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家を出て死のうとして、結局生き残って戻ってしまった話。

作者: 零戦一号

俺を知ってる奴にはこう言おう。

『言ったろ? 俺はこの手の事にはそれなりに強いんだって』

約20年も計画を積み上げてきた、とも言ったな、あれは本当だ。

キッカケは些細な事の連続した積み重ね、世界大戦が些細な事件の連鎖で起きたのと同じように、つまらない理由の積み重ねだった。

『なにもしてないくせに』家事をしてるのは誰だ?

『家の事で色々苦労かけてるけどさ』舌の根も乾かぬ内に掌返しか?

『これが普通の顔なのか、えぇ!?』いきなり掴みかかって来て洗い物の邪魔をした挙げ句に顔面やら人格全否定とは良い御身分だな?

『もう少し母親に譲歩しろよ』これ以上ナニを譲れと?

そしてあのハロウィンの日、引き金を引いたのは母の一言だった。

『この家を出て死ね!』そう言われた瞬間、急速に頭が冴えるような感覚がした、アレは病み付きになる。

言われなくとも出ていくさ、予め用意していた用具をかき集め、へそくりと自転車と傘をかっぱらい、目指すは松山観光港。

揮発性メモリーと言われるような記憶力とはいえ線路、海、駅を目印にひたすら自転車をこぎ続けた。

幻聴の賑やかな声援と幻覚の賑やかな先導を受けながら、自由を掴むんだ、と晴れ晴れとした心で、何も不安など抱かずに突き進んだ。

もう吐瀉物も排泄物も処理しなくて良いんだと、包丁で斬られる心配も無い、ガスコンロの火に手を突っ込む事も無い、自由に生きて自由に死んで良いんだと。

ゼロ(赤)「同志よ、標識だ、あの標識を目印にするんだ!」

ゼロ(米兵)「後悔する必要は無い、我々は自由になる権利がある」

ゼロ(軍人)「我々は塗炭の苦しみを臥薪嘗胆の思いで耐えてきた、今動かずして何時動く、片道切符なぞ今更だ、進め!」

空を仰げば零戦がバンクしながら先を行く、そんな賑やかな幻影と共に辿り着いたのは・・・

ゼロ「ありゃ松山空港だ、航空隊の基地じゃないか!」

ゼロ(赤)「同志よ、どうやら西に進路を取りすぎたようだな」

ゼロ(軍人)「なに、ここから海を左に見て進むだけで港に着ける、迷子の心配が消えただけ儲けだろう」

そして日暮れをタイムリミットとして全力で自転車を走らせること自宅から約4時間だったか、やっとの思いでフェリー乗り場へたどり着き、片道切符を買った。

親に死ねと言われて追い出されたんで呉に行くと言った時の係員の顔は今でも忘れられない、そんな親が居るのか、とでも言いたげな顔だったからだ。

生きてればなんとかなるとかフェリーでは死ぬなよとか、止めはしないが迷惑な死に方は止めてくれと言われて見送られたのは良い思い出、ありがとうございました。

とはいえ、今でこそこうして生きて本文を書いてるが当時は本気で死にに行く事を大前提として呉に行ったのだ。

寒いが外よりはマシな船室の椅子で夜景を眺め、ついに後戻り出来ないなと思うと笑みを抑えられなくなった、笑い声を出さなかっただけ褒めて欲しい程に。

そして呉に着いた頃には19時頃、ゲームのフレンドの一人で唯一連絡可能なM氏に連絡すると驚いた事にゲームのフレンド達が騒いでいたそうだ。

『零戦が失踪した!』となめくじ(ゲームのフレンド)が方々に騒いで回った挙げ句Twitterのグループチャットが作成され、零戦は何処だ、迎えに行けるか、色々と騒いでたのを覚えてる。

私なんぞが消えた程度で大袈裟な、と呆れたのが正直な感想だったがレザさん(これまたゲームのフレンド)までもが。

『零戦さん消えちゃうの? じゃあもうゲームする理由無くなっちゃうからネットから離れちゃうなぁ』的なコメントをする始末。


お前らこんな何の才能も取り柄も無い男に執着し過ぎだッ!?


マリサさん(ゲームのフレンドで鉄オタ)も『1万ちょいで青森のM氏まで駆け込めるよ!』とか言い出す始末、行かねーよ!?

まあ、帰りの手段が無く、宿も無く、大和ミュージアムの大和桟橋で寒さに凍えながら夜を明かす事になったのだが。

頭痒くて近くの公衆便所の障がい者用の所に温水シャワーあったんでそれで頭だけ濯いだけどな、昔知り合いだったホームレスの入れ知恵。

・・・片道切符だったので呉に逃げてから先を考えてなかったのだ、ただ親という恐怖の対象から逃げたかった。

突き詰めれば、結局は価値観や視点、物事のまとめ方の違いが重なって致命的なすれ違いを起こしていただけだったのだが。

我が家の場合、それが結構めんどくさい感じなのだ。

先ず空気の読めなさに関してだが。

私『読めないなら割り切って読まないで行こう、読めるところは読むけど』

母『読めない解らない』

父『読めるけど家族間の空気は価値観の相違から読めてない』

んで物事のまとめ方の違いは。

零戦「家の事と外の事」

母【不明なので未記載】

父「仕事、家、家事、その他色々と細かく分別」

・・・私にとっては母の介護と家事は家の事で同じだった、つまりこの時点ですれ違いは大きくなっていた。

単身赴任もあって約10年の溝もあった、家族間の暗黙の了解のようなものもない訳じゃない、それが家族間の溝を増やし、深め、そして開いていったのだ。

気付いて無かった訳じゃ無いし、どうにかしようと試みもしたが、まぁ、すれ違ったままでどうこう出来るなら苦労は無い訳で。

寒さに震え、手足の痺れと意識の薄れを感じつつ、皮肉を言うハズだった最後の電話が、一時の和解と帰宅の決意のキッカケとなった。

先ず呉到着、M氏と電話、ゲームのフレンド達とTwitterで雑談(死ぬなよと釘を刺されまくった)、最期だしと親に電話したらギャン泣きされた。

『おいおい、出ていけつったのはアンタと親父だろう? なにを泣いてるんだ、うそ泣きはよしてくれ』

『俺が居なくても回るつったのはアンタだ、喜んでくれても良いんじゃないか?』

『カカッ! テメェが俺を心配するようなタマか?』

結構本音をマシンガンの如くぶちまけた記憶はある、寒さで意識が薄かったのもあるだろうけど。

まさか親父が泣くとは思ってなかったんだよな、うそ泣きじゃ無くてガチの泣きだった、ちょっと引いたのは秘密だ。

そいでまぁ『なら、生きて夜を明かせたら帰るよ』とだけ言って終わりにした、最後まで『そこは約束しろ』『出来ない約束はしないタチなの知ってるだろ』と押し問答したてけど。

んで、結局寒さで寝れなくて、夜明け頃にフェリー乗り場の無料休息所が開いたんでそこに駆け込んで暖をとってなんとかなった訳だ。

でも何も無しに帰ったんじゃ負けた気分ってんで、意地で大和ミュージアム回ってきた。

まぁ、修学旅行とかと被ったのか団体が物凄い数だったんだけどな、あと特別展示があってな、水上機の展示があったんだ。

青地に白のブループリントとか木製のプロペラは見ただけでも凄い迫力だったぞ、定規型の計算器具とかも面白かったな。

エンジンの展示も素晴らしいモノばかりで遊園地に行った子供のようにはしゃいだよ、徹夜明けだの家出してたのも忘れて、な。

艦船の模型も見た、零戦の後期型で20mm機関砲4門の型があるんだがソイツの展示も見た、床に特攻兵器のブループリントが描かれてて戦慄したりしたけど。

何故かミズーリの砲塔の展示もあったな、バト■シ■プかな? エイリアンと戦わないといけないな。

あとはやぶさ2の展示もちょっとだけ、再突入カプセルが小さいのになんかこう、圧が凄かった、これがサンプル抱えて大気圏突入するのか、と。

人が多くて大型模型大和の下側には行く暇が無かったが、満喫するにはした、土産物もちょっと買ったし。

本当にタダでは転ばない的な気合いで見て回った、ボイラーが私4、5人分のデカさでホケーっと見上げたりしたのは秘密。

アズー■レー■というゲームの公式チャンネルで戦艦三笠の内装や軽巡洋艦ベルファストの内装等を見たことがあったので驚きはしなかったが。

やはりそれでも実際に見るというのはまた違うモノで、ただの模型に気圧されるという新鮮な感覚を味わいまくった。

そして帰りのフェリーは幸運にも新型のちょっとお洒落で豪華な方のフェリー、昼でそれなりに暖かいのもあったので屋外の席で写真を撮りまくった。

自衛隊の基地もあったので護衛艦を遠くからだがパシャリとした、流石呉、来て良かった。

次来るとしたらちゃんと観光出来る時間割りで来たいなと思う、可能なら厳島神社にも行きたかった(実際帰る決意が無かったら行ってた)

帰りは地獄だったな、顎も歯も首も尻も何もかもが痛いんだ、運動不足ってのもあったが、それなのに無理して数十キロ走り続けて徹夜まで重ねたのだから当然である。

そして帰宅、幸い表面上はなんとも無かったが、これを書いてる今でも結構戦々恐々としてるのが実情だ、だからトラウマと言うんだと言われればそれまでだが。

丸1日飲まず食わずで行った家出強行軍、感想としては尿道が痛いレベルの濃い尿が二日は続いたのと、空腹時に普通の飲食が毒と言われる理由を身をもって味わった点くらいか。

あのな、洒落にならんレベルで腹を下した、水分不足なのに水下痢ってことは水分が上手く吸収出来なかったという事だし、ペースト状の下痢は消化が過剰なのかなんにせよ正常じゃ無いって事だ。

そんな訳で、次に家出する時はもう少しへそくりを貯めて宿の確保が出来る程度にプランを練ってからにしようと学んだ。

トライ&エラー、今回の家出の失敗から次に繋げないとな、本当に家を出るつもりだったのは事実だし。

ゲームのフレンド達に関しては、素直に嬉しかった、親と違ってストレートに引き留めにかかってくれたのが特に。

そして無関係なのに偶然呉に来ていたZ氏に後ろ姿をパシャリされてたのは草。

ちなみに全身筋肉痛は約2日経った今も続いており、日常生活に支障が出てる、つらい。





【11月9日追記】

ハロウィンに家出して、翌日に帰還した、それだけの事だが・・・困ったことになっている。

人とは上を知るともっと上を際限無く求める獣だと誰かが言ったが、その通りだと思う。

事実、あの家出以降、もっと金を貯めてもっと綿密に計画を詰めて、もう一度家を出たいという衝動に襲われるようになったからだ。

お陰で金にがめつくなったようにも感じるし、親に対する価値観が変わったようにも感じる。

・・・自分を実験台としてアレコレ考察してるイカれた趣味なのは自覚してるのでそこは触れないでくれ。

ともかく、私はどうやらあれほど死にかけて懲りたというのに、また死にに行きたくて堪らないらしい、困ったことに。

精神病は心、もとい頭の病とは知っていたが。

これはちょっと想定外だし思った以上に厄介な病気だと実感している。

こうなる前から厄介だとも、面倒だとも、デリケートだとも、そう認識していた。

認識は正しかったが、度合いの見積もりが甘すぎた。

自分の病気を、自分をモルモットとして、自分で自分を観察してる時点でお察しと言われればそれまでだが。

自傷行為の衝動も1時間近く続く場合もある、家出の衝動もその内それだけ長くなるかもしれない。

あの日、みんなに引き留められていなければ、私は間違いなく呉のあの場所で凍死してただろう。

まぁ、死んだ軍人の教えに従って『撤退する勇気』とやらを発揮出来たのは、幸運なのかもしれん。

でなければこうして話すことも出来てないのだしな。

私は『こんな何の才能も取り柄も学も何もかもが無い人間が1人消えた所で何も起こらない』そう思っていたんだ。

まさか速攻でTwitterでグループチャットは立てられた挙げ句M氏から電話がすっ飛んで来るとは夢にも思ってなかったんだ。

ただ目の前の自由と死に喜んでいただけだったんだ、あの日の私は、自分は本当の意味で人間になったんだ、と。

引き留められた事が嬉しいかと言われれば、確かに嬉しいが、それでも、そこまで騒がれるような人間とは思えなかった。

だが『お前が消えて悲しむ奴が一人でもいたのなら、全力で逃げろ』そんな感じの言葉をくれて軍人に感謝だ。

お陰で私は気合いで夜を明かし、恥ずかしながらも家へ帰還した。

本当に恥ずかしかったんだからな、二度と帰らないと決めたハズなのにたった一晩で掌返しておめおめと帰ったんだから。

・・・まぁ、良い経験ではあった、それは確かだ。

確かにあの日の私は誰よりも自由だったのは紛れもない事実だったしな。

命の危険と引き換えに得られた本当の自由は、麻薬のように甘美なモノだったよ。




【11月14日追記】

そろそろほとぼりも冷めたと思うので改めて振り返り(日数的にも丁度良いかなって)

アレは、いや、最初のキッカケは父の言葉だった。

『なにもしてないくせに』

炊事、洗い物、洗濯、母の監視、年中無休、それを無いモノと扱われた日。

『お前には家の事で色々迷惑かけてるけどさぁ』

舌の根も乾かぬ内に吐かれた虫の良すぎる発言。

『これが普通の顔か、えぇ!?』

洗い物を邪魔され、服を捕まれ強引に鏡の前に立たされて言われた顔面というか人格否定。

『もういやだ』どこぞのコトワリサマを望む程度には追い詰められていた私は密かに荷物を纏めていた。

予定は片道、ゴールは四国脱出の後に人気の無い場所での死亡。

タイムリミットは親に悟られるまでに四国を脱出している事。

高知ルート、現実的では無い、土地勘も無いし山が邪魔だ、運動不足の身には無理がある。

香川ルート、距離的に電車等の交通機関の利用が前提だ、予算的に非現実的だ。

となると自転車で松山観光港へ行き、そこから何とかして広島へ脱出する、それが時間的にも予算的にも現実的かつ確実なルートだろう。

記憶力に乏しい私でも海を目印に走れば辿り着ける場所ならなんとかなるだろう、と。

だがあの日は土曜日、父が半ドンで帰ってくる場合のある日だった、計画の露呈を恐れた私は速やかに作戦中止を決断、即座に取り出せる場所に荷物を隠した。

そして決定的な一言を吐かれたのだ。

『この家を出ていけ、そして死ね!』

あぁ、言われなくとも出ていくさ。

昼なのに寒気を感じる程に冷えた頭は驚くほど冷静かつ速やかに作戦決行のために身体を動かした。

『自由のために』『我々は奴隷では無い』『戦え』

誰かがそう叫ぶ、私だけが聞こえる、私だけが見える彼等に押され、私は日の傾き出した町へ逃げ出した。

『俺たちはいい、イカれてると言われたって、やるんだ、自由のために』

大通りやコンビニ、ショッピングモールなどの前を避け、監視カメラを警戒しながらひたすらに北西を目指した。

失敗は見た目だけは防寒性能のありそうな夏服で出た事だろう、お陰で凍死しかけた。

寒さで気が遠くなる感覚は未だに覚えてる、あのまま意識を手放したかったとも思っているが。

それはさておき、夕日に焦りを感じつつ、自転車を必死に漕ぐ私はパトカーと数回程ニアミスして冷や汗を流したのだが。

一番緊張したのは事故処理車と警官の直ぐ隣を歩くハメになった瞬間だった。

目の動きはおかしくないか、呼吸は乱れていないか、振る舞いはおかしくないか、様々な危機感が警鐘を鳴らしていた。

『職務質問されたら全てが終わる』

勿論計画の中には道中で警官に捕まる可能性は想定されていたし幾つかの回避用話術も用意していた、それでも確実とは言えない以上は恐怖の方が勝ったのだ。

恐る恐る会釈をしながらすれ違い、道路を渡り、距離が離れてようやく鼓動は落ち着き、呼吸の乱れも整った程だ。

『まるで犯罪者だな』『逃げるという点では大差無い』『ちげぇねぇ!』

間抜けな警官共だ、とマスクの下で笑いながら辿り着いたのは何故か松山空港。

『松山基地だ!』『なんてこった、俺は航空機が恐いんだ』『真水を用意しないと』

乗らないんだから慌てる必要は無い、行き止まりで引き返すハメになり、事故処理車と再び道路を挟んで鉢合わせる方が問題だった。

『うろついてると感付かれないか?』『もっと距離をとれ、サイクリングを装え』『ママチャリでか?』

再び冷や汗を流し、目を見開き、普段はすがりもしない神にすがり、私は警官の目をすり抜けた。

『ちょいと危険だがあの事故処理車を途中まで追え、少なくとも行き止まりに迷い込む事は無いしこの方角なら港へ行ける』

ピンチはチャンス、遠くに事故処理車の赤色灯を見ながらほんの少し道案内をして貰った。

そして海沿いの道へ出た。

『海だ! もう少しだぞ』『もう夕暮れだ、急がないとフェリーが無くなる!』『ここまで来れば間に合う、休まなければ良いだけだ』

火事場の、とは良くいうが本当にあの時の私は疲れを知らなかった、延々と漕ぎ続け、周囲を見渡し、事故に気を付けながら、絶対に辿り着くという意思だけで走っていた。

そして標識の【松山観光港】を見て歓喜に打ち震えた、やっと辿り着いたのだと、自由の切符は目の前だと。

『フェリーだ、フェリーが見えるぞ!』『落ち着け、まだ乗れると決まった訳じゃ無い、急げ!』

轟音と共に先行する戦闘機を追うように私はひたすらに港を目指した、フェリーの灯りを頼りに。


港に着いたときには、もう日暮れの手前だった。

『なんとか、間に合ったか?』『それはチケット売場で分かる事だ』

そして親切な受付の案内を受け、フェリーのチケット売場へ案内された。

「自転車で呉まで行きたいんですが大丈夫ですか?」「はい、大丈夫です、往復ですか?」「いえ、片道(切符)です」

フェリーの割に案外安いぞ自転車付き3800円。

「観光に?」「いえ、家を出て死ねと言われたので死ぬ前に行きたいところへ行こうかと」

そう答えた時の目を見開いたおじいさん(スタッフ)の顔は今でも思い出せる、目玉が飛び出るんじゃないかというほどの顔だったからだ。

そして案内されたレーンで待っていた時、他の40代と思われるスタッフ約2名にも話しかけられた。

「死にに行くんだって?」「えぇ、親にそう言われたので」「どこかアテは?」「あったら死にませんよ」「まぁ生きていれば良いことがある、なんとかなるさ、フェリーでは死なないでくれよ?」「大丈夫です、その意味は重々承知しています、あなた方に迷惑はかけません」

海と川で死ぬのは止めておけとも言われた気もするがそれはさておき。

昔、キスカ島の逸話に『巡洋艦が戦艦に、駆逐艦が重巡洋艦に見える程に頼もしく見えた』という話を思い出した。

なぜなら、小さなフェリーが巨大で、自らのために迎えに来たかのように見えたからだ、頼もしく、救いの女神の如く美しく感じた。

そしてフェリーに乗り込み、バッテリー節約のためと位置情報を割られないための電源オフを一時解除し、M氏に電話した。

『消せよ!? 絶対に消せよ!?』『いやぁ、大丈夫、他言はしない、代わりに家を出た時、電話してやる』

約束とも言えない約束だったが、まぁ、私にとって大切な友人だ、別れの言葉くらいは、と、まぁ当然出て貰えなかった訳だが。

私だって非通知から電話が来たら無視するので苦笑いしつつ電源を落とし、遠くにチラつく橋や街灯、コンビナートの炎を見ながら椅子に身を沈めた。

『よくやった同志ゼロ、我々はこれで後戻り出来ない代わりに自由を得た!』


呉に到着した時、もう夜の闇と冬の冷たい空気が辺りを包んでいた。

あぁ、これで私は独りぼっちになったのだなと、失った代償に苦笑いしながらも、目当ての大和ミュージアムと鉄のくじらに気圧された。

私の死に場所に相応しい、そう思う程に、私はあの場所に惚れ込んだ。

そこからは知っての通りだ、公園のベンチで死にかけて、更には大和桟橋でも死にかけた。

『眠れ、眠るんだ私、そうすれば私は救われるんだ!』

そう何度も言い聞かせて目を瞑り、結局寒さで眠ることすら出来なかった。

越すつもりも生き残るつもりも無かった夜を越えて、のうのうと生き延びてしまったわけだ。

そして今、こうしてあの頃を振り返る文章を書いている。

本当に、死ぬつもりだったんだがなぁ。

みんなも家出をする時は最低でも4、5万は用意した方が色々と楽だぞ!(教訓)

それと季節は冬の方がオススメ、夏は虫刺されで地獄を見るから(実体験)

そして最後に、本文は自殺や家出を推奨する目的は無く、あくまでもこんな目に遭ったという記録であることをここに念押しさせて頂きます。

みんなも命を粗末にしちゃいけないぞ?

ちゃんと使いどころや燃やしどころを間違えないようにしないと本当に捨てる事になるからね。

間違えなければ、命を捨てるつもりで打ち込んでも不思議と生きてる、それが命の捨て所の不思議な現象なのよ。

そういう点では命の捨て所を私は間違えなかったし、幸運の女神にも微笑まれたのだろう、あの寒さで凍死してないのが良い証拠だ。

※年中着れるアクティブパーカーに半袖シャツという薄着※

※パンツ、ステテコ、年中はける長ズボンという薄着※

※本当に片道切符のつもりで死ぬ予定でいたので凍死も視野に入れての薄着だった※

いやぁ、正直な話、あの夜の時点では『まぁ、これで生きてても死んでも良い感じに落ち着いたな』と安心してたのもあるのよね。

大和桟橋の艦橋のベンチで震えながら『焦がれた地で死ぬのも、悪くは無い、さて、天は私にまだ地獄を生きろと言うのかどうか』なんて不敵な笑みを浮かべる程度に精神的には余裕だったし。

まぁ、カエレ!ってな具合にあの世には嫌われたのか生き残った訳だがな、死んだつもりだったんだがね。

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