3限目 気にしなさんな
箕島御調は教室のプレートを見上げた。
【3年異組】
彼の受けもつクラスは異組と確かに書いてある。そんなクラス名は見たこともなかった。
E組の間違いだろうか。そう思って御調は他のクラスのプレートを確認する。
右隣が3年3組で、左隣が3年4組とある。
そもそもアルファベットでもなければ漢字表記でもない。それどころか完全に異組は順番から抜け落ちている。
新手の新人いじめだろうか。もしそうならあの教頭の頭頂に三本だけ毛を植え付けてやる。
そんな風に思いながら御調は引き戸に手をかけた。
壁と扉との間に少し隙間がある。
よくあるのが扉の上部に黒板消しを設置しているトラップだ。御調はなんども経験していた。その都度、中村俊輔ばりのキックで主犯格にクリーンヒットさせていた。
御調は真の平等主義者を自負している。男だろうが、女だろうが、老人や子供であっても差別はしないし容赦もしない。相手が誰であろうが、受けた恩はそれなりに返したと装い、仇は百倍にして返す。それは彼の美学であり哲学だ。
やれやれ初日からか。と御調はトラップの正体を見上げた。
薄気味悪い毒虫が挟まっている。
ラグビーボールくらいの不気味な虫だ。ギーギーと鳴きながら、無数の手足を蠢かしている様はおぞましい。黒の体躯に血のような色の斑点が毒々しい。まさに毒虫界の帝王たる風格をにじませている。
明らかに地球で進化した生物とは一線を画している。
御調は少し後退する。
そして軽く助走をつけて取手と反対側のへりを「せいッ!」と蹴り上げた。そこにわずかな躊躇もない。
「ピギャィィァァァウアアアアーーッ!」
壁と扉に挟まれた毒虫が断末魔の声を上げた。それはまともな精神の者ならば卒倒し、前門と肛門から色んな汁をほとばしらせるほどの叫びだった。
ボトリと床に落ち、すっぱい体液を撒き散らせている毒虫を、路傍の石ほども気にせず御調はまたぐと教壇に立った。
「はい。委員長は朝礼の挨拶をしてください」
もはや毒虫のことなど忘れたような爽やかな笑顔だ。
生徒たちの口が、△←こんなふうになっていることなど気にもしない。
「か、カフカーー! 死んじゃダメなのー!」
御調の声を無視して金髪の幼女が毒虫に駆け寄る。空飛ぶ幼女アルルーシュカだった。
「ええと君は……」
御調はクラス名簿を開く。そこには写真付きで生徒の名前が開いてある。
上から順に見ていくと下の方に彼女の顔写真があった。
「成瀬アルルーシュカくんか。その虫は君のものかな?」
御調はアルルーシュカの腕の中でグッタリしている毒虫を指さした。心底嫌そうな顔だ。
御調は虫が嫌いだ。何よりも嫌悪していると言ってもいい。
もしも世界の人口が増え続け、将来的に食糧難により食虫の必要性が高まれば、彼は間違いなく殺害するだろう。人間を。間引けば良いのだ。人口が減れば自ずと虫など食わなくてすむ。
「あっれーッ!? 何してくれてるの御調くん!」
あまりの事態にしんと静まりかえっていた教室に、慌ただしく教頭が駆け込んでくる。
「おや教頭。どうされましたか?」
「どうかしたじゃないよキミ! クラスのペットに何してくれてんのよ!」
「えぇ……。アレがペットだと教頭はおっしゃる? ちょっと頭がおかしいんじゃないですか? あぁ、いや、頭皮が随分おかしいのは知ってますけれど」
「き、キミという男は……」
「なに、得体の知れない毒虫から生徒たちを守っただけですよ。気にしなさんな。あ、コレ、ボーナス査定にプラスですよね?」
嘲笑めいた笑みを浮かべる御調の前に、アルルーシュカが足音を立てながら近づく。全身で怒りを表現しているようだ。
「あやまって! カフカにあやまって!」
そう言うとグデンとした毒虫を両手でかかげた。
よくよく見るとしゅわしゅわと音を立てて傷が修復されているようだ。とても気持ちわるい。
「せいッ!」
問答無用で再び蹴り上げる。
ノーモーションから繰り出される達人級の蹴りは的確に的をとらえ、無慈悲にも毒虫カフカは天井に突き刺さった。
「か、カフカーー!」
アルルーシュカは悲痛に叫ぶと、大きな瞳を閉じて両手を広げる。
教室内の気圧が一瞬下がる。それと同時に窓を締め切っているはずの教室内に風が渦を巻き始めた。
「お願い風の精霊」
御調が聞き取れたのはこれだけだった。
アルルーシュカのぷりっとした唇を、御調が聞いたこともない言語が震わせる。
可視化できそうなほどの風が、アルルーシュカの若草色のワンピースをそよがせる。
限りなく白に近い金色の長髪が宙を踊る。
御調の視線が上がる。慌ててアルルーシュカの足元を見ると、彼女の人形のような足は地面から浮いていた。
御調は言葉を失った。
それは今まで見た何よりも美しく神々しい。
あまりの美しさに「やっぱコレ、持って帰っていい?」と教頭に聞いたが、今度は教頭がツバを吐いた。
アルルーシュカは一旦天井まで上昇すると、突き刺さったカフカをもぎ取り、天女のようにふわりと着地する。
「ゆるさないんだから!」
顔を真っ赤にして頬を膨らまし、アルルーシュカは高らかに宣言した。
ビシッ! と御調を指さす。すこし震えているように見える。
「あなたなんてセンセーだと思わないんだから! エルフのわたしが精霊魔法でこらしめてあげるんだから!」
ぇぐぇぐと涙声なのでイマイチ聞き取れなかったが、宣戦布告だということは御調にも理解できた。
「え、あ、うん? エルフ? 教頭。彼女、エルフとか言ってますけれど?」
「……キミ、もう転勤してくれないかな?」
教頭は頭を抱えた。
その両手の隙間から、細くなってしまった毛がパラリと風に舞って逃げていった。