9限目 まあいいさ
桜は散って葉桜となる。
それならば散ってしまった教頭の頭部はなんと言うのだろうか。
そんな事を考えながら御調は帰宅した。
この季節の自転車通勤は割と嫌いではない。特に転勤してからというもの、春には春の香りがあるように、都市にはその都市特有の香りがあることを知った。
アスファルトの香りに混ざって土の匂いがする。風が近くの林の匂いも運んでくる。意外に田舎暮らしも捨てたものではない。
だだしコレはいただけない。
御調は社宅を見上げながらそう思った。
いったいどの時代に建てられたのだろうか。とにかくすこぶる古い。
木造平屋の一軒家で小さいながら庭もある。しかし漆喰は一部剥がれ落ち、瓦もいつ吹っ飛ぶか心配で仕方ない。
なんだってこんな古い建物を社宅にしたのだろうか。普通ならばワンルームのアパートだろうに。
自転車を庭の楓の木に立てかけ、御調は引き戸に鍵をねじ込ませる。
ねじ込ませるという表現は大袈裟ではない。二枚扉が上手く噛み合ってないと鍵も刺さらない。イライラしてしまい蹴飛ばしたくなる。
おそらく蹴り上げると扉は横ではなく前後に開くだろう。現代のセキュリティー面でいえばザルである。
ようやく開いた扉はギシギシと軋む。
そんなことはもう慣れてしまった。しかし慣れないこともある。慣れないというよりは疑問に感じるといったほうが正解か。
玄関にも、そして奥に続く二間の部屋にも煌々と電気がついている。
御調は首をひねる。
確かに朝家を出る際に電気は消したはずだ。これで何日目だろうか。あまりに続くから朝には念入りにチェックしている。そして間違いなく今朝も消して出かけたのだ。
それでも明かりのついた家に帰るのは悪い気分ではない。
「暗いのは……キライだからな」
それならば付けたまま出ればいいのだが、生来の几帳面さが許してくれない。暗闇はキライだが中途半端はもっとキライだ。
「ただいま」
なんとなく言ってしまう。これはただの習慣。
挨拶をすることは人間として当たり前のことである。特に教職員なのだから挨拶が出来なければ話にもならない。
そう言った意味では、御調は教頭を尊敬に値すると思っている。毎朝校門に立って全校生徒に挨拶をすることは、なかなかできることではない。
もちろん「おかえり」という声は返ってこない。そんなことはわかりきっている。
育ての親である養母が亡くなった17の時から、御調は一人暮らしだ。さすがに10年も一人で暮らせば慣れもする。慣れはするが、やはり返事がないのは少し寂しい。それくらいの当たり前の感情は御調にだってあるのだ。
ひとまずスーツを脱ぎ、きちんと上着はハンガーにかけてパンツは折り目がつくようにプレス機にはさむ。
そのままシャツを脱ぎながら洗面所に向かう。脱いだ服は親の仇のように洗濯機に放り込んで風呂の扉を開く。一連の流れに一切の無駄はない。
「ん?」
風呂場はリフォームがなされている。どこにでもあるユニットバスだ。その扉を開いた瞬間に御調は首をひねった。
湯船がお湯で満たされているのだ。
普段はシャワーで済ませている御調だ。湯を張るのは週末くらいなものだろう。
今日も今日とてシャワーで済ませる気でいた。しかし職員会議で遅くなり身体は疲弊していた。湯船に入りたいと思っていたのは確かだ。
しかし帰ってきて湯を張った記憶などもちろんないし、そんな時間もなかった。当然タイマーなど気の利いた設備もない。
なのになぜ風呂場は満たされているのだろう。
浴室は霧状の水蒸気が舞っている。間違いなく満水になってそう時間は経っていない。
「どういうことだ?」
顎に手を当てる。考え事をするときの御調の癖だ。
付けていない電灯がともり、風呂まで沸かされている。本当ならば第三者の犯行を疑うところなのだが、御調はポンと手を叩いて納得する。
「なるほど。これが所謂スマートハウスというやつか。年季の入った見た目に反して、なかなか侮れないじゃないか」
おかしな家だと思う。見た目は築100年は経っているように見えるのに、スマートハウスの機能があるとか意味がわからない。
それに寝室の床の間に古い人形が放置されているのも解せなかった。
よくわからないが年代物の雛人形だ。
他に他人の所有物など何もなかったのに、その人形だけがぽつねんと置かれていた。管理人から捨てないように言われていたのでそのままにしているが、捨てようとしたら不幸が襲ってくるらしい。
そんな迷信は信じちゃいないが、捨てるなと言われたのだから捨てはしない。そんな事を思いながら湯船に浸かった。
気持ちよくひとっ風呂浴びて湯上りのままキッチンで缶ビールを開ける。
1日の終わりの至福の時間だ。まるで人間味のない彼だが1人になればただの青年なのだ。
特に今日は他の教師と揉めてしまった。嫌われるのは別段構わないが、彼らの言っていることがまるで理解できずにモヤモヤする。
彼らはアルルーシュカたち3人を特別視しすぎるきらいがある。それが御調には気に入らなかった。
空を飛べたり着ぐるみを着ていたり、たまにおかしな挙動をするだけではないか。異世界特区? 意味がわからない。
まあいいさ。いつか折り合いもつくはずだ。自分のことならどう思われてもいい。だだし受け持つ子供たちのことには折り合いをつけないといけない。
アルコールで熱くなったため息を吐き出すと、御調は買い溜めておいた菓子類を取り出そうとパントリーを開いた。
「うん? 何もないぞ」
ポテトチップスやチョコレート……大量の菓子類が無くなっている。
御調は無類の菓子好きだ。甘いものでも酒のつまみにできる。
これでもかと常備しているのだが見事になくなっていた。
仕方なく煮干しを選んで居間に入る。
「ただいま。あぁ、疲れた」
ここでもいつも通り独り言を言ってしまう。一人暮らしは無駄に独り言を言ってしまうものなのである。
「うむ。奉仕ご苦労なのだ」
誰もいないはずの居間から返事が返ってくる。
はじめは空耳を疑った。りんと鈴が鳴るような涼やかな声だ。
しかし疑うも何も、視覚は疑いようのないものを映していた。
居間のソファーにゴロリと横になって菓子を喰らっている者がいた。
和装の女の子だ。
おそらく御調が担当する生徒たちと同じくらいの年端もいかない少女だ。
肩の少し上で切りそろえられた髪の毛は、見事におかっぱと呼ぶに相応しく黒々としている。まるで濡羽のようだ。
「ああ。ただいま」
御調は何事もなかったかのように返事を返す。
はたから見れば冷静に見えたかもしれないが、御調としては珍しく動揺した。
ずいぶん可愛らしいコソ泥じゃないか。そう思ったが、そもそもコソコソしていないことに気づく。
「全部は食うなよ。残しといてくれ。とりあえずもう一度風呂入ってくるよ。ちょっと冷静になりたいのでね」
そう言うと御調は部屋を出る。
今度は少女が驚く番だった。
まゆの下で大きな瞳が驚愕に見開かれる。
そして御調が買い込んでいた菓子を口に入れてゴクリと飲み込んだ。
御調と座敷童子の凛との邂逅は、感動的なシチュエーションなどまるでなく、当たり前の生活の中でこうして繰り広げられたのだった。