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誕生日から一ヶ月も経たなかったと思う。変に暖かい日で、うすぐもりのなか太陽がぐずぐず柿色に燃えていた。おれはそのころにはもう毎日掃除をしなくてもいいと勝手に決めて、その日は学校から帰ってきて一人の子供部屋でひっくり返っていた。二段ベッドはもうどちらで寝ようがかまわないはずなのに、相変わらず上の段を使っていた。西日が部屋に差し込んでいた。壁際に窮屈そうにおしこまれた二つの机と、二段ベッドでぎゅうぎゅうの六畳一間はさみしい色でいっぱいだ。右耳が下になるように寝転がればちょうど窓が見える。日が暮れて型押しガラスが薄青から紺色になって、外のアルミの手すりの影が空の色に溶け込んで見えなくなるまで、おれはそうしていた。さすがに腹が減って、階段をおりて台所に向かう。母が食事の支度をしているかと思ったが、部屋の中は暗く、火の気ひとつなかった。居間にいるかと思えばそこも人気がなく、ただ客間に続くふすまがすこし開いていた。細く開いたそれからさらに細い電気のあかりが挿していて、まっくらな居間に一筋、光の線が斜めに引かれていた。
母の泣く声が聞こえる。押し殺したような、微かな声だった。掃除機が代わりに泣いてくれない人間はこんな風に泣くんだと思った。おれは居間の隅に置かれていた電話へ向かい、住所録を取り出した。学校の鞄に入れっぱなしだったテレホンカードを抜き出して、ここで電話をかけて母に声が聞かれるのはよくないことだ、そう考えて玄関に向かい、ビニールのクソみたいなサンダルをつっかけて外に出た。おれはそのとき携帯電話を持っていなかったので、公衆電話まで行かなくてはいけなかった。一番近いそれは数分歩いたところの大通り沿いだ。歩くたびにサンダルはさりさりとアスファルトと擦れ、おれの足音を間抜けに強調した。古い家の並ぶうちのある一角からマンションのある人気のない道を通り過ぎて大通りへ、まっすぐ伸びたパイプをそのまま首だけ折り曲げたみたいな街頭が等間隔で並ぶ。地面に投げ出されたおれの影が濃くなって消えて、また現れた。昼間は変に暖かかったのに、夜は冷え込んでいて、すっかり曇った空は月さえ見えなかった。遠くから車の音が聞こえてくるのが、やけに耳につく。しんと静かに明るい電話ボックスで、おれは住所録を広げて、父職場という項目を指で撫でながら受話器をとった。京都の紅葉が印刷されたテレホンカードが微かに震えながら飲み込まれるのを見て、ひとつずつ数字を口の中で転がしながら丸いボタンを押していく。営業時間を過ぎていたからもしかして繋がらないかもと思ったが、運よく若い男の人が電話を取ってくれた。柘植の、息子ですと告げるとなにか察しでもしたのか、ああ、と遠くから響いてくるような声を漏らし、すぐにかわります、と言った。父が電話を受け取ったらしく、おれだ、と言う。電話越しで聞く父の声は、そんな声だったか、どうか。確証がないまま、おれは夜道を歩きながら何度も練習してきた言葉を告げた。たぶん、晶死んだよ。
父はさすがに慌てて帰ってきて、泣き続ける母にいくつか指示を出したようだった。最初に見限られた医師に連絡が行き、葬儀会社なんかにも電話をしているらしかった。その日はもう寝ろとおれは客間をつまみ出された。飯を食ってない、と言うとかれは冷蔵庫を適当にあさって冷凍のうどんを引っ張り出しフライパンで茹でて、そのあいだに卵をパックごと取り出して賞味期限を見て、雑にお湯を切ってからうどんをどんぶりにいれ、さっきの玉子を割りいれた。醤油を一周かけて、一味の瓶を取り出してぱらぱらとかけて、混ぜて食えよ、と言った。おれは無言で頷いてから箸を取り、卵をぐちゃぐちゃと潰した。そういえば父の作ったものを食べるのは初めてだと思いながら。濃い黄色の卵がうどんに絡んで、なぜだかはわからないが死んでいるみたいだと思った。旨かった。
眠るのは難しかったが明け方にはうとうととまどろむことができた。階段を下りた先の客間で晶が死んでいるのは不思議な気分だったが、昨日までとなにが違うかというとなにも違わないように思えた。翌日はおれも父も会社や学校を休んで、おれはできる程度の片付けをしたり、相変わらず洗濯物を洗って干したりしていた。父はやってきた医者に頭をさげて、葬儀屋と細かい話をしていた。おまえたちの学校の友達なんかは来るのか、と聞くので、晶の友達はきっと何人か来るだろう、と言った。父はそうか、と言った。母は気が抜けてしまったみたいで、朝に父とすこしだけ話をした後、また寝室に戻って眠っていた。親と言うものはこういうときもっとやることがあるのではないかと思ったが、今までの姿を見ているとおれも父もなにも言えないのだった。葬儀屋は祭壇やら配るものやらといった細かい話をいろいろして、なるほど人の葬式についてはそのような話があるのだなとおれは思った。お水をあげます、と言われてどういうことかと思ったが割り箸の先に布を巻いたようなものが出てきて、ああこれが末期の水というやつか、と納得した。本当に葬式のやつじゃないかとおれは思う。笑えない。
程なくして葬儀社から若い男の人が二人やってきた。双子のようによく似ていた。もしかして本当にそうだったのかもしれない。ジャケットを脱いだら黒のベストに半袖のシャツで、葬儀自体の打ち合わせをした男とはずいぶん雰囲気が違う。母のたっての希望で湯灌というのを行うのだそうだ。彼らは手際よくビニールのシートを広げ、黒く細長い、風呂桶と言うには浅いそれを運び込んできた。風呂場の場所を尋ねられたので、さすがにまだそこの掃除までしてはなかったのを気まずく思いながら案内する。もちろんジロジロ見られるようなことはなく、蛇口にホースを繋いで、客間でシャワーを使えるようにするのだそうだ。熱いお湯をすこし沸かしてください、と言われてやかんを火にかける。できましたと声をかけるとここに入れてくださいと持ち手のついた木の桶を渡された。なんだか全てが儀式めいていて、ふわふわとした気持ちになった。
双子の、おれの中では双子ということに決めた葬儀屋たちはお悔やみの語句を言い、それがはじまった。さっき沸かしたお湯に水が加えられて、柄杓を挿した状態で渡される。白くて薄い着物を着せられた晶が桶の中で死んでいる。そこに足の方からお湯をかけてください、と言われ、まず父が、呼ばれて起きてきた母が、そしておれがそれをした。服が湿ってぺっとり肌に貼りつくので、痩せた身体の線が浮き出してしまう。こんなものを見る日が来るなんて思わなかった。それが終わると彼らの仕事がはじまった。先ほど用意したシャワーからお湯を出しながら左足を洗う。泡立てられた石鹸がかれの皮膚の上で滑って、ぬるい湯がかれの身体に馴染む。まるで人間扱いだなと思った。もう死んでいるそれはただの肉の塊なのに。徐々に身体の上の方を洗っていく。服をはだけるときには薄い布団のようなものをかけた。優しい手つき。おれはこんなふうに触られたことはないな、と思った。晶ならおれの知らないだれかにこのように触られたことがあったのだろうか。髪の毛をゆるゆると洗われる。おれと同じ細い髪が男の角ばった手に馴染んだ。泡と水が、深い色をつける。おれたちの髪は昔から細くて雨の日にはぴんぴんと跳ねた。おれの身体の中で一番晶に似ている部分はそこだったかもしれない。そうか、葬式かとおれは思う。この髪も骨ももうじき燃やされてなにもかもなくなってしまうんだな。なぜ死んでいるのはおれじゃないんだろう、本当に、心の底からそう思った。
顔にかみそりが当てられて、微かな産毛が泡と一緒にごく薄い灰茶色になってそのうえにたまっていった。おれの頬は最近髭の気配がしているというのに晶のそれはあくまできめ細やかで、だが子供の肌と言うにはみっしりとした質感で、まあ、死人のものなのだから仕方ないとおれは思う。死人。死んでしまったおれの双子。遺伝子を同じくするおれの片割れが死んで洗われている。洗う彼らの手つきはあくまで丁寧でなにか壊れ物でも扱うようで。泡が流されて、いかにも柔らかそうな白い布で身体を拭かれている晶はなんだか気持ちよさそうだ。人間が死ぬところをおれは生まれてはじめて見たんだ。だんだんゆっくり死んでいくように見えた。今この瞬間も微かに残った命のかけらのようなものがすこしずつ揮発しているようで。
身体を清められた次はもう一度布団に寝かせられて、化粧が始まった。今まで一度だってそんなことはしたことがないというのに、筆で顔を撫でられる晶はすこし滑稽だったが、たしかに薄く血色を施されると見違えた。それは、去年までの、学校で人気者だったあきらくんによく似ていたが、もっと、うんと美しかった。痩せてしまった頬に綿など詰め込まれるのではないかと思っていたが、彼らはさすがプロフェッショナルだった。土気色になってしまった顔に、すこしだけ色を乗せて魔法のように眠っているだけの少年を作り上げた。おれも化粧をすればこんな顔になるのだろうか、とふと思ったが、まったく違うだろう、と思い直す。
一連の作業を終えて桶を片付け、用意された棺に身体を横たえ、ちいさな祭壇や小刀を設えて彼らは去っていった。母は言葉にはしなかったが行われた儀式にいたく感動したらしく、すこし落ち着いた顔をしていた。死体をお湯で洗うだけなのに、たしかになにか感動的なところはあった。葬式というのはよくできた儀式だとおれは感心していた。どうしようもないところにとりあえずやるべき儀式を並べ立てて、こなしていくことで生きている人間の輪郭がすこしずつしっかりしてくるのは、ありがたいことだ。