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涼しくなってきたし、という理由で通夜はその次の日になった。ちょうど土曜だったのでそのほうがいいだろう、という話で、死ぬ日すら上手く調整していくんだなと思うとなんだかおかしかった。おれは普段どおり風呂を洗って沸かしさえした。父に風呂が沸いた旨伝えると先に入れと言われた。母はもう眠ってしまったらしかった。見慣れたはずの風呂場は白く煌々とあかるかった。電気の光を反射して静かにきらめくお湯にすこし違和感があって、そういえばおれは晶の後に入ることが多かったから、微かな人間の脂の皮膜が浮いているのに慣れていて、こんな誰にもまだ触れてない湯につかることはなかったな、と思った。かかり湯をして足先からおそるおそる入るといつもより熱い湯がつま先からけんけんと噛み付いてきて、かれはいつもこんな熱い湯に浸かっていたのかと思った。風呂が熱いからかなんなのか知らないけどおれの目からはぼろぼろ涙がこぼれて、湯船にどんどん混ざって、おれは晶が死んで泣けるのかと驚いた。その日も自分の部屋で眠ったが疲れていたからか思ったよりもちゃんと眠ることができた。夢を見て、いつかの玉砂利の浅瀬で泳いでいる夢だったが、遠くを泳ぐ人はいなかった。夜が明けるすこし前だったろうか、ぬるい海の夢から覚めて、喉がどうしても渇いて台所へおりて行った。蛇口から直にガラスのコップに水を出して、一気に飲み干す。もうすこし飲みたくて、水を注ぎ、冷蔵庫から氷を二つばかり取り出して入れた。台所から居間を越して見える客間の襖はぴたりと閉まっていて、母がいたらどうしようか、と思いながらおれはなんとなく扉を開けた。中には誰もいなかった。おれは居間のちいさな電灯の光を背にして、そのかすかな明かりの中で白い棺が発光するように目立っているのを見た。棺の蓋は閉められていなかったので、人が寝るには窮屈に思える箱の中でそれでも行儀よくかれは眠っているように見えた。棺に背をもたれて、ずるずる床に座る。ドライアイスがつめられたそれは冷たかった。おれの手の中で氷とグラスがからりと音を立てる。ずっとこうしたかったんだと思った、かれの冷たい棺を背にして氷水を飲むこと。おれの人生の最高の瞬間は今だ。グラスを傾けると、氷が唇に触れて、それはしびれるほど冷たかった。
いつの間にかそのまま眠ってしまっていたようで、カーテンの引かれた隙間からうす青色の朝の光が差し込んでくるのがちょうど顔に当たって目が覚めた。両親に見つかる前でよかったと思いながらおれは身を起こて、すっかり溶けてしまった氷とぬるくなった水を台所のシンクに捨てた。時計を見ると六時過ぎ、そろそろ皆起きて来てもおかしくない時間だ。なるべく物音を立てないように階段を上り、できるだけ静かにベッドに入ってもう一度眠った。
起きてみると朝と言うには遅い時間で、父はおれに勝手に食事を済ますように言うとなにか書類などの探し物をしているようだった。母も昨日よりは、というかここ数ヶ月のなかでは一番と言っていいくらい元気そうで、いっそ人が死んでしまうことによる諦めのようなものをおれに思わせた。昼前に葬儀社の人間がやってきて、てきぱきと棺を運び出し、おれたち親子三人も用意されたタクシーで葬儀会場へ行った。そこはなんだかがらんとしたつくりのところで、白い壁と白い床をしていた。横に火葬場がありますので、今日と明日はこちらで過ごしていただくことになります、と言われておれたちは控え室のような畳敷きの部屋に通された。実家のまだ近い父方の祖母と祖父が会場に着いて、かれらももちろん晶のことが好きだったので言葉も少なく、沈痛な面持ちをしていた。祖父はわかりやすくおれの顔を見て目を伏した。大丈夫だよおじいちゃん、おれもおれが死んだほうがよかったと思ってるよ。
通夜の席が始まってしまうともうおれができることはとくになにもなかった。親戚や父の会社の付き合いの人間などがやってきて、学校の人間などは明日に来るようだった。僧侶が念仏をあげるのを並んだ椅子の前のほうに腰掛けて聞いているのがなんだがテレビの中の出来事のようで、すべての事象が目や耳の上をつるつる滑っていくだけだった。お焼香の摘んだざらざらだけが指に突き刺さって、夢じゃないんだと思った。両の祖父母もまだ存命だったのでおれは本当に身近な人間の葬式というのは初めてだった。まず一番最初が自分の双子なんてなかなかないことだと思う。お経と父の挨拶が終わるとおれは本当に手持ち無沙汰になって控え室で出された寿司を食べていた。冷たくて海苔がシナシナになったきゅうり巻きは、すごく、食べ物という感じの味がした。だだっぴろい部屋の隅で無言でのろのろと寿司を食うおれはどうもずいぶん異様だったようで、別室で仮眠でも取るように、と言われた。案内されたのは畳と布団はあったがなぜか三畳ぐらいの窓のない部屋で、たしかに床で寝たこともあって疲れていたおれはとりあえずしわにならないよう制服の上着とズボンをハンガーにかけ、ありがたく眠ることにした。布団はすこし湿っていてひんやりした。自分でもびっくりするくらいコトンと寝てしまって、二時間くらいで目が覚めて、夢も見ないまま布団から出た。通夜はほぼ終わったようで、脚の悪い祖母と祖父は近くの宿を取っているということでもう会場にはいなかった。寝ずの番をしなければいけないということで、家に帰ってもいいと言われたが、一人で帰るのもどうかと思って一緒にいることにした。白々とした斎場におれと、父と母でぼんやりと向き合っているのはなかなか滑稽だった。一応棺の中の晶も数えたら一家全員がそろったことになって、こんなふうに親子みたいに近くにいるのはいっそ不思議だなあと思えた。おれたちは誰も、一言も喋らなかった。渦巻き型の線香から煙は一筋上がって、そして空気に溶けて消えていく。電灯がかすかに音を立てていることに気がつくほど静かな夜だった。おれたちはたまたま晶の母で、晶の父で、そして晶の双子だっただけで、偶然に一緒にいるんだなと思った。この世の大体のことはこういう風に仕方ないことだ。二時をすこし回ったくらいだったか母は頭が痛いと控え室に眠りに行った。父はおれを気遣うようなことを言ったが、なるべく晶に似せる努力をしながら微笑んで、さっき寝たから心配ないよ、と、言った。そうか、とだけ言って彼は押し黙った。煙草の箱を取り出して、一本抜いて唇にくわえる。匂いがつくからベランダで吸ってちょうだいと言われ続けていたそれをとがめる母は今はいない。青い箱から抜き出したそれは白くて、くわえて火をつける父はまるで知らない人間のように見えた。ふーっと煙を吐く動作が、すこしだけ俯いたときの晶に似ていて、おれたちを構成するものの由来がこの人と母にあるのだなと思うと、当然のことなのに不思議なような気がした。
なあ、と父が口を開いた。おれは相槌を打ちながら、どうか思いとどまって欲しいと思う。
「おまえ、自分が死んだほうがよかったとか思ってるだろ。やめろよ、そういうの」
なんて残酷。思ってないわけないだろうが。母や祖母やその周りの人間の態度をおれと一緒につぶさに見てきてそれを言うのか。あなたがそれを言うのか。おれは声を出すこともできなくなった。喉の奥が焼けて、弁解さえも許されないのかと思った。これは一体何の罪だろうと考えて、生まれてきたこと自体だと。
かれの双子に生まれてきたこと自体がおれの罪!
父の顔を覗き込む。おれの目の形は晶に似ているだろう。父は伏したかたちは近いと思ったけれど、こうやって正面から見るとあまり似てなかった。瞳の下のカーブはむしろ母ゆずりなのだなとおれは知る。まつげの生え方は似ている。長くはないけどみっしりと生えて縁取りみたいにな。晶に似ていない角ばった鼻。薄い唇の上だけがすこし角度がついているようなところは似ている。おれはまばたきも忘れてむさぼるように父を見た。思えばこんなふうにまっすぐ父を見たことなんて今までなかった。人間をこんなにまじまじ見ること自体、まだ子供だったころ、晶と一緒に鏡ごっこをした以来だ。
晶は本当は左利きで、矯正されたのでその後はほぼ右を使っていたが、たしか幼稚園に上がるまでは絵を描くのもスプーンを持つのも左手だった。おれは気がついたときには右利きで、向き合って食事をするとおれたちは本当に鏡のようになった。それが面白くて、おれたちはよく鏡ごっこをしたのだ。向き合って、片一方が手を上げれば鏡になるように真似る。足踏みをする。身体をひねる。飛び跳ねて回る。おれたちはとてもうまくそれをすることができた。おれは晶が次になにをするのか知っていたし、晶もわかっているようだった。おれたちは仲のいい子供だった。かつては本当にそうだったのだ。昔はおれたちだけにわかる言葉だってあった。それがどんなものだったかおれはもう忘れてしまったけれど。鳥がさえずるみたいなやり方で、呼吸と区切り方にコツがあったことだけは、なんとなく覚えている。幼稚園に入って、晶がはさみが上手く使えないことに気がついたとき、母はそれを矯正しようとした。矯正と言っても彼が左手になにかを持ちかけたとき、それはこっち、とやさしく取り上げて右に持ち直させただけだ。それだけで晶の利き手はあっさりと生まれつきそうだったみたいに右に代わった。たしか、そのあたりから鏡ごっこはなくなった。
おれと父も似ているところがあるのだから鏡ごっこができるだろうか。右腕を上げてみる。そろそろと、確かめるように。かつてこれが遊びの開始の合図だった。晶はこれに応じて左腕を上げたのだ。もちろん、父は不思議そうな顔をしていた。おれが殴りかかるとでも思ったのか、おい、と不機嫌な声を出す。おれはそのまま伸びをした。やっぱりおれも疲れてるみたい、すこし仮眠してくるよ。と言うと父は納得したように頷いた。
控え室に布団が敷いてあるということだったが、母の隣で寝るのはどうにも気が重たかったので、通夜のときに使わせてもらった謎の三畳間に向かうと、ありがたいことにそのままだった。おれはしんとつめたい布団に潜り込んで目を閉じた。また夢も見ず、さっきと同じくらいで目が覚めた。這い出して、階下の棺の置いてある部屋に向かうと、父が椅子に座ってまどろんでいたので、交代するよ、と言うと、彼も疲れていたのだろう、ぼやぼやとなにか呟き、頼んだ、と言って部屋を出て行った。蚊取り線香のような渦巻き型の線香はくるくるとそのかたちの灰を落としていて、それでもまだ燃え尽きるまでに時間がかかりそうだった。
おれは真正面の椅子に座って、ぼんやり祭壇を見ていた。白い棺の周りを白い花が囲って、ああ葬式だなあという木でできた屋根のようなものがついていて、写真が飾ってある。まさか死ぬなんて思っていない十四歳の晶がしずかに笑っている。これはなんの写真だろうなと思う。おれたちの中学校は、当時だんだんと珍しくなってきた詰襟の学生服で、その写真でも晶はそれを着ている。おれが着るとどうにも浮いた芝居の衣装のようだったが、かれが着るとしっくりと似合っていた。黒色がそもそも似合うんだよとまとまりのないことをおれはぼんやり考える。棺の蓋はもう閉められていてこの白い箱の中におれとだいたい同じ分量の肉と骨が詰まっていると考えると小さすぎるようにも思えた。やすっぽい織りでなにかの模様が浮き上がる布の貼られたその箱は棺と言うにはあまりにも薄っぺらだ。でもこの中に晶はいる。昨日見た。そしてもう永遠に起きてくることはない。




