8限目 相当なのです
時は平成。
とある地方都市のはずれに、美観地区と言う景観保護区域がある。
江戸時代から受け継がれる漆喰木造建築が建ち並び、古き良き時代を今に残すエリアだ。
柳の植栽された川を挟んで、いく通りもの街道が走り、その両脇にはお土産屋や飲食店が軒を連ねる。
ここは文明開化の雰囲気を残した有名な観光スポットでもある。
町家と明治時代の異人館が所狭しと肩を寄せ合う様は、懐古厨の琴線に触れることは間違いない。
そんな白壁の町にひっそりと、にもかかわらず威風堂々と鎮座する下宿屋がある。
無数に点在する脇道のひとつ。蓮の花をモチーフにした看板が立て掛けられた角を曲がると、人がなんとか対向できる程度の細い脇道が現れる。
猫が昼寝でもしていれば様になりそうだが、残念ながらそんな気の利いた生き物などいない。
そもそもの話だが、およそ地球上で進化した生物が、この下宿屋に向かうだけの脇道を通る道理がないのである。
なにせこの下宿屋、名を【異世界荘】という。文字通り異世界から地球上に迷い込んだ異邦人が住む、唯一無二のアパートメントなのだ。
実際のところ異世界荘へ通じる脇道は、一般の地球人には感知できないらしい。
ご丁寧にも結界が張られているらしく、適正者にしか気づくことができないという。
まるで人をおちょくっているかのような建造物だ。
複雑に入り組んだ居住区は迷宮然としていて階層も不明確であるが、外から見るには高さはおそらく五階建てに相当する。
土台は日本建築の様だが、かたや中華風、あるところでは煉瓦造り、上層ではローマ風も見受けられる。
和洋折衷と言えば聞こえは良いが、もはやごった煮状態だ。オーナーの正気とセンスを疑わずにはいられない。
元の形がわからないほど増改築を繰り返した様は、四方八方に伸びる蓬髪のようでもある。
一見すると、今は亡き九龍クーロン城を彷彿とさせ、中二病を刺激して胸が踊る。
そんな異世界荘の一室で、アルルーシュカたち三人はひたいをつけあうように密談を交わしていた。
異世界荘管理人代行のサキは、そんな三人を夕食の準備をしながら微笑ましく見ていた。
少女のような細い体躯に、深海を思わせるセミロングの髪がリズミカルに揺れる。
異世界出身ながら、こちらの世界の料理もお手の物だ。彼女が転移してきてから早くも数年の月日が流れたのだから、当たり前といえば当たり前かもしれない。
サキの本性はサキュバスである。
本来ならば男の夢に入り込み、淫夢を見せる代わりに生気を奪うモンスターだ。しかし今現在の彼女はその性質を失っている。
それがこの世界に転移して数年を経た環境の変化からくるものなのか、それとも未来の異世界へ転生してしまった前異世界荘管理人への愛の証のためなのかはサキにしかわからない。
いずれにしてもサキは異世界荘管理人代行と、子供たち三人の育ての親という立場にある。
彼女が転移してきた頃は正体を隠して生きていた。しかし今現在の状況は変化してきている。
異世界荘オーナーである業弾の尽力もあり、異世界人が異世界人として生きて行ける環境が整いつつあるのだ。
しかし心配事も多い。
サキは学校に通うアルルーシュカとアネモネ、そしてガリバーのことが心配で仕方ない。
だから料理中も後ろでヒソヒソと話し合う三人の声に耳をそばだてていた。
「原因は現実に幻想を重ねるからだと思うのです」
アネモネの言葉にアルルーシュカとガリバーはウンウンとうなづく。よくわからないけれどとりあえず頷いておこう、そんな感じだ。
いつだって難しいことはアネモネが担当している。今回も任しておけば上手くいく。そんな信頼感があるようだ。
「先生はアルルーシュカのことを空を飛べるロシア人としか思っていないし、ガリバーにいたっては着ぐるみを着た驚異的な寒がり程度に認知しているのです」
「驚きだよねー。教頭センセーなんてバッタリあった時に臨戦態勢取るくらいなのにねー」
ガリバーは「へあっ!」と構える教頭の姿を思い出して吹き出しそうになった。くの字になるほどのへっぴり腰だったのだ。異世界ならば真っ先に喰われるだろう。
「驚きどころではないのです。アレは異常というのです」
常に無表情なアネモネの眉間にわずかながらシワがよる。
アネモネは西洋アンティークドールのような端整な顔をしている。ほとんどの人形がそうであるように、ある意味整いすぎていると言えなくもない。
同じ整った顔つきのアルルーシュカは、コロコロと表情や仕草が代わり愛嬌や生気を感じさせる。膨れたら頬はフグのようにまん丸になるし、思い通り行かなければ床を転げ回る。
しかしアネモネにそういった生気は微塵もない。
整いすぎた無表情は時にゾッとする雰囲気を醸し出す。教頭や他の多くの教師も出来る限りアネモネの翡翠のような瞳を直視しない。
しかし今のアネモネは眉間に小さなシワを作っている。これはたいそう珍しいことだった。
「アネモネはその先生が嫌いなの?」
サキは手を止めてアネモネを振り返った。
高速で頭部がギュイーンと回転していた。
首を振っているのか、はたまた頷いているのか判然としない。
「だってワタシのことすらアンドロイドと認知してくれないのです」
「普通の人間だと思っているの?」
「たぶん……」
アネモネの眉間のシワがいっそう深くなる。
サキにはなんとなくわかっていた。それはおそらく戸惑いだろう。
異世界荘でも未来からの異邦人はアネモネが初となる。アンドロイドと聞いてどう接したらいいのか。普通ならば構えてしまう。それはサキにしても同じだった。
そんな周囲の態度にある意味慣れてしまったアネモネにとって、その新任の教師は異例中の異例。イレギュラーそのものなのだろう。
「でもたいした人じゃない。その先生。三人を普通の人間だと思うって相当よ」
一度会ってみたいわ。そう付け加えたサキの言葉に一瞬沈黙が横たわった。
「相当なのです」アネモネはため息とともに蒸気を吐き出す。
「相当だよねー」ガリバーは無邪気に笑って牙をむく。
「そうとうなの!」アルルーシュカはて両手を握って力説する。
そして三人で「相当バカだよね」とハモった。
「とは言え、なのです」
脱線してしまった密談をアネモネが軌道修正する。
「こちらの世界の法則の中では、どうやってもあの先生の独壇場なのです。いわゆるアウェーなのです。だから今度ある家庭訪問が絶好の機会」
ややあってアネモネの提案は可決された。
それは御調に異世界を擬似的に経験させるというものだった。この世界の物理的法則を無視した世界。そこで誤魔化しようもなく異世界人としての能力を発揮してしまおう。見せつけよう。
「ということで、先生をワタシたちお手製のダンジョンに放り込み作戦開始なのです」
アネモネの無機質な瞳が、わずかながら今までと違う光を放っている。
サキは頬杖をつきながら嬉しそうにそれを見ていた。