廃物が排出されることもないようで、トイレなどの施設も存在しない。そのため、アイギスの毛皮が汚れるのは専ら食事の時のみである。
口周りに食べかすなどが付いても気にせず食べ続けるので、食後に口周りを拭くことが日課となっている。
しかし、この世界には食べ物があっても残飯は存在しないので、ごちそうさまと手を合わせた瞬間に汚れた布巾は洗いたての美しさを取り戻す。
便利なことに、食事を包んでいた包装紙や骨などの可食部以外の部分もその時ともに消える。
これを密かにごちそうさまの魔法と呼んで有難がっている。食事のたびに汚れるハンカチを洗濯するのも大変なので。
アイギスの装備をはずし、近くの台の上に置く。そして、ゆっくりと頭上に置いた手を背中側に移動しなら梳くように毛のほつれがないかチェックしていく。
指通り滑らかで長い毛のどこにも引っかかることなく確認を終える。ブラシいらなかったかな。
そうすれば手で梳き続けてこの幸せな時間が終わることもなかったのに。でも、櫛で梳くことでマッサージ効果が期待できるし、毛艶も良くなる筈だ。
素早く優しく全身の毛を整えていく。どさくさに紛れてバロンの時には触り損ねたお腹も撫でまわしつつも、ブラシを滑らせる。
進化したアイギスの毛は柔らかさをそのままに増毛し、さらに一本一本が長くなっている。進化ってすごい。進化って素晴らしい。
膝の上のアイギスは特に暴れる様子もなく大人しくブラシを受け入れてくれている。
猫の場合はタイミングを間違えたり、梳き方が下手だったりしなければブラッシングを心地よく受け入れてもらえることが多い。
というのも猫にとって毛づくろいは己でする以外にも他の猫からしてもらう愛情表現の一種らしいのだ。
しかし、ウサギの場合、臆病な性格の子が多いため慣れないうちは触れ合いに恐怖を感じてしまい、猫と比べるとブラッシングが嫌いな子が多いようだ。
慣れると気持ちよく受け入れてくれることもあるようだが、ブッラシング初心者のアイギスはもしかして嫌だけど我慢して受け入れてくれているのかもしれない。




