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84°33’  作者: ・△
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 有給がたまっていたので三日ほど休みをもらってなんとか復帰をすると、工場の中が変な雰囲気だった。おれが挨拶をすると、いつもの感じではなくなにかが変な、ぬめっとした反応が返ってきた。戸惑っていると奥から社長と専務が出てきて、おれを手招きする。通されたのは社長室というか、まあ事務所の一角なのだが仕切りがあり、ちょっといいソファが置かれている場所だった。おれはとりあえず休んでしまったことを詫び、仕事の遅れを取り戻す計画をすぐ立てる旨伝えた。彼らは黙っていて、おれはなぜかすこし苛立ちながら、話がないなら持ち場に戻らせてくれ、と言った。

「あのなァ、黒ちゃん。前テレビでたやろ」

 社長が重い口を開いた。はいとおれは答える。町工場が支える先端技術という話で、ビジネス番組のワンコーナーだった。

「あれ見はった人から連絡あってな……。黒田の身内や言わはる。名前違うけど、間違いないて。この名前で連絡くれはったけど、見覚えないか」

 差し出されたメモにはおれによくしてくれる職人さんの端正な字で、柘植晶、と書いてあった。おれはあまりのことに記憶喪失のことを忘れて、おれの、双子の兄弟の名前です、と言ってしまった。十年、もっと前に死んだ、おれの、双子です。そうか、と社長は頷きまた口を開いた。

「おまえ、いっぺん帰れ」

「そんな、おれ嫌です。ここで仕事をするのが好きです。ここがおれの家です。お願いします」

 頭をさげながら十年分の涙がぼろぼろ溢れた。おれのかわりに泣いてくれる掃除機はもうなかった。おれはおれの言葉でそれを言わなければ。おばさんがおれの頭を抱いてくれた。十年前よりちょっと小さくなったけど、やさしい、柔らかな感触。あんな人なんかよりおれのお母さんはこの人だと思う。日に当てた洗濯物のにおいがする。

「黒ちゃん、あんたね、言うてへんこといっぱいあるでしょ。つらいこと多かったでしょ。逃げるのもええねんで。なかったことにするのも。でもあんたがそれやとずうっと辛そう。な、できるんやったらいっぺん決着つけといで。工場は大丈夫。ちょっとくらいやったらベテランさんもまだ元気やし黒ちゃんのおかげで若い人も育ってはる。だからね、行っといで」

 べしょべしょと見苦しく泣き続けるおれに田所金属の名入りの薄っぺらいタオルをよこして社長が言ったことは大体まとめるとこうだった。結局おれの両親はあの後離婚して母親は島に帰ったとのことで、父はあの家にこそ住んでいなかったが売りに出すことはせず、そして数年前に亡くなったということだ。おれはいつかのうどんのことを思い出してぼんやりとそれを聞いていた。おれは失踪したということになっていて現状では権利もなにも発生はしないのだが、家の中のものの整理ができていないこと、そして晶が死んだ、いわば曰く付きの家であること、そしてこれが最大の理由だと思うのだが、古い建物が固まっていた地域なので来年にでもまとめて再開発、という話が出ているのでおれさえよければ一度帰ってきて荷物の整理というか、残すものや持ち出したいものの確認をして欲しい。そしてもう一件ついでがあって、その権利を持っている親戚というのが、今は両親と子供二人で暮らしているのだが、一人が怪我をしてしまって入院をすることになったので、十日間くらいもう一人の面倒もついでに見てくれると嬉しい、もちろんお礼は相応にする、という話で、メチャクチャだし十年会ってない記憶喪失の親戚にいきなり子守を頼むのはどうなんだ、と思って話を聞いていくとどうも晶の葬式で会った若い叔父らしく、まあそんなこともあるかあの人なら、と諦めがついた。電話ではその子供のほうがおれをテレビで見てこの人ならいい、と言ったという話だった。それも嘘か本当かはわからなかったが。

 そんなことで決着がつくのかはわからなかったが周りから固められておれは仕事を休んで東京に戻ることになった。身元不明の記憶喪失で十年すこしやってきた人間の降って沸いた帰省話にまわりの人たちは驚き、おれが盆明けちょっとしたら帰ってきますと喚きながら出かけるのを壮行会までやって見送ってくれた。

 あのとき鈍行を乗りついで一日かかった道のりは新幹線で二時間ちょっとだ。東京には仕事の出張の都合で何回か行っているのでとくに感慨もない。普通に新幹線の切符を買って、普通に山手線に乗り継ぎをした。だけども窓の外の風景をみて、そろそろと家が近づいてきているのだというのがわかると心がきしむ音が聞こえてくるようだった。十年経っても癒えない傷はあるんだとおれは思って、最寄り駅を降りた。景色は随分変っていて通りの形自体は一緒だけど看板なんかに見慣れたものはなにもなかった。おれは道を歩く。ゆるい上り坂が続いている。家までの帰り道。たしかに取り壊されている家や、明らかに人が住んでいない家が点在していて、この町の終わりを告げている。

 病気の子供と残った子供、まるでおれたちみたいだ。足が自然に止まる。曲がり角を曲がってすこし進んだところ。あきらかに古くなっている壁の色と、それでも記憶そのままの形。置かれたままの植木鉢。どちらが大きな花を咲かすか言い争った夏休みの朝顔。鍵の開く音が聞こえる。茶色い、古い引き戸が開く。にっこりと微笑んでいる。晶が。おれは幽霊を見た。細く伸びた形のいい手、白の半ズボンから覗く枝のような足、下より薄い生地のすこし大きな半そでシャツから覗く細い鎖骨。おれと同じふわふわの細い猫っ毛、おれの百倍美しい生物。幽霊はにっこりと微笑んだ。おれを招くように差し出す手のひら。軽く曲げられた指先の爪。あっけに取られていると奥から十年すこしの分老けた叔父が顔を出した、おお上がってくれ。久しぶりだなぁ、日君。

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