春のマラソン大会
「今日の体育マラソンだってー! グラウンドに集合なー!」
体育係である隼人がもたらした情報に、着替え中だったぼくたちは揃って肩を落とす。
「やっぱりかー。そろそろ来る頃だとは思ったけどな」
「もうスポーツテスト全部終わったもんね」
今までは年度初め恒例の、『スポーツテスト』と呼ばれる体力測定が体育の授業の中心だった。だけどこれからしばらくは、マラソン漬けの日々が続く。五月の中旬に、春のマラソン大会があるからだ。
ぼくたちは重い足を引きずりながら、ぞろぞろとグラウンドへ向かう。スポーツテストのシャトルランも嫌だったけれど、マラソンはもっと嫌だ。だってシャトルランは一回やれば終わるけれど、マラソンはこれからしばらくの間続くのだ。毎年のことだけれど、ぼくはこの季節になると憂鬱な気持ちになってしまう。
「さあさあ! みんなお楽しみのマラソン大会の季節がやって来ました!」
グラウンドに整列したぼくたちの前で、でっぷりとした男の先生が笑いながらそんなことを言う。この先生は一組の担任の先生で、五十嵐先生という。今日は、一組との合同授業だった。
五十嵐先生の発言に対するみんなの反応は、冷たい。楽しみにしている人なんて、まずいないからだ。
「というわけで今日は練習として、本番と同じ距離を走ります。女子は四周、男子は五周だな。はい! じゃあ怪我しないよう、準備体操しっかりやるぞー。前列広がってー」
はぁ、とあちこちからため息が聞こえてきそうだった。五年生になって、周数が一周増えてしまった。去年までは、男子も四周だったのに。グラウンド一周が二百メートルだから、五周となると一キロだ。無理だ。去年の四周だってきつかったのに。ていうか女子だけ四周なんて、ずるい。男女差別だ。
しかしどんなに不平不満を垂らしても、マラソンはなくならない。準備運動を終えたぼくたちはスタートラインに並ばされ、五十嵐先生の吹く甲高いホイッスルの音を合図にグラウンドへと放たれるのだった。
やっとのことでグラウンド五周を走り終えたぼくは、もう死にそうだった。なんとか順位ごとに並んでいる列のところまで歩くと、どっかりと腰を下ろす。体中が熱い。喉はからからだし、息は上がりに上がって苦しい。全身が心臓になったみたいだった。
ちょっと落ち着いてきたところで、自分の順位を確認する。真ん中より少し後ろ、という感じだった。まあ、だいたいいつも通りの結果だろう。上位の面々を見てみると、お、隼人が二位だ。それに、翔太が七位。今日は一組と四組しか走っていないから、本番では単純計算で倍近く順位が下がることになる。それでも、すごいと思う。ぼくにとっては、羨ましいかぎりだ。
自分より後ろの順位の人たちに目をやったとき、ぼくのすぐ後ろに見知った顔があることに気がついた。
「タケちゃん」
「よーイオ。お疲れちゃん」
同じクラスのタケちゃんだった。本名は、岸武尊。
「どーよ、イオ。調子は」
「うーん、ぼちぼちってとこかなぁ」
ぼくは、さっきまでの走りを振り返ってみる。特別気合いを入れたわけでもないし、適当にだらだら走ったわけでもなかった。
「そかー。今日のこの感じだと、オレたち、ぎりぎり速い方に入るかもな」
「うわあ……嬉しいような、嫌なような……」
ぼくは、苦笑いする。
タケちゃんの言う『速い方』とは、マラソン大会本番でのグループ分けのことだ。ぼくたちの学年の男子は、大体六十人くらいいる。その人数が一度に走ってしまうと多すぎるので、二つのグループに分かれて走ることになる。Aグループ、Bグループと名はついているけれど、実質、足が速いグループ、遅いグループという意味だ。このグループ分けは、練習のときのタイムによって決められる。ぼくは三年生までは、ずっとBグループだった。だけど徐々に体力がついてきたのか、去年からはぎりぎりAグループに入るようになっていた。足が速くなったことは喜ぶべきことのように思えるけれど、現実はそう単純じゃない。Aグループには、当然ぼくよりも足が速い連中がわんさかいる。するとどうなるのかというと、ぼくはAグループでビリにならないために必死にならないといけないのだ。もちろんAグループでビリになってもBグループの人たちよりは足が速いわけだから、そんなに恥ずかしがることではないのかもしれない。だけどやっぱり、ビリというのはなりたくないものなのだ。ただでさえマラソンが嫌なのに、ビリになるかもしれない、という恐怖とまで戦わないといけない。それだったらBグループで上位入賞を目指す方が、気持ち的に楽だ。ぼくはいつもグループ決めのマラソンのときに、手を抜いて走ってわざとBグループに入ろうか、と直前までかなり真剣に迷う。
そんな悩みもあるけれど、まずは今日のマラソンが終わったことを喜ぼう、と決める。走る前は嫌で嫌で仕方がないのに、終わってしまうと案外あっけないから不思議だった。
そして次の日からは、『チャレンジマラソン』が始まった。これは簡単に言うと、『マラソン大会に向けて、休み時間に学校の敷地内を走ろう!』という企画である。一年生から六年生までの全校生徒が、中間休みの二十分間強制的にこのイベントに参加させられる。
軽快な音楽が流れる中を、ぼくはタケちゃんと並んで走っていた。昨日の体育の授業で、ぼくとタケちゃんの足の速さがほぼ同じと判明したからだ。タケちゃんと一緒だと、無理のないペースで走ることができる。ぼくにとってタケちゃんは仲間でもあり、ライバルのような存在にもなっていた。
「はーい、じゃあ今日はグループ分けのためのタイム計るからなー。心して走るように」
何度かマラソンの授業が繰り返されたある日、ついにグループ決めの時がやってきた。今日は、三組との合同授業だった。走る人数は、男子だけで三十人くらい。他のクラスのタイムとも照らし合わせなければ正確には言えないが、大体十五位以内に入ればAグループは堅いだろう。
「よし、スタートラインに並べー」
本気で走るかどうか、ぼくはまだ迷っている。だけど少しでも有利になるように、ちゃっかり内側のスタートポジションを確保していた。おいおい、とぼくは自分で自分につっこむ。
けたたましいホイッスルの音が鳴り響き、一斉にスタート。グループ分けとあってか、みんなの走りからはいつも以上に気合いが感じられた。一周目の段階から、ペースが速い。そんな周りからの気迫に圧されるように、ぼくの体もいつもより速く動く。
走っている間も、力を抜いてしまおうか、という誘惑はまとわりついたままだ。だけど誰かに抜かされるたびに、ぼくの中の負けず嫌いの心に火が点く。結局ぼくは今までで一番がむしゃらに、グラウンド五周を走りきったのだった。
ハァハァと荒い息を吐きながら、ぼくは前から順位を数える。
……十三位。
たぶん、Aグループだろう。
ぼくは自分のバカさに呆れつつも、これがぼくなんだろうなぁ、と納得してしまう。
「イオ、お疲れ」
「タケちゃん」
タケちゃんは汗を運動着の袖で拭いながら、ニッと笑う。タケちゃんはぼくの二つ後ろに並んでいた。ということは、十五位だ。
「タケちゃんも、Aグループになりそうだね」
「そだなー。まぁ、しょうがねぇな」
その後の連絡で、ぼくとタケちゃんは正式にAグループとなったことが判明したのだった。
その日の体育はいつもと違い、女子から先に走ることになった。ぼくたち男子は女子が走り終えるのを、木陰に腰を下ろして待っていた。
「マラソン必勝法、聞いてきたぜー!」
その声に、ぼくたちは一斉に注目する。
「マラソン必勝法?」
「おう! 貴志から聞いてきた」
えーっ、と感嘆の声が上がる。貴志くんは一組の子で、毎年マラソン大会で一位を獲っている子だ。背が高くてすらっとしていて、いかにも足が速そうな見た目の子だ。その貴志くんの必勝法とあって、みんな興味津々だ。
「なになに? 教えてよ!」
「まあ、待たれよ」
その男子は片手を挙げて一旦みんなを制止すると、落ちていた木の棒を拾ってきて地面に何かを書き始めた。数字だ。その数字は左から、30・25・15・10・20と並んでいる。いつの間にか、その不思議な数字を囲うように輪ができていた。みんな、食い入るように地面の数字を見つめている。
「この数字、何?」
「ペース配分だよ」
数字を木の棒で指し示しながら、説明は続けられる。
「自分の体力を100としたときの、ペース配分。一周目は、スタートダッシュで30、二周目は25、三周目は15で、四周目は一番疲れがくるところだから、10。五周目はラストスパートで、20。貴志はいつも、このペース配分で走ってるんだってさ」
えっへんと、なぜか得意気な表情。貴志くん本人でもないのに、なんでだ。
「へえー、ペース配分かあ。速い人って、そんなこと考えて走ってるんだね」
「すげえなあ……。オレなんて、そんなこと何も考えてなかったぜ。早く終われー! って思ってるだけだもん」
みんな、感心したように頷いている。ぼくもペース配分なんて、あまり考えたことはなかった。せいぜい、あんまり最初から飛ばしすぎないようにしよう、と考えるくらいだ。数字化して明確にペース管理をする、かあ。一度くらい、試してみてもいいかもしれない。
「必勝法なら、隼人にもあるぜ」
そう声を上げたのは、翔太だった。隼人とがっちり肩を組んで、不敵な笑みを浮かべている。
「え、隼人の必勝法? 教えて!」
「隼人も足速いもんなあ! 毎年五位以内に必ず入ってるし」
あっという間に、隼人に注目が集まる。隼人は少し照れくさそうにしながらも、みんなの前に進み出た。
「って言っても、俺のはそんな大層なもんじゃないぜ?」
そう前置きしてから、隼人は話し始めた。
「まず、スタートしたら、最後尾につくんだ。一旦、ビリになるってことだな」
「ええーっ?」
予想外の内容に、悲鳴に近いような声が上がる。
「それ、大丈夫なの? スタートで出遅れたら、挽回するの大変じゃない?」
「まぁ、そういう考え方もあるな。ただ俺の場合、抜かされるよりも抜かすほうが精神的に楽なんだ。最初にビリになったら、あとは一人ずつ抜かしていくだけだ。もちろん、誰からも抜かされないままな。俺は、そうやって走ってる」
「オレ今回、隼人の方法でいってみようと思うんだ」
翔太はにこにことそんな宣言をするけれど、隼人の方法はみんなには不評のようだった。ぼくもあまり、やってみようとは思わなかった。一瞬でもビリになるなんて、恐ろしい。きっとぼくがやったら、ゴールまでそのままビリでいってしまいそうだ。隼人にだからこそ、できる方法だろう。
「他にも、速い人にずっとついていく、ってのもあるよなぁ」
「あー、それ前やったことあるぜ。でも、自分のペースが乱れるから、やめたほうがいいって聞いたこともある……」
それからも、次々と必勝法の情報が飛び交う。それを聞いていると、みんなマラソンは嫌だけど、少しでも活躍したいという気持ちもたしかにあるんだなあ、と実感する。ぼくも、きっと同じだ。もしかしたら十位以内に入って……なんていう夢物語を、ありえないと思いつつも想像してしまうのだ。
「はーい、お待たせ男子ー」
ぼくらのおしゃべりは、先生の声によって中断される。やれやれ、今日もまた一キロ走りますよーっと。みんな、だらだらとスタートラインに並ぶ。
ぼくはせっかくだから、今日聞いたばかりの必勝法を試してみることにした。貴志くんの、ペース配分をしっかりやる方法だ。自分の力を数字にするということはいまいち勝手がわからなかったけれど、イマジネーションを膨らませてなんとかやってみる。ぼくは自分の体に、ガソリンが満たされているところをイメージした。そのガソリンが、ちょっとずつ減っていくようなイメージ。
イメージを強く持つことに、集中しているからだろうか。走っていても、なんだかいつもよりも疲れていない気がした。そうなると少しペースアップしたくなるけれど、ぐっとこらえる。この方法は、ペース配分が大事なのだから。ぼくのその考えは正しかったようで、だんだんと苦しくなってきた。だけどさっき加速しなかったおかげで、大幅に速度が落ちたりはしない。ずっと、一定の速さで走れているような気がする。最後の五周目でちょっとスパートをかけ、ぼくはゴールした。
一キロも走ったわけだから、当然苦しい。だけどその苦しさの中に、なんともいえない爽快感があることにぼくは気が付いた。なんだろう、なんだか自分の力をすごく上手く使えたような気がした。ぼくは順位を数えてみる。……十二位。今までで最高記録だ。タイムは計っていないけれど、きっと縮まっていると思う。
「イオ、速いじゃん!」
ぼくの少し後ろから、タケちゃんがそう声を掛けてくれる。
この走り方は、ぼくにとても合っている気がした。これからも、ペースを意識して走ってみよう。そう、ぼくは決意するのだった。
その後もぼくたちは体育の授業や、チャレンジマラソンで経験を積んでいった。
そしてついに、マラソン大会の日がやってきた。
「あー、嫌だなあ……」
ぼくは朝食のパンをもぐもぐ食べながら、今日何度目になるかわからないその呟きを繰り返す。
「嫌だぁ……」
「諦めて一生懸命走ってこい!」
テーブルに突っ伏してぐちぐち言うぼくに、お母さんは喝を入れる。他人事だと思って。お母さんは、自分が走らないからそうやって簡単に言えるんだ。一キロも走るって、とんでもなく疲れるんだぞ。ましてや大会本番となると、緊張も半端ないし。
「四時間目だったよねぇ。おばあちゃん、見に行くからねぇ」
おばあちゃんは、にっこりとぼくに笑いかける。ぼくの家はお母さんは昼間仕事をしているし、お父さんは単身赴任で県外に住んでいる。だから学校行事を見に来るのは、いつもおばあちゃんだ。おばあちゃんが見に来てくれることは、すごく嬉しい。だけどだからといって、マラソン大会が嫌だという気持ちは変わらない。
そのときテレビから、天気予報が流れ始めた。ぼくははっとして、画面に駆け寄った。
「やったあああ! 降水確率、60パーセント!」
ぼくはテレビの前で、ガッツポーズをとる。窓の外を見てみると、たしかに曇り空だった。これは、絶対降る。延期だ。きっと、延期になる。
「延期になるよりも、さっさと今日終わったほうがいいじゃないの、すっきりして」
「うるさい。絶対、延期に決まってる」
またお母さんが、ぼくの気持ちをまるでわかっていない発言をする。延期のほうがいいに決まっているじゃないか。それに二回延期になったら、マラソン大会は中止なのだ。ぼくとしては、ぜひともその方向でお願いしたい。
「わかったから、さっさと食べて歯磨きな。副班長が遅れたらかっこつかないでしょ」
お母さんにそう言われ、ぼくはすとんと座って残りのパンを口に放り込むのだった。
「おはよう」
「おはよー、イオ」
教室に入ると、窓際にいたクラスメイトの女子が振り向いて挨拶を返してくれる。
「ねえ、今日、マラソン大会やると思う?」
「どうだろう、微妙なところだよね……個人的には、延期してほしいけど」
灰色の雲を見つめながら、ぼくはそう答える。登校している間は、雨は一滴も降らなかった。だけど、マラソン大会は四時間目だ。朝降らなくても、お昼前に降ってくれればそれでいい。小雨だと強行する可能性があるから、できれば盛大に。
「だよねー。だからさ、今、逆さてるてる坊主作ってるんだー。イオも、作る?」
ぼくの目の前に、涙を流した表情のてるてる坊主が逆さにぶらさげられる。その胴体の部分には、傘マークや雷のマークが書いてあった。
「作る! 絶対延期してほしいもん!」
ぼくは、力強くそう答えた。
「おー、その意気だー! たくさん作ったほうが効果上がるだろうからさー、一応今のとこ、ノルマは一人三個ね」
そうしてぼくたちは教室にやってくる人たちを次から次へと巻き込んで、逆さてるてる坊主をひたすら作った。明らかにティッシュペーパーの無駄遣いではあるけれど、今日だけはどうか許してほしい。ぼくたちも、必死なのだ。
窓際にセロテープでてるてる坊主を逆さにくっつけまくっているとき、ぼくはふと、タケちゃんの姿が見当たらないことに気がついた。
「あれ? タケちゃんまだ来てない? いつもは、もっと早いよね?」
ぼくは、周りの人たちにそう尋ねてみる。「ほんとだ」「おかしいね?」なんていう声が上がる中、衝撃的な言葉がぼくたちの間を駆け巡った。
「タケちゃん、今日休みだよ」
「えっ」
マラソン大会の日に、欠席なんて。風邪でもひいたのだろうか。なんとうらやましい……。
「だって、毎年そうだよ。タケちゃん、マラソン大会の日は、いっつもずる休みするから」
「ええ?」
そう話したのは、去年タケちゃんと同じクラスだった男子だった。
「それ、ホントなの?」
ぼくは、ちょっと訝しみつつ尋ねる。
「ホントだよ。だってタケちゃん自分で、仮病使ってるって言ってたし」
「えー……」
ショックだった。そんな、タケちゃんが。チャレンジマラソンでいつも一緒に走ってたタケちゃんが、ずる休みなんて……。
「マジで? ずるいだろ、それ!」
周囲からは、タケちゃんに対するブーイングが殺到していた。でもぼくたちがどんなに文句を言っても、今頃タケちゃんは温かい布団の中だ。勝者は、間違いなくタケちゃんである。
「こら、もう予鈴鳴ってますよ。うわっ」
紀和先生が教室に入ってきて、窓際に固まっていたぼくたちを叱る。そして、窓に大量に貼り付けられた逆さてるてる坊主を見て声をあげた。
「なんですかこれは! なんの儀式ですか!」
「雨を降らせるためだよ!」
ぼくたちの言葉を聞いて、紀和先生はマラソン大会のことに思い当たったようだった。そして少し考えてから、諦めたようにため息をついた。
「勝手にしなさい。すごく不気味ですけどね……。それよりも、早く席に着きなさい。朝の会、はじめますよ」
ぼくたちは、急いで自分の席へと着く。逆さてるてる坊主の大群が見守る中、朝の会が行われるのだった。
パァン! というピストルの音に、ぼくたちの首は一斉に窓の方を向く。それと同時に、賑やかな歓声も遠くから聞こえてくる。グラウンドで、マラソン大会が行われているのだ。何年生だろう。ぼくたちより小さいように見えるから、二年生とか三年生かもしれない。パンパン、と紀和先生が手を叩いてぼくたちの視線を黒板へと戻す。
「今は、国語の授業の時間ですよ。グラウンドを見ない!」
そう注意され、ぼくたちは漢字の書き取りを再開する。だけどどうしても、グラウンドのほうが気になって仕方がない。今は、二時間目。雨はまだ、降っていない。空は曇っているから、これから降ってくるとは思うけれど……。どうにも集中できていないぼくたちに怒って、紀和先生はカーテンを閉めてしまった。グラウンドは見えなくなったし、応援の声もかなりシャットアウトされてしまった。
「非常にまずい事態であーる」
中間休み、ぼくたちはまたもや窓際に集まっていた。カーテンを開けて、空の様子を見る。
「まだ全然降ってないじゃん……」
「やべぇよ、このままじゃやることになっちゃうぞ?」
ぼくたちは、揃って肩を落とす。これはもう、腹を括るしかないのだろうか。そんな諦めの空気が場に漂い始めたときだった。亮が机の上に、ぴょんと飛び乗った。その手には折り畳み傘が、柄の部分を伸ばした状態で握られている。ぼくたちはぽかん、として亮を見つめる。
「えーこれよりー、雨乞いの儀式を、開始しまぁーす」
そう言って亮は閉じたままの傘を両手で持つと、何やら呟きながら右へ左へと振り始めた。
「アメアメフレフレ、モットフレ、マラソンタイカイ、チュウシゼッタイ」
よくよく聞いてみると、そんなことを言っていた。
「それだ! 折り畳み傘持ってる奴、持ってきて!」
「おー!」
もうみんなヤケクソという雰囲気で、次々と傘を手に集まってくる。その中にはなんと、隼人の姿もあった。
「何奴! 足が速い人間は去れえ!」
亮は傘をビシッと隼人に突きつけて、そう叫ぶ。
「そうだそうだ! 運動が得意な奴は去れえ!」
周りも亮に続くように、隼人を糾弾する。隼人はまるで無抵抗であることを表すように両手を挙げて、こう言った。
「おいおい……得意なのと、好きなのは、イコールじゃないぜ? 俺だって嫌なんだよ。プレッシャーもあるし……」
その言葉を聞いてぼくたちは、そうなの? と顔を見合わせる。足が速い人も、マラソン大会は嫌だったのか。知らなかった。
「ならば、加わってよーし!」
亮はそう言って、隼人を招き入れる。そしてみんなで、半狂乱になって傘を振り回し続けた。
「あーあ、くっだらねーことやってんなよ。どーせなら、いいコンディションで走りたいしさぁ」
そんなぼくたちを思音は、教室の片隅でクールに見つめているのだった。
そして三時間目の算数の授業中、変化は訪れた。雲がだんだんと厚く黒くなって行き、ぽつ、ぽつと雨が降り始めたのだ。遠くでは、ごろごろと雷鳴が轟いている。ぼくたちは、ぱあっと表情を輝かせた。
「まだ延期かどうか決まっていませんから、ちゃんと着替えて準備はしておくように」
三時間目終了のチャイムが鳴ると、紀和先生はぼくたちにそう言い残し教室を出て行った。ぼくたちは言われた通り、一応運動着に着替え始める。雨は、だんだん本降りとなってきていた。この天候では、もう無理だろう。
「マラソン中止だってー! 四時間目は理科に変更になったから、理科室に移動なー!」
「イエーイ!」
体育係の隼人が、ぼくたちに嬉しい情報をもたらしてくれる。ぼくたちは、手を叩き合って喜んだ。
ぼくのクラスでは欠席した人に、『待ってるよカード』を書く決まりになっている。そのカードには今日の授業内容と、明日の時間割、持ち物、そしてひとことメッセージを書く欄がある。基本的には、欠席した人と同じ班の人がそのカードを作成する。だけどひとことメッセージは特に班の縛りもなく、みんなが自由にコメントを書いている。
今日はタケちゃんが欠席だったから、ぼくもメッセージを書こうとタケちゃんの机の上のカードを見た。メッセージ欄は、もうかなり埋まっていた。『今日マラソン大会やらなかったよー! 残念でしたー!』『延期決定! おとなしく参加しろー』『次は休むなよ!』みんな、容赦ない。まあずる休みをしたのだから、これくらい言われても仕方がないか。ぼくはそんな挑発的なコメントを書く勇気はなかったので、無難に『はやく学校に来てね』と書いた。予定ではマラソン大会は明日の三時間目だけれど、タケちゃんは明日も休むのだろうか。そんなに簡単に仮病が通用するなんて、タケちゃんのお母さんは甘いなあ。ぼくのお母さんだったら、熱が出ない限りは休ませてくれないだろう。ましてやマラソン大会の日に急に具合が悪くなるなんて、絶対に怪しまれる。
だけどぼくは、まだ希望を捨てていない。明日もどうにか延期に持ち込んで、マラソン大会を中止にしてしまえばいいのだ。
しかし次の日の朝起きたら、空には太陽がさんさんと輝いていた。空も綺麗な青色で、どう考えても雨が降りそうには見えない。天気予報の情報でも、降水確率は十パーセントだった。
「ウソだろ……」
「はい残念、諦めな」
頭を抱えるぼくに、お母さんはそう言葉を浴びせる。
そんな……、もう四時間くらい後には、ぼくはあのグラウンドをハァハァ走っているというのか。嫌だ……。嫌すぎる……。
お母さんの応援の気持ちの表れなのか、その日のおにぎりはいつもよりもちょっと大きかった。
ぼくは抜け殻のようになりながら、学校へと向かった。教室に着いてみると、みんなもまあ似たようなものだった。机に突っ伏している人が何人もいる。くらーい空気は、いつまでも消えそうになかった。マラソン大会が終わるまでは、このままだろう。
そんな重い空気の中、こそこそと教室に入ってくる姿があった。
「あーっ!」
「どうもどうも、みなさん、おはようございます……」
へこへことお辞儀をするその人は、タケちゃんだった。
「やっと来たな! おい!」
「昨日、マラソン大会延期になったんだよ!」
みんなわらわらと集まって、タケちゃんを取り囲む。
「知ってるよ! マジ最悪だ……。おかげで今日走んないといけないしよ……」
タケちゃんがぎりり、と唇を噛むのを見て、みんな大爆笑だ。どうやら、二日連続でずる休みはできなかったらしい。「はいドンマーイ」「ざまあみろー」そんな言葉が飛び交う。だけどタケちゃんの登場は、不思議と場の空気を明るくさせた。そうだ。ぼくひとりだけじゃない。みんながマラソン大会へと臨むんだ。そんな、不思議な結束感が生まれていた。
昨日ぼくたちが作りまくった逆さてるてる坊主は粘着力がなくなり、授業中に何度もぼとぼとと落ちていた。そしてそれがぼくたちの集中を乱すと考えた紀和先生が、一掃してしまった。無念である。てるてる効果もなくなった空は、絶好調に快晴が続いていた。
「えー、それではこれより、第五学年、春のマラソン大会をはじめます」
グラウンドに整列したぼくたちの前で、五十嵐先生がそう宣言する。ついに、三時間目が来てしまった。後ろでは、たくさんの保護者がぼくたちを見守っている。ちょっと後ろを見ると、ぼくのおばあちゃんが来ているのもわかった。うう、緊張する。心臓はバクバクいっているし、ちょっと吐き気もする。準備体操やら諸注意やらはあっという間に過ぎていき、一番最初に走るぼくたち男子Aグループの出番となってしまう。他のみんなは、ぞろぞろと応援スペースへ行ってしまった。
「手首足首しっかり回してな。怪我だけはしないように」
二組の担任の先生である渡部先生が、ぼくたちにそう呼びかける。渡部先生の手には、黒いピストルが握られている。練習ではホイッスルだったけれど、大会本番ではピストルが使われるのだ。なんと心臓に悪い。スタートは当然内側からが有利だけれど、あんまり内側すぎるとピストルの音がうるさいらしい。だからぼくは、スタート位置を真ん中らへんに決めた。偶然にも、隣にはタケちゃんがいた。
「タケちゃん」
「おーイオ。隣だな。まー、お互い頑張ろーぜ。すっげー嫌だけどな」
「うん」
ぼくは、タケちゃんと拳を突き合わせる。今ので、ちょっと元気が出てきた。
「位置について」
ぐっ、と体を沈み込ませる。もう前を見るしかない。
「よーい……」
パァン! と銃声が轟く。うるせー。ぼくは顔をしかめながらも、スタートをきった。応援の歓声も、一気に押し寄せてくる。スタート直後は、最も混雑するところだ。後ろのほうでバタバタと、何人かが転んだような音がする。それに巻き込まれなかったことにほっとしつつ、ぼくはまた自分の体の中にガソリンをイメージした。ペース配分。これが大事だ。
だけどマラソン大会本番とあって、みんなのペースはいつも以上に速い。置いて行かれるような不安に苛まれ、ぼくもみんなに合わせるように一周目を走ってしまった。当然、二周目の段階で疲れが出てきてしまう。これはまずい。ぼくは減速して、自分のペースを取り戻そうと努める。みんなもぼくのような状態になったのか、ハイスピードに走る人は減っていた。それでも、何人かには抜かされてしまう。今の順位は、真ん中より少し後ろくらいだろうか。
三周目に差し掛かったところで、ぼくは保護者応援スペースにいるおばあちゃんの姿を捉えた。おばあちゃんはぼくと目が合うと、がんばれー、と言って手を振ってくれる。ぼくは体中が熱くて苦しかったけれど、笑顔を返してしまう。そしてそのおばあちゃんパワーでちょっとスピードアップして、一人抜かした。おばあちゃんが、おおー、と手を叩くのがかすかに見えた。
だけどその後のぼくのスピードは、落ちていく一方だった。さっきぼくが抜かした人にも、あっさりと抜かされてしまった。隼人と翔太も、ぼくを抜かしていった。軽快に走る二人の後ろ姿を見てぼくは、あの作戦を本当に実践していたんだな、と驚く。一旦ビリになっても、三周目でもう真ん中近くまで来れるのだ。すごい。
四周目に入ってもぼくは誰一人抜かすことなく、抜かされるばかりだった。ぼくの後ろには、あと何人いるのだろう。このままじゃ、ビリになってしまうんじゃないか。不安がぼくを襲う。だけど、ペースアップは無理だ。足が棒のように重くて、今こうして走っているだけでも精一杯なのだ。カラーン、カラーン、という鐘の音が聞こえてきた。先頭の人が、五周目に入ったという合図だ。ラスト一周とあって、みんな最後の追い込みをかけてくる。さっきまでよりも力強い足音が後ろから聞こえてきて、ぼくは、やめてくれよ、と思う。ぼくはもう、減速しないようにとしか考えられない。ペース配分だって、結局今回はろくに機能できなかった。応援の声が、騒がしさを増す。もうぼくは、はやく終わってくれ、と思うばかりだった。
「イオー! ラスト、がんばれー!」
自分の名前が呼ばれたからだろうか。喧騒の中でも、その声だけははっきりと聞こえた。
鈴の音のような、まっすぐで綺麗な声。なぜかわからないけれど、ぼくは涙が出そうになってしまう。 そしてぼくの内側から、熱い闘志のようなものが込み上げてくる。
そうだ。どうせもう、ラスト一周で終わるんだ。だらだら走っても、頑張って走ってもラスト一周。
だったら最後くらい、頑張って走ってやる。
だってせっかく夕飛がぼくの名前を呼んで、応援してくれたのだ!
その気持ちに応えないわけには、いかない!
抜かす。一人、せめて一人でもいいからゴールまでに抜かす。ぼくは歯をくいしばって、重い足を持ち上げる。みんなもラストスパートをかけているのだ。ほんの少し先にいるように見えるのに、そう簡単に距離は縮まらない。だけど、抜かす。絶対、抜かしてみせる!
頭が沸騰して、どうかしてしまったかのようだった。だけど今は、そんなこと気にしていられない。前へ、前へ。少しずつ、前の人の背中が近づいてくる。向こうも、ぼくに抜かされるまいと必死になっているのがわかる。だけど、抜かす。絶対、抜かすからなああ!
ぼくの執念は、ゴール直前で実を結んだ。ほんのわずか、ぼくの体が先にゴールへと滑り込む。ぼくに抜かされた男子は、とても悔しそうな表情をしていた。
先生から渡された順位カードを見ると、二十七位。特別パッとしない、いつも通りの順位だ。だけど、ぼくは満足だった。一キロも走った自分を褒めたいし、最後に一人抜かすこともできた。
ぼくは肩を上下させながら、空を見上げる。雲一つない青空だった。汗をかいた体に風が吹いて、すごく気持ちよかった。
それから男子Bグループ、女子A、Bグループが順に走り終えて、閉会式の運びとなった。
ぼくたちの注目は、成績発表へ。十位以内が入賞となり、賞状をもらえるのだ。
男子の一位は、今年も貴志くんだった。そしてなんと、隼人が四位だ。ぼくたちは、盛大な拍手を送る。その後も次々と名前が呼ばれていくけれど、他のクラスの子ばかりだった。四組からの入賞は、たぶん男子は隼人だけだろう。そう思っていたから、ぼくはその名前を聞いて耳を疑った。
「八位、五年四組、岸武尊」
……え? 岸武尊って、タケちゃんだよな? 四組って言ってたし……。え? 何かの間違いじゃないの?
そう思ったのはぼくだけではなかったようで、クラスのみんながざわつき始める。タケちゃんは照れくさそうに笑いながら、前に出て賞状を受け取る。間違いなく、ぼくのクラスのタケちゃんだった。
ぼくは、唖然とした。タケちゃん……、そんな、君……、足、ものすごく速かったんじゃないか……!
ぼくは、タケちゃんと一緒に走った日々を思い返す。あれは全部、手を抜いて走っていたということか。そんな……。なんだか勝手に、ぼくは仲間意識やライバル意識を抱いていたというのに。というかなんでそんなに速いくせに、毎年ずる休みしようとするんだよ!
そこでぼくは、昨日の隼人の言葉を思い出す。
得意と好きは、イコールじゃない。
そんなものかあ? と、ぼくは思う。
こうして嵐のように、マラソン大会は幕を閉じたのだった