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無事に二十歳も越して一人前と見られることが多くなって、取引先なんかに連れて行ってもらえるようになることも増えた。若い職人さんやねえなどの言葉を先輩方が、家の都合で中卒でやってましてね、もうベテランですわなんて返してくれるのが嬉しかった。今時珍しいたたき上げの職人さん、というのがおれの評判だった。もちろん、おれより後輩の人間もできて、歳は上だけどおれのことを黒ちゃん先輩などと言ってくれるのは正直くすぐったいけど嬉しくて、彼らは立派な大学を出ていたりしたのでいろいろなことを教えてもらうのは勉強になった。プライドが高い年上の人に、ぼく、中卒やからなあ、なんて言うのはすこし恥ずかしかったが、これで仕事がスムーズにいくならいいことだとおれは考えていた。そのうちおれに教えていたのが皆の得意な分野を伝えあう会になって、若い職人のいる工場同士でさらにやり取りをするようになった。だんだん話が大きくなって、数年後には定期的に若手の技術の発表会のようなことをするようになった。他の工場や会社にも知り合いが多くなって、なぜか話の中で黒田に女の子を紹介してやろう、などということになった。おれ自身は別に恋人募集中など言った覚えはないのだが、なんだかんだの後に合コンが開かれることになって、結局全員彼女が欲しかっただけじゃないのかと笑いながらそれに参加した。参加者の一人曰く、若くて腕がよくて顔までかっこいい黒田さんのおかげでレベルの高い女の子が来てくれるんですよ、などと言われて、まあ、おれも聖人じゃないので褒められるのは悪い気がせず、何回かの後、話が弾んだ女の子とたまに出かけるまでになった。まるで普通の人間みたいだとおれは浮かれていて、休みで時間が取れる日には買い物に行ったり、映画を観に行ったりしていた。彼女はあきちゃんという名で、晶とおなじ音を口にすることににおれは若干戸惑いながらも、明るく、おれの目を見ながら朗らかに話すこんな女の子と結婚して子供でも作って、工場でずっと働かせてもらって、勉強をして、新しいことを考えていけたらいいなあなんて思っていた。その日までは。
その年は新規開拓を課題にしていて、そのせいで慣れない仕事が多く、さらに会社が取っている特許に絡めた特集を、ということでテレビ取材の申し込みまで舞い込んで来て、社長であるところの田所のおじさんが対応すると思っていたらこういうのは若くて綺麗なほうが解説したほうがいいだろうとおれにおはちが回ってきててんやわんやだった。若いと言ってもなんだかんだでもうアラサーってやつですよとおれが正直に言うとベテラン諸氏は楽しそうに笑って小童がなにを言うかとまでおっしゃる。なんとか仕事の山を越えてテレビの収録を終え一息ついたところでデートに行こうと誘われたのは大きな水族館で、行ってみるまですっかり忘れていたがおれが死のうと思ってたどり着いたその海だった。梅雨が終わって夏が始まるすこし前の風がさわやかなころで、季節は全然違うのに妙なゆううつが胃の辺りにどっかりとのしかかっていた。嫌な予感はあったが海側に行かなければ大丈夫だろうと思っておれたちは水族館へ入り、わざとゆっくり時間をかけて中を見て歩いた。大きな水族館の大きな水槽はたしかに立派で、浅瀬のきらきらかがやく光や深海を模した深紫の照明に照らされてあきちゃんはきれいだった。大丈夫、平気、とおれは自分に言い聞かせる。おれは今、幸福で、仕事も楽しいし、すてきな恋人もいるから、平気。水族館を出て夕食にいいくらいの時間だった。外では小雨がぱらぱら降っている。こめかみの辺りが痛む感じがした。このあたりはお店が少ないから、大きい駅まで出て行って夜を食べようと誘うと、彼女はすぐ同意してくれた。その前にあれ乗りたいな、と指差したのは大きい観覧車で、そのくらいならいいかと思って一緒に乗ることにした。日はすっかり落ちているので、待っている者も殆どおらずすぐに乗ることができた。ふわり、と浮き上がる感じがして、なかなか夜景は綺麗だ。晴れてたらよかったのにね。あきちゃんが言う。おれは頷く。そうだね。
「わたし、子供のころから素敵な彼氏ができたらこれに乗るのが夢やった」
そういうあきちゃんの頬はすこし上気していて花のような色をしている。そうなの、とおれは返す。他はどんな夢があったの問えば彼女は語る。お花屋さんって言ってたけどね、実は外国に行くような仕事がしたいと思ってた。大人になったら、口紅を自分のために買おうと思ってて、十八歳の誕生日にちゃんと買った。うんうん、とおれは頷く。あとね、双子のお母さん。
「えっ、なんで」
「あの、実はわたしのお母さんは双子やねん。それでわたしの弟もいま二人とも東京に行ってるんやけど双子で。双子の家系ってあるんやって。弟とかお母さん見てたらね楽しそうで、わたしもたぶん双子産むってなんとなくそう思ってんねん」
ぐら、と観覧車のかごが揺れた気がした。きらびやかな夜景の逆側は、黒い黒い海がぽっかり開いている。きみのつやつやの髪の向こうに真っ黒な海が。おれの顔色が変わったのをどう思ったのかはわからないが、彼女はおれにキスをした。唇が触れるだけの。なまぬるい、生きている人間のそれは、無性に気持ち悪かった。
ごめん、とおれはなんとか言葉をひねり出す。風で揺れるから酔ったみたい。えっ黒ちゃん軟弱やなあと彼女はけらけら笑う。黒い、海が黒い、黒い。あと数分、地面が遠い。
帰り道は散々だった。もともとちょっと風邪っぽくて、と言い訳をするおれを彼女はとても心配してくれ、帰りの駅のトイレでこらえきれず吐いたおれが出てくるまでのあいだにペットボトルの水を買ってきてくれさえした。そのときはもうおれは会社の近くにマンションを借りて一人暮らしをしていたのだが、そこまで送ってくれて、近所のコンビニでレトルトのおかゆなんかを買ってもう一度持ってきて、親が心配するから帰るけどもなにかあったらすぐ連絡してね、と言ってくれた。おれにはもったいないできた女の子だと申し訳なくなったが正直そのあいだずっと気持ちが悪かった。彼女が帰ってからずっと胃が空になるまでトイレでげえげえと吐き続けて買ってきてもらったものも手をつけることができなかった。こんな風になるなんて思っていなかった。結局普通の人間みたいなしあわせはおれには望めないんだ。次の日にはなんとか出勤をしたがものすごく調子が悪そうに見えたらしく、帰れと言われた。眠り続けて、水を飲んでは吐いて、このところ忙しかったからなあ、と逆に気を使ってもらう体たらくでなんとも申し訳なかった。