教室一番乗り
「行ってきまーす」
ぼくは玄関でランドセルを背負いながら、家の中に向かって声を掛ける。
「はーい、いってらっしゃい」
「気を付けてねー」
姿は見えないけれど、おばあちゃんとお母さんの返事はちゃんと耳に届いた。ぼくは、はーい、と言ってガラガラと引き戸を閉めた。ぴょんと外に出ると、目の前では赤いランドセルを背負ったぼくのお姉ちゃん、小日向茉莉が大きなあくびをかみ殺しているところだった。ぼくはそんなお姉ちゃんの少し後ろを歩き、登校班の集合場所へと向かう。
「えっ」
そんな間抜けな声が、お姉ちゃんから上がる。ぼくも、同じ気持ちだった。集合場所には、登校班のメンバー全員がすでに勢揃いしていた。なんて、珍しいんだ。ぼくとお姉ちゃんは一応副班長と班長だから、いつも早めに家を出るようにしている。だから、いつも待たされる側だった。なかなか班員が来なくてイライラさせられることも、度々あった。だけど、今日は一瞬も待たされることなく出発できる。本当に、珍しい。きっとまだ、集合時間の五分前くらいだろうに。
「えーと、じゃ、行こっか」
少し困惑した様子ながらも班長であるお姉ちゃんが号令をかけると、班員たちはさっといつも通りに整列する。ぼくは副班長だから、列の最後尾につく。いつもと同じ通学路のはずなのに、辺りは静まり返っていた。たった数分の登校時間の差でここまで様子が変わるなんて、不思議なものだ。角に差し掛かったとき、別の登校班の姿が見えた。その最後尾には、見知った顔もある。
「よっ」
向こうもぼくに気付いて、軽く片手を上げる。ぼくも、同じように返した。
同じクラスの、相沢夕飛。トレードマークのツインテールが、今日も元気に揺れている。ぼくの家の、すぐ裏に住む女の子だ。ぼくら以外の登校班の姿を見かけて、なんだかほっとした。夕飛たちの班も、たまたまみんな早く集まったのだろう。車が通る気配もないので、二つの登校班は横並びになって道路を占領しながら学校への道をひたすら歩いていく。ぼくの家から学校までは、歩いておよそ三十分かかる。これは生徒の中でも、『かなり遠い』と評される地域である。そしてなぜかぼくの学校では、『遠い家の生徒ほど早く学校に来る』という不思議な傾向がある。家がすぐ近くにある子なんかは、毎回チャイムぎりぎりにやって来る。どうしてそうなるかはわからないけれど、昔からそうなのだ。そんなぼくたちがいつもより早く登校しているわけだから、歩いていてもまったく他の登校班に出会わないのは当たり前だ。きっとみんなまだ、家で朝ごはんを食べているかもしれない。
学校までの距離があと半分というところになっても、ぼくと夕飛の登校班の足音以外に聞こえる音はなかった。
そうなってくると、ぼくの中である期待が膨らんでくる。
『教室一番乗り』に向けての期待が。
別に教室に一番に入ったからといって、なにかあるわけではない。朝の会が始まるまでの休み時間である『朝休み』が長くなるというのは一見いいことのように思えるけれど、そもそも友達が登校してこないと一緒に遊べない。あとは体育館で遊ぶための場所取りなんかは早く登校するにこしたことはないけれど、残念ながら今日の朝休みはぼくたち五年生の体育館使用日ではない。
だけど、とぼくは思う。実際に教室に一番乗りした経験は二、三回ある。あの、誰もいない教室にぼくひとりだけという感覚。日常の空間のはずなのに、まるでどこか別の世界に飛ばされたんじゃないかってくらい不思議だった。
もう一度、味わいたい。
まあ単純に、何にしろ一等賞ってのは嬉しいものだしね。
そんなことを考えているのはぼくだけじゃなかったようで、歩くスピードはだんだんと速まってきていた。
「なんか、イオの班早歩きじゃない?」
「ぼくはただついていってるだけだよ。それに、夕飛の班も負けてないと思うけど」
いつしかぼくと夕飛の班は、競うように追いつけ追い越せを繰り返す。危ないから両班とも走りはしないけれど、学校付近にさしかかる頃にはもう競歩状態になっていた。
「すげー、開いてない!」
そんな感嘆が、誰からか漏れる。ぼくたちは足音をバタバタ鳴らしながら校門をくぐり抜け、昇降口に駆け寄る。けれど、ドアにはまだ鍵が掛かっていた。
「俺、昇降口開いてないのはじめて見た」
「まだ七時四十分じゃん。すげえ!」
周囲で歓声が上がる中、ぼくは、すっ、と五年生の下駄箱に近い入口前に陣取る。ドアの窓ガラスをじっと見つめながら、頭の中ではいかにして早く靴を履き変えるかシミュレーションを繰り返す。
やがてぼくたちの喧騒に気付いた先生が、下駄箱の間からのっそりと姿を現した。それに気付くと、少し離れたところでお喋りに興じていた子達も一直線にドアへと向かってくる。どうやら先生はこちら側から見て左端、六年生の下駄箱側の入り口から開錠していくようだ。ぼくは少し考えて、そちらから入ったほうが早いだろうと判断する。急いで、お姉ちゃんを含む六年生たちの列の後ろについた。
「あっ」
ぼくは、やばい、と思った。上級生たちを差し置いて列の先頭に君臨していたのは、夕飛だったのだ。夕飛は女子だから、教室一番乗りなんて興味がないだろうと勝手に決めつけていた。だけどきっと、こういうのに女子とか男子って関係ない。ガラガラと引き戸が開くと、一斉に生徒たちは中へと吸い込まれていく。ぼくも慌てて、上級生だらけの中小さな体を目一杯前へと押し出した。
「痛った……なに? イオ押すなっ!」
「いてっ」
お姉ちゃんに、頭をひっぱたかれる。だけど、謝っている場合ではない。スタートの時点でもう、すでに遅れをとっているのだ。急いで挽回しないと。ぼくは靴を脱ぎ捨てて、乱暴にすのこの上へと上がる。夕飛はもう、内履きに足を入れているところだった。
「夕飛も教室一番狙ってるの?」
少しでも夕飛をこの場に留まらせようと、ぼくはそんな会話を振ってみる。
「さあ……どうでしょう、ねっ!」
ねっ、で夕飛はダッシュした。
なにが、どうでしょうだよ! どう見ても、やる気満々じゃないか!
遅ればせながら内履きを履き終えたぼくも、駆け出す。先を行く夕飛は角を右へと曲がり、赤いランドセルがぼくの視界から消える。この先にあるのは、階段だ。ぼくは壁に肩を擦りつけながら角を曲がり、階段を駆け上がりはじめる。少し迷ったけれど、思い切って二段飛ばしを選択する。このくらいしないと、きっと追いつけない。手すりに助けられながら、必死に体を持ち上げる。そのとき、夕飛がちらりとこっちを見た。夕飛は今、二階に辿り着く寸前というところにいる。ぼくが思いのほか迫ってきているのを見て、げっ、と顔を歪めていた。ぼくはそんなのお構いなしに、一心不乱に手足を動かし続ける。
だけど、ぼくは気付いてしまう。もう夕飛に追いつくのは無理だ、と。
夕飛は二階へと降り立つと、スッ、と急加速した。それは陸上選手のような、とても綺麗なフォームだった。五年生の教室が建ち並ぶ廊下の中で、ぼくと夕飛の教室である四組はこちら側から見て一番手前のところにある。その距離は、たかがしれている。この短距離で、あんな綺麗な走りの夕飛に勝つのは無理だ。
その予想の通り、ぼくが必死に階段を登りきったときには、夕飛は四組の教室のドアに手をかけるところだった。
ああ、やっぱりだめだった。
そもそも、スタートの時点で負けはほぼ決まっていたんだろう。別にいいか。しょうがない。教室に一番乗りしたからって、何かあるわけでもないし。そもそも、こんなことで張り合うなんてバカらしい。
でも、悔しかった。
あとちょっとだったのに、負けるなんて。悔しい。別に運動会でもなんでもないけど。悔しい。女子に負けるなんて。かっこ悪い。でも、もう勝負は着いた。今更、どうしようもないよ。もう、終わったことなんだし。
……ほんとうに?
ほんとうに終わったのか?
終わってないよ。ぼくが勝手に終わらせたんだろう?
そうだよ。これはぼくと夕飛の、くだらないゲームだ。公式大会でもないし、公式ルールなんて存在しない。この先の人生になんの役にも立たない、くだらない、ゲームだった。
熱い思考が頭を横切ると同時に、ぼくは駆け出す。ぼくの熱で、まわりの空気も焼け焦げていく。
まだ間に合うはずだ。だって、ぼくの席は……。
勢いよく教室に入ってきたぼくを見て、夕飛は目を丸くした。ぼくが机と机の間をかき分けて乱暴に椅子を引っ張り出すのを見て、夕飛は、意味がわからない、という顔をしていた。
「やったあ、ぼくの勝利いぃっ!」
息切れがひどいせいでちょっと情けない声になってしまったけれど、ぼくの勝利宣言。夕飛は教室の前方を陣取る黒板の前で、ランドセルを背負ったまま立ち尽くしている。
「先に席に着いたほうが勝ち、でしょ?」
ぼくがそう言うと、夕飛の頬がぴくりと動いた。
そう。先に教室に入ったのは、間違いなく夕飛だ。だけど、それは絶対的な勝利条件じゃない。だからぼくは勝利条件を、自分の都合のいいように定めたのだ。ぼくの席は廊下側で、夕飛の席は窓側だ。ぼくの席のほうが、教室のドアから近い。それに夕飛は自分が勝ったと思い込んでいただろうから、急いで席に着くようなみっともないことはおそらくしないと思った。夕飛が席に着く前にぼくが席に着くことは、十分に可能だったのだ。
自分の敗北を知った夕飛は、無言ですたすたと自分の席へと歩いて行った。そしてランドセルを机の上に降ろし、黙々と教科書を引出しに入れ始めた。
あれ、もしかして、怒っちゃったのかな……?
ぼくは、ちょっと不安になる。確かに卑怯といえば卑怯な方法だったかもしれないけれど、夕飛はこういうのをユーモアとして受け入れてくれる性格のはずだ。だからこそぼくは、この作戦を実行したわけだし。
別に、夕飛と喧嘩したかったわけじゃない。夕飛をいじめたり、陥れたりするつもりもなかった。ただ、楽しく競争したかっただけだ。だけどこんな空気になるなら、あんな真似、しなきゃよかったかもしれない……。
ぼくは謝ろうか謝るまいか、そんな迷いをぐるぐる渦めかせていた。
夕飛は荷物を全部引出しに入れ終えたようで、空になったランドセルを手に教室の後方にあるロッカーへと向かう。ボスッと鈍い音を立てて、ランドセルはロッカーへとシュートされた。その後ろ姿は、やっぱり怒っているような……。
ようやく謝ろうと決意したぼくが口を開きかけたとき、夕飛がくるっとスカートを翻して振り向いた。その表情は、笑顔。……え?
「怒ったかと思った? ざーんねん、怒っていじけちゃうのはイオのほうかもねー」
「……え、え、なに?」
さっぱりわけがわからなかった。とりあえず夕飛が怒っていないらしいことにはほっとしたけれど、ぼくが怒っていじける? どういうこと?
「ランドセルを先にロッカーに入れた方が勝ちだから」
夕飛はにまにま笑って、ロッカーを指差した。
ぼくは、机に突っ伏した。
教室には、夕飛の高笑いだけが響き渡っていた。
くそう……。次は絶対、負けない。