第二章 瓦解の残響(5)
そんなこんなで、色々な問題を放り投げて宿屋へ来てみた。高層ビルの一画にある輝かしいシティホテルみたいな所ではなく、市場区画の隅っこに存在する古めかしい建物だ。
そんなに軽い気持ちで来て良い所ではないのだろうが、食料と同じく寝床というのは大事だ。漂流した時に泳ぐと体力を消耗し、脱落するまでの時間が早まるという。その理論で行くならば、硬く寒い場所での野宿で体力を消耗するより暖かいお布団で寝る方が良いだろう。
「しかしな……」
俺には金がない。
金がない奴はどう足掻いても泊まれないだろう。日本には古来より、働かざる者食うべからずという言葉がある。金銭という制度は基本的に、労働の対価を数値化したものだ。働いた奴は金がもらえる。俺は日本では働いていた。学生のバイトだから自分が暮らせる程ではないが、食費分くらいは稼いでいたのではないだろうか。もっとも、概ねバイト代の半分はあいつに渡し、それ以外は筆記用具代と貯金だったがな。
ただ、俺はこのルァゴルの金は持っていない。ルァゴルで働き、ルァゴルの民に貢献し、ルァゴルの金を手に入れなければ、それ即ちルァゴルで食うこと暮らすことは叶わない。それが絶対的規則という奴だ。
宿屋は狭く汚いカウンターがある。他にスペースはなく廊下と部屋にすぐ繋がっていて、少なくとも富裕層向けの宿屋ではない事がわかる。採光窓は最低限の明かりが確保されているのみで正直薄暗い。
一か八か、やってみよう。
作戦はこうだ。まず普通の客を装ってカウンターで受付を済ませる。そして宿代を払おうとして日本円を出すと「お客様、この通貨は使えません」 と言われる。そこで俺は虚実を問わず、ありとあらゆる困ったアピールをする。すれば、向こうも同情して住み込みで働かせてくれるかもしれない。
よし。
「ハロー」
「波浪?」
よし、向こうもハローと返してくれてるぞ。今度は挨拶出来たようだ。
「今日の部屋を取りたいんですけど」
「あぁ。お客さんですね。お一人様ですよね。少々お待ちください」
そう言って、受付の彼女は軽く微笑んだ。
カウンターで受付をしているのは、薄暗くて汚い場所には似つかわしくない女性だ。白を基調とした質素ながら清楚な服装。黒いウェーブのかかった髪、茶色い瞳、服装に負けず白い肌、年は俺より上——20歳前後だと感じるが、雰囲気の柔らかさもあっていまいち判断が出来ない。何より胸が大きい。爆乳である。大きい、柔らかそう、大きい、豊満、爆弾——これぞ、秘められた財宝だ。
ぅ……おっきぃおっ……。
「……っ!!」
取り乱したようだ。
心配になって女性を一瞥する。彼女はノートを見て何かと照合しているようだ。俺の視線には気付いていない様子である。
「今ですと空室がですね……」
諸々の説明があり、俺はそれを了承した。ノートに記帳したのだが、そこで書こうと思った文字はこの国の言葉に変換されて書いてしまう。何という不可思議な事象だろう。むしろ病気なんじゃないだろうか。
「はい、確認出来ました。えぇと、外国の方なんですね。分かっているとは思いますけど、この国のお代は……」
「——これしか持ってないんです」
から、と。カウンターに叩きつけたお金が音を立てる。
緊張してフライング気味にお金を出してしまった……。
あまり対人関係は得意ではない。会話、挨拶、コミュニケーション、連携、連帯。そういうのは常態ならそこそこ出来るが、非常時は幼稚園児未満の行動しか出来ない。
「……お客さま? あの、この国では」
「すみません、すみません!!」
焦るな、焦るな……!
後ろめたさと、緊張と、疲労でまともな言葉が思いつかない。頭では分かっているのに、謝罪しか出来ない。どうしてこんな事に……いや、そうじゃない。原因も分かっている。自分が、自分がもっと……。
「すみません……」
何故、こんな事になる前に対策を打たなかった。成長をしなかった。練習をしなかった。普段いっちょまえにいきがって、イラついて、頭が良い振りをして、何もしないくせに俺ならもっと上手くやるといつも思って、当たり前に寝て起きて食事して、勝手に色んなものに当たって、一人じゃ何も出来ないくせに、非常時に何の役にも立たないくせに、こんなんじゃ駄目だと頭では分かっていたのに、努力をせず、見直しもせず、文句ばかり言って自発的な行動はせず、他人のせいにしては反省なんてせず、他人のミスには過剰に反応し、自分には蕩けるくらい甘く、のうのうとゾンビのように生きてきてしまった……。
「お客様」
お姉さんは焦っている様子だ。
「この国ではお金は要りません。その代わりにスナック菓子をいただく事になっています」
……。
…………。
………………はい?