表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ランドセルノート  作者: 天塚
1/21

高校二年生

「えーっと、何時迎えだっけ?」

「三時だよ」 

 そう答えながら、僕は教科書がたくさん詰まったリュックと弁当が入ったバッグに手を伸ばす。車のドアを開けると、梅雨特有のじめじめした空気が一気に体に纏わりついた。

「了解。じゃー頑張って」

 バン、と鈍い音を立ててドアを閉めると、排気音とともに母さんの運転する白い軽自動車が遠ざかっていく。それを横目で見送り、僕は石造りの校門へと足を踏み出した。

「イオっ!」

 僕が呼ばれたという事は、すぐにわかった。家族はみんな僕の事を『イオ』と呼ぶし、友達もそう呼んでいた……らしい、から。

 声の主を確かめようと僕は左側、自転車小屋の方を見やる。

 そこには、上下共に運動着姿の少女が立ち尽くしていた。肩には、白と水色を基調としたスポーツバッグを提げている。きっと、部活動の練習に来たのだろう。そしてその顔を見て、ぴん、とくる。

 知っている。中学の卒業アルバムで見た。

 もちろんアルバムを見たからといって、全員の顔と名前を憶えているわけではない。だけど彼女のことは、はっきりと憶えていた。

「あ……えっと」

 僕が振り向いたのを見て、彼女はひどく焦っているようだった。きっと何か用事があったわけではなく、知っている顔を見かけて思わず名前を呼んでしまっただけなのだろう。

 ……とはいっても。

 僕は、彼女と初対面も同然なのだ。どういう距離感で接していいのかわからない。僕を知っている彼女のほうから、積極的に会話を進めてくれないと。

「……」

「……」

 しかし、僕の望みは叶いそうになかった。彼女は口を開きかけてはまた閉じる、の繰り返しで、どうにも言葉が出てこないようだった。仕方なく、僕は口を開く。

相沢夕(あいざわゆう)()さんだよね。僕の家の裏に住んでる」

 僕がそう言うと、相沢さんは元来大きな目を一層大きく見開いた。

「私のこと、おぼえてるの……?」

「いや、全部母さん情報だけど」

 僕は、ちょっと気まずくなって目を逸らす。相沢さんは僕の言葉を聞いて少し表情を曇らせたけれど、同時に納得したようでもあった。

「本当だったんだね……記憶、なくなっちゃったって。もちろん、話には聞いてたけど……」

「ああ、うん、まあね」

 僕は、苦笑いを返すしかない。

 そして、二人の間には再び沈黙が落ちる。今にも雨が降り出しそうな曇り空のように、僕達の周りの空気はどんよりと重苦しい。

「……じゃあ僕、そろそろ行くから」

 なんだかいたたまれなくなって、僕は逃げるようにそう切り出した。

「あ……ごめん。授業あるんだよね? 私も部活行かなきゃ」

 そう言って、相沢さんは体育館の方をちらと見る。僕は、じゃ、と言ってくるりと背を向けた。

「あ、あのさ!」

 その声は、今までよりも幾分か力強いトーンだった。

「もし何か……聞きたい事とか、知りたい事があったら、遠慮なく私に聞いて。私、イ……小日向(こひなた)君と小中同じだし、大抵の事は話せると思うから」

「……うん、ありがとう」

 そう答えると、ようやく相沢さんの顔がほころんだ。

 そして僕達はそれ以上言葉を交わすことなく、互いにそれぞれの目的地へと向かう。

 相沢さんは、部活動をするために体育館へ。

 そして僕は……授業を受けるために、通信制校舎へ。

 別々の道を歩きながら、僕は思う。

 相沢さんの申し出は、きっと厚意によるものだろう。

 ……だけど。

 その機会は、決して訪れることはないだろうと思った。


 僕は、一時間目の授業である現代文の行われる『授業室B』のプレートの掛けられた教室のドアをガラリと開けた。教室にはすでに四、五人の生徒の姿があったけれど、顔を上げてこちらを見るような人はいない。僕は廊下側の一番後ろの席にリュックを降ろし、教科書やペンケース、レポートのプリントなどを机に出して席に着く。

 授業が始まるまで後五分くらいあったので、スマートフォンをいじって適当に時間を潰す。その間も何人かが教室に入って来るけれど、僕は気にも留めない。僕にはこの学校に『友達』と呼べるような人などいないし、そしてそれはこの学校に限っていうとさして珍しいことでもない。中には普通の学校のように群れてグループを作っている人もいるけれど、おそらく全体の六割くらいの人間は一人で行動している。人との距離を詰めることを求められないこの空気が、僕にとってはものすごく居心地が良かった。

 チャイムが鳴って、現代文の担当である五十代半ばくらいの男の先生が入って来る。先生はいつものようにまず一番前の席の生徒に紙の挟んであるバインダーを手渡してから、授業を開始した。

 通信制の授業は、お世辞にもレベルが高いとはいえない。単位を取るために提出しなければならないレポートだって教科書を読めば普通に埋められる程度の問題ばかりで、特に頭を悩ませるようなものはない。だから別に授業を聞くことに意味はないのだが、一定時間数授業に出ないと単位がもらえない。そういうわけで僕はこうして二週間に一度程、授業を受けるために学校に来ているのだった。

 退屈な授業を真面目な顔を作って聞いていると、三つ前の席の生徒から黒いバインダーが回ってきた。挟んである白い紙にはすでに五、六人の生徒の名前が書かれている。この紙に学籍番号と名前を書くことで、出席確認になるのだ。僕はシャープペンシルをさっと走らせると、斜め前に座っていた女子にバインダーを回した。特に声を掛けることもなく、無言で。

 僕はふと顔を上げて、教室内を見回してみる。生徒の数は、十人程だろうか。全員が私服で、何も知らない人が見たら高校の授業風景というよりもカルチャースクールの講義のように見えるかもしれない。四月の授業のときには、この倍くらいの人数が教室にいたはずだ。徐々に、人が減っている。

 ここは通信制高校。通っている生徒は、ほぼほぼ何らかの事情を抱えている。


 

 僕の人生が大きく狂ったのは、高校一年生の秋、今から八ヶ月程前のことだった。

 高校からの下校途中、信号待ちをしていた僕に大型トラックが突っ込んだ。といっても僕には事故当時の記憶はほとんどない。聞いた話では僕は自転車ごと数メートル撥ね飛ばされ、頭をアスファルトで強く打ったらしい。病院に搬送された僕は数日間死の淵を彷徨ったが、なんとか一命をとりとめた。

 ところが目を覚ました僕には、大きな変化が起きていた。僕が意識を取り戻したことを泣いて喜ぶ人たちのことが、誰だかまったくわからなかったのだ。

 記憶喪失。

 漫画やドラマの中の出来事でしかないと思っていたことが、実際に僕の身に起きたのだ。

 幸いと言っていいのかわからないが、記憶喪失はいわゆる『人』や『思い出』と呼ばれるようなものに起きていて、箸の持ち方などの生活習慣や、勉強のような知識の記憶は失われていなかった。だからとりあえず日常生活を送ることに関していえば、致命的に困るようなことはなかった。

 しかしまったく初対面のように感じる人たちから『家族』だと言われたり、見舞いに来てくれたこれもまた初対面としか思えないクラスメイトや担任の先生にフレンドリーに話しかけられるというのは、中々に困惑する事態だった。僕の中からは、十五年間生きてきた記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっていたのだ。そんな状態で、僕は再スタートしなければならなかった。

 数か月の入院生活を終え、僕は『日常』に復帰した。毎日学校に行って、放課後には部活動をしたり友達と遊んだりして、日が暮れたら家に帰る。家では家族と言葉を交わし、学校で出された宿題を片づけて、また次の日になる。心配していた出席日数もぎりぎり足りると言われ、留年の心配もない。家族は記憶のない僕を気遣ってたくさん昔の話を聞かせてくれたし、学校のクラスメイト達も心配してよく僕の世話を焼いてくれていた。周囲の人たちには『感謝』の言葉しかない。それは本心だった。……でも。

僕の心には日に日に、違和感のようなものが積もっていった。これが正しい日常の姿であるとわかっていたし、それ以外に何かやりたいことがあるわけでもない。だけど、なぜ僕はこうしているのかがわからなかった。僕の記憶はすっぽりと抜け落ちて、あるのはあの事故以降の記憶だけだ。母親のお腹から生まれたらいきなり高校生でした、そんな感覚に近かった。僕は、空っぽだった。

 空っぽの僕にとって、家族やクラスメイトたちは僕とは別の世界に生きている人間にしか見えなかった。だってみんなにはこれまで歩いてきた道のりが確かにあって、それを常に感じて生きているのだ。僕にはそれがない。孤独感に嫉妬、どうしたらいいのかわからない憤り。そんなごちゃごちゃしたものを抱えた僕は、学校に行くのがしんどくなった。別世界に住む人たちと、教室で肩を並べて座るのがどうしようもなくしんどくなった。


 そして僕は、高校二年生になるのを機に、通信制の高校へと転入した。



 予定通り授業を終えた僕は、迎えに来た母さんの車に乗って帰宅した。それからはテレビを見たり、家族で夕食を囲んだりと、いつも通り変わり映えのしない日常を送る。

 入浴を済ませ、さて、今日新たに配られたレポートに少し手をつけるか、とリュックに手を伸ばしたときだった。僕の頭に、ふとある人物の顔が浮かんだのは。

 相沢夕飛。

 今日学校で偶然会って、少し言葉を交わした女の子。

 僕は思わず、家のすぐ裏にある相沢さんの家の方向を見つめてしまう。当然そこに相沢さんの姿があるわけはなく、僕の部屋の白い壁がぼんやりと浮かんでいるだけだ。

 僕の通っている通信制の高校には全日制の課程もあって、そこはこの地域内でトップの進学校だ。そういえば相沢さんはそこに通ってるって、母さんが前に言っていたっけ。僕の家のすぐ裏に住んでいるということもあって、相沢さんのことは母さんが話してくれる昔話に出てくる人物の中でも特に印象に残っていた。

 僕は部屋を出て、廊下の突き当たりにある和室の襖をそうっと開けた。この部屋は普段から物置のように使われていて、僕の小学校や中学校時代に使っていたものなんかも数多く保管されている。ちょっと埃っぽいこの部屋に、退院直後はよく入り浸っていたものだ。アルバムや昔使っていた物に触れれば、記憶が少しでも戻るんじゃないかと思ったのだ。結局、そんなことはなかったのだけれど。

 僕は、本棚の中から中学の卒業アルバムを取り出した。クラスごとに生徒の顔写真が載っているページをペラペラとめくり、『相沢夕飛』の名前を見つける。髪を耳の下辺りで二つ結びにして、黒いセーラー服を身に纏った少女。たしかに、今日会った彼女で間違いなかった。だけど、写真の笑顔には少しあどけなさが残っている。そりゃそうだ。今は高二なわけだし、卒業してもう随分経っている。大人っぽくもなるだろう。

 そして僕はふと、小学校の卒業アルバムも取り出して開いてみた。六年四組の欄に、相沢さんの姿を見つける。これまた幼い感じだ。髪の結ぶ位置も中学の時と違って高い位置にあって、元気で活発な印象がある。

 なぜか相沢さんの成長記録を見ていた僕は、改めてページ全体に目をやった。そして、あることに気が付いた。同じページに、自分の名前も載っていた。

小日向伊(こひなたい)(おり)

 写真の中の少年は、おとなしそうな雰囲気を感じさせる。だけどにっこりと微笑むその表情からは、なんとなくだけれど幸福感のようなものが感じられる気がした。

「同じクラス、だったんだっけ……」

 僕は幼い自分と相沢さんの写真を交互に見つめ、そんな呟きを漏らす。

 僕と相沢さんは、どんな関係だったんだろう。家はすぐ近くだし、今日会ったときも声を掛けてきたということは、結構仲が良かったのだろうか。

「いや、ないな」

 僕はそう言って、一人で苦笑いを浮かべる。相沢さんは僕が入院していたときに一度だって見舞いに来たことはないし、メールが送られてきたこともない。……まあ、事故当時僕が使っていたスマートフォンは衝撃でぶっ壊れてしまったから、もしかしたらそのスマートフォンにアドレスくらいは入っていたのかもしれないけれど、とにかく特別に親しい間柄ではなかったことは確かだろう。

 僕はアルバムを閉じると、昔のノート類が保管されている段ボール箱にも手を伸ばしてみた。そこに入っていたのはマス目のついたノートばかりで、どの表紙にも『五年四組 小日向伊織』と僕の名前が書かれている。小学五年生のときに使っていたノートのようだ。確か前にも一通り見たはずだけれど、再びパラパラと捲ってみる。『算数』『理科』『国語』……色んな教科のノートがあるけれど、どのノートも最初の方は比較的字が綺麗で、ページが進むごとに雑になっていく。中には落書きを消した跡が見えるページもあって、記憶がないはずなのになぜか微笑ましくなる。上から順にノートを見ていき、『社会』のノートを見終えた僕は次のノートを手に取った。

「ん?」

 そのノートには、表紙にタイトルも名前も書かれていなかった。今までは必ず、表紙に教科名と名前が書かれていたというのに。

 そしてほとんどのノートは退院してすぐに一通り見ていたはずだったのに、このノートには憶えがなかった。もちろん膨大な量のノートをすべて記憶しているわけではないけれど、タイトルのついていないノートを見たのはこれが初めてのような気がする。

 一体何のノートなのだろう。マス目のついたノートだから、小学生のときに使っていたものだとは思うのだけれど。僕はそう思いながら、正体不明のノートの表紙を開いた。

「……っ!」

 ドクン、と心臓が強く跳ねたのがわかった。

そしてどんどんと鼓動が速くなり、体が熱くなる。息は荒くなり、体中から汗が噴き出す。

「嘘、だろ……」

 僕は思わず、服の上から心臓をぎゅっと握りしめた。

 今までもどうにかして記憶を取り戻そうと、写真を見たり昔書いた作文を読んだり家族や友達から話を聞いたりと、やれることはほぼやって来たつもりだった。だけど結局、僕の記憶は何一つ戻ることはなかった。なかった、のに。

 僕の目は、開かれたページに釘付けになる。

 そこに書かれていたものは、日記というにはあまりにもお粗末なものだった。その日にあったことや自分が思ったことなんかが適当に絵や文章や単語で書き散らかされているだけの、落書きのようなものだった。きっと他人が見たら、一体何の事が書かれているのかわからないだろう。

 だけど、僕の頭にはたしかに当時の光景が蘇る。それはたしかにあったことで、誰でもない僕が経験したことだとわかる。

 今まで何をしてもダメだったのに、こんな落書きみたいなノートで僕の記憶が取り戻されるだって?

 僕は、突然訪れた過去との邂逅に怖気づいていた。どうしてなのかはわからない。それは元々僕のもので、本来ならば失うことなどなかったはずのものであるというのに。僕の手は、震えていた。

だけど、そのノートを閉じることはしなかった。きっと僕は、期待していたのだと思う。これで僕は、空っぽから脱却できるんじゃないか、って。



 僕が触れたのは、小学五年生当時の『ぼく』の記憶だった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ