第一章 それ以上でもそれ以下でもない日常。
「腹減った」
「はいはい」
これが俺とあいつが唯一話すこと、やりとり、日常。なんと表現しようと、それが現実である。あいつ——母親と交わすのは、1日でその言葉だけだ。
朝食は起きたら用意してあるが、夕食の時間は俺の気分で決まる。俺が言えば温める、焼く、揚げる。それが当たり前、日常。そうじゃなきゃ、イライラするんだよ……。
学校はそこそこ真面目に行く。基本出席、たまに遅刻、自分に要らないと判断する授業は寝る。やりたくもない就職活動のために勉強をして、やりたい部活も出来ない息苦しい生活。時間があればだべる、喧嘩、バイト、勉強、寝て、寝不足のまま通学する。その繰り返し。そう、ずっと繰り返しなんだ。環境を構築してしまえば、何も考えなくても生活は成立する。経済は回り、狭い世界で人間関係は成り立つ。究極的には、起きる、寝る、起きる、寝る、起きる、寝る、起きる、寝る、起きる、寝る。その繰り返しだ。窮屈で、抜け出しようもない環境。部活をする金もなく、日々生活費と将来のためにバイトを繰り返し、貧困を理由にいじめようとする奴はぶっ潰す。
それだけの循環。
それだけに従順。
ただ、それだけの、くだらない繰り返しだ。そんな俺の乾きに気付いてか、怒りも笑いもしない母。嫌いじゃないのに、どうしても怒りをぶつけてしまう母。もどかしさを感じてしまうが、今の俺にはどうして良いか分からない。この循環の中では、一度構築した環境の中では、苛立ちはあるが、それを守るのが一番無難なのである。
今日も窮屈な高校から、窮屈なアルバイトから、窮屈なアパートへと帰って来た。靴を脱いで、母のいる居間の戸を開いた。
(この生活、どうにかしてほしい……)
「腹減った」
「腹が減った? それは、いくつもある『腹』という『物』を消費して減ってしまったと私に伝えようと努力してくれているのですか? それとも、空腹を感じたと伝える事によって相手が自主的に食事を用意してくれることを期待しているのでしょうか。どちらにせよそれは酷く『滑稽』ですね」
「え?」
……戸を開いたら、小さい少女がいた。年は12歳程に見える。金髪碧眼、明眸皓歯、緑色のリボン、フリルをあしらった桃色のワンピース、お行儀の良い黒いソックス、艶のある赤い靴。その全てが調和し、合わさり、名工の意匠であるかのよう。
「『滑稽』。伝えたい事もしっかりと伝られないなんて、抱腹絶倒ものです。今まで何を見て、何を感じて、どう育ってきたらそうなるのかしら? ふふ」
少女は可憐に笑う、嗤う、嘲う。くすくすと——苦す苦すと。
少女は憐憫に笑う、嗤う、嘲う。ふふと——負々と。
呪うように。
祈るように。
彼女は、そう笑った。
気付いたら、ここはアパートの一室ではなかった。暗くて、どこだかも分からない場所。暗闇の中で、仄かに彼女だけが光を放っている。錯覚か、幻想か、これが何なのか理解が出来ない。彼女は誰だ。彼女は何だ。俺は、どうなってしまったんだ。
少女の言葉に俺は何も言えなかった。その通りだ。図星、的中、的を射た表現。俺は生活を繰り返すことで、何もしてこなかった。成長を可能性を閉ざしてしまった。自分がいけないのに、母の育て方が悪い訳では無いのに、元々の環境も悪いのに、それを変えようとしなかった俺も悪いのに……何が何だか分からなくなった。
「少々喋り過ぎてしまいましたね。ふふ——負々」
ぐるぐる、と。思考が回る、廻る。巡る、廻る。また少女が何か話している、気がする。でも俺はぐるぐるしていて、彼女が何を話しているか分からない。理解出来ない。ぐるぐる、と。思考が回る、廻る。巡る、廻る。まだ少女が何かを話している、気がする。でも俺はぐるぐるしていて、彼女が何を話しているか分からない。理解出来ない。ぐるぐる、と。思考が回る、廻る。巡る、廻る。また少女が何か話している、気がする。でも俺はぐるぐるしていて、彼女が何を話しているか分からない。理解出来ない。ぐるぐると。思考が回る、廻る。巡る、廻る。まだ少女が何かを話している、気がする。でも俺はぐるぐるしていて、彼女が何を話しているか分からない。理解出来ない。ぐるぐると。思考が回る、廻る。巡る、廻る。また少女が何か話している気がする。でも俺はぐるぐるしていて、彼女が何を話しているか分からない。理解出来ない。ぐるぐると思考が回る廻る。巡る、廻る。まだ少女が何かを話している、気がする。でも俺はぐるぐるしていて、彼女が何を話しているか分からない。理解出来ない。ぐるぐると思考が回る、廻る。巡り廻る。また少女が何か話している、気がする。でも俺はぐるぐるしていて、彼女が何を話しているか分からない。理解出来ない。ぐるぐると、思考が回る廻る。巡る廻る。まだ少女が何かを話している気がする。でも俺はぐるぐるしていて彼女が何を話しているか分からない。理解出来ない。
俺は——どうすれば良かったのだろうか。