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84°33’  作者: ・△
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7

 目を覚ますと白くて明るいところだった。もしかしてあの世ってやつかと思って起き上がってみる。白いのは壁だった。窓はあるが畳敷きの狭い部屋で、あの葬儀場の仮眠室に似ていた。腹の上には毛玉まみれの薄い毛布までかけてあり、電気ストーブが静かに光っていた。天国でも地獄でもなんでもいいけどずいぶん俗っぽいところだなと思った。扉は鍵などはかかっておらず、外に出てみるとコンクリートの短い廊下で、履いてきたおれの靴が揃えてきちんと置いてあった。この部屋だけが土足じゃない造りなのか、と思いながらかかとを潰してスニーカーを履き廊下の先に出てみると、廊下と同じコンクリートのたたきの上にべこべこのスチールデスクが置かれており、壁にはシンプルな時計がひとつと周辺のものらしい大きい、細かい地図と指名手配犯のポスターが貼ってあった。夜が明けかかったくらいの時間でアルミサッシの引き戸からはうす青い色の光が漏れてきて、ここはどうも交番なんだなと思い至る。地図を見ると大阪のもので、寝ているあいだに東京に引き戻されているということはないらしい。とりあえずここを出ようと外のほうに向き直ると、おじさんと言うには若く、お兄さんと言うにはすこし老けたくらいの雰囲気の男がひょいと逆側から引き戸を開けた。制服を着ているので警官だとわかる。

「おっ目ェ覚めたか。まあ座り。ほら、これ」

 彼が引っ張ってきたガムテープで座面が補強された灰色の椅子に有無を言わさず座らされる。これまた座り心地が悪い。ああ面倒なことになったなあと思う。

「きみ名前は、どっから来た、まだ高校生くらいやろ、家出か」

 矢継ぎ早に浴びせられる質問になにも言えずにいると、黙っててもわからへんやんか、とちょっとだけ苛立ったような口調で言う。耳慣れない大阪弁のリズムに戸惑うばかりだ。まあええわ、と男は小声で呟き、ぶらさげていたコンビニの袋からオレンジのふたのペットボトルと缶を取り出して並べた。

「これはおにいさんの奢りやから、好きなん取り」

 見るとお茶とホットコーヒーとココアだ。おなかが空いていたので足しになるかなとココアを取ると、ココアって事はやっぱり中学生やんか、家はどこやとまた喚き始める。

「中学生ではないです。家はないです。名前はわからないです」

「あー、家ないか。まあそういうこともあるよな」

 日という名前は正直もう誰にも呼ばれたくなかったし、家には帰りたくなかったので怒られるのも覚悟でそう言うとあっさり認められて肩透かしを食らった。まあそういうてもな世の中には捜索願ってもんがあるから家出やったらわかんねんけどな。で、名前は。わからないです。頭でも打ったか。わからないです。それでしばらく押し問答していると、ほな検査やな病院行くか、記憶喪失、おおごとやないかと一喝され救急車まで呼ばれてしまった。どうも昨日転んで打ったところが瘤になっていたらしく、それを警官に見られてほんまに頭の怪我やんか早よ言えやとさらに怒られて、初めて乗った救急車は思ったよりも狭くてごちゃごちゃとしていて、頭を見られたり血圧を測られたりしながらそれなりに大きい病院に着いてしまった。そのまま、心配ないと思うんですけどと言いながら、ここまで来たら名前もなにもわからないで通し続けて挙句の果てにはレントゲンを撮られたり大きな機械にまで入れられ結局原因不明の記憶喪失患者ということになってしまった。頭の怪我はたいしたことはないんだが、と医者は不思議そうな顔をしているがなにも言えない。結局、検査入院ね、ということでその日は病院に泊まることになってしまった。

 翌日のさまざまな検査でも当たり前だがとくに異常はなく、医者は頭をひねっていた。強いストレスとか、なんとか、と言うが当然なんの結果も出ない。最終的にはカウンセラーまで出てきたが知らないわからないで通しきるしかないと思い話しているとおれはだんだん楽しくなってきた。ここでは誰もおれの名前も出自も知らないのだ。

 次の日はさすがにもうする検査もないのか、医師や看護師達がなにか思い出さないのかと聞いてくるぐらいだった。わあわあとうるさくされるのは好きではないが、大阪弁の心配するときのイントネーションはなかなか好ましいものだなと、このころになるとずいぶんのどかな心持ちだった。病室にいるとひょいという感じでココアをくれた警官がやってきた。おう君、ちょっと話あんねんけどな、と言われるとすこし身構えてしまうが始まったのは思ったより変な話だった。

 彼は、タドコロユウジや、田んぼのタぁに場所のトコロ、裕福のユウにツカサドル、や、よろしくな、と、名前を名乗ってから話を始めた。結局おれ自身についての捜索願は適合するものはなく、記憶もこのまま戻らないのであればどうしようもない。いくらかは手持ちもあるようだがずっと病院にいることもできない。このまま怪我は治って退院ということならホームレスということになる。年齢はわからないと言うが中学生以上だというので、児童養護施設だとか、ホームレスの支援設備みたいなところに身を寄せてもいいが、実は彼の実家が工場をやっていて、今若い職人のなり手を捜している。もしよければそこで住み込みで働かないか、ということだった。給料もちょーっと少ないけど出るし、最近は少ないけど昔は住み込みの人もけっこういはって、寮はもうないけど部屋は手配できるから。と言われて、おれはなんだかおもしろくなりあまり考えもせずぜひお願いします、と言った。

 怪我自体は本当に大したものではなかったし、そんなにゆるくていいのかと思ったが病院の職員に田所さんの知り合いがいたらしく、ものすごく簡単に退院することになった。請求された金額はぎりぎり手持ちで足りる金額だったが、給料からちょっとずつ天引きやで、と言って田所さんが出してくれた。彼は人好きのする笑顔の男で、おれ正直細かいもん作るの苦手やから工場継がへんかってんけどさあ、黒ちゃん器用そうやし向いてると思うでがんばってな、と、おれが黒い服を着ていたから黒ちゃんね、とペットにつけるような気軽さで名前をくれた。

 田所さんの実家は大阪のはずれの工場がとにかく多いところで、なるほどこんなところになら身元不明の人間でもなにか仕事をさせてもらえることもあるのか、と思った。これ黒ちゃんね、とおれは紹介され、最初は記憶喪失と聞いて戸惑った顔をしていた彼の両親たちも、さすが血と言うべきかもともと楽天家なのかおれが普通に日本語を話せて、家でやっていたような掃除も洗濯もある程度できるということがわかるととくに嫌な目に遭うこともなかった。もちろん出自もわからない人間にはじめから職人の仕事を任せるようなことはなく、最初は検品の方法を教わって近所のパートのおばさんと一緒に部品を箱に入れる作業をしていた。田所金属製造という名前だけではよくわからないその工場は主にネジなどの加工をやっているということもその後知り、すこし時間が経ってから機械の操作を教わった。最初はもちろんなにもできなくて迷惑をかけたが、なぜか他の職人の人たちもずいぶんおれによくしてくれた。おれが気がつかないところは叱ったり、初めてのことならきちんと教えてくれたし、研磨の仕事が向いているなどと褒めらることまであって、だれかと逐一比べられることもなく、丁寧にやればその分成果が出る仕事があるなんておれは生まれてはじめて知って夢中になって数年が過ぎていった。

 本格的に仕事を始める段になって、田所さんがいろいろ調べてくれて記憶喪失でも戸籍は作れるということがわかり、おれは新しく黒田春一という名前を手に入れた。黒ちゃん黒ちゃんとおれを呼んでいた人々が皆で考えてくれた名前だった。田所さんの名前から一字頂戴しようと思います、と言ったら彼はとても喜んでくれて、春一って色気もあって、ぴったりの名前やなあ。初めて会ったときもちょうど桜の咲くころやったもんなあ。と言ってニコニコ笑った。春ちゃんみたいなかわいい息子、とそのころにはもう専務と呼んでいたが田所さんのお母さんもそんな風におれを言ってくれた。社長のほうはおれにはそんなに甘いことは言わなかったが、機械の扱いや安全のことについてはきっちりと教えてくれて、まあ、一人の工員としては可愛がってもらえているのではないだろうか、と思うようになった。

 おれは本当に、夢のようにしあわせだった。あの葬式の日にきっとおれも死んでよみがえったのだと、そういう風に思っていた。金属の加工のことも楽しかった。置かれている機械は古いものが多かったが工夫でできることは沢山あったし、特別なものを作ることができる工場だとおれは誇りに思っていた。本当に楽しいと思える仕事をやっていると時間はどんどん過ぎ、おれは気がつくと二十歳を越していた。おれの誕生日は作り直した戸籍では工場にやってきた日、名前の通り桜の咲く春の初めだったので黒ちゃんもやっと酒が呑めるな、と会社のお花見でお祝いをしてもらった。狭い夜の公園はそこかしこに紅白のちょうちんが吊るされて風が吹くとざわざわと花が歌った。おれはすっかり酔っ払ってブルーシートの上にぐにゃんと横たわっている。五年が経ってもうおじさんと呼ぶのに抵抗のなくなった田所さんがおれの頭をわしわしと撫でた。おれはほんとに黒ちゃんのこと弟みたいに思っとるんやで。ありがたいなあ、嬉しい。

「あの時交番に子供が倒れてるって百十番入ってなあ、事件か不良の家出か思て行ったらなんかええ身なりやし、寝てるだけやったからそのまま運んだら朝見たら怪我しとるもん、勝手なことしたかなあ思ってさあ。その後、ほんまに記憶喪失聞いてさあ。こんな綺麗ェな子、親御さん絶対心配してはるわ思って調べても調べてもぜんぜん届けも出てへんしさあ。どうしようかと思ったもん。でも黒ちゃんほんま、どっから来たん。いつかおらんくなるんちゃうの。なあ」

 ずいぶん耳慣れた大阪弁がやさしい。おれずっとここにいたいよ。もし思い出しても、おれはここを選ぶよ、という言葉は上手く口から出せなくてぐずぐずと流れて消えた。

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