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晶が熱を出してしばらくした後、なかなか下がらないそれに不安になったらしい母が行きつけの病院を見限り、かれを連れ出すことが多くなった。どこかの病院がいいらしいと聞くと車を出してずいぶん遠方まで行ったり、大学病院で検査をして病気がわかったなどの話が出ると紹介状かなにかをとりつけるのにやっきになったり。いつもきちんとされていた家の中は徐々に荒れはじめ、惣菜やコンビニの弁当が食卓に上がることも増えた。おれも父もべつに晶のことが心配でないわけではなかったが、母の変わりようにはすこし怯えていたのかもしれない。それほどのひたむきさをもって彼女は息子の治療に当たった。結局母が納得のいく結果が出たのは一月も先で、おれがいくら聞いても覚えられない長ったらしい名前がその診断だった。それがわかってもおれたちの暮らしにとくに変化はなかった。晶は入院をすることになり、母はその付き添いで忙しかった。なんだかんだで家から電車で一時間くらいかかる病院に入っていたので、毎日行こうとすると暮らしを圧迫する。普通のことだ。しかしさすがに非常事態だ。文句など言えたわけがないのでおれも父もあきらめてコンビニ弁当を食っていたし、洗濯物を干して取り込み掃除機をかけていた。母はどんどんいらいらするようになっていて、半分くらいはおれたちの洗濯物の畳みかたと片付けかたのせいで、もう半分は手をかけたのにちっともよくならない晶が原因だった。わからなくもない、晶は今までかけられたぶんの手間をきっちり結果として反映していたからだ。塾に行かせれば成績が伸び、楽器を習えばメヌエットでもなんでもすぐに弾きこなす。そういうやつだったから、母も初めてで戸惑っていたのだろう。そのことを責めるのも哀れな話だ。
おれはのろまな人間なので生まれたときから人間の心の機微がすこしわからないようなところがあって、子供のころそれでずいぶん嫌な目に遭うこともあったが、晶のほうはそのようなそぶりを全く見せずに誰のこともわかるような顔をして生きていた。思えばおれの人生というのは人間らしさを獲得するための長い修行のようだった気もする。働きだしてからもずいぶんそれで苦労して仕事はなんとか人並みにこなしているつもりでも、やれ仏頂面しているとか、連絡が遅いだとか気が利かないだとかそんなことをずいぶん言われた。まあ、実際そうだったので仕方ないのだが。
そのときもおれは母にかれの病状についていらないこと言ってしまい、鼻血がでるほど殴られた。母がおれに手をあげたことはそれが最初で最後だった。彼女が慈悲深い人間だったか、もしくはよい母だったのかはおれは知らない。なんとなく、母については晶のそれであるのはたしかなことだとは思えたが、まさかおれのお母さん、お袋、ママ、そんなものであるとは思うのは難しいことだった。晶と晶の母、おれからはそのように見えた。
どのくらい経った後だっただろうか、晶が退院することになって、そこでおれは初めてその病院に行った。なぜか設備の整った最新鋭のイメージを持っていたが思ったよりそこはこじんまりしていて、広い敷地にたくさん木が植えられていた。こういうところに入っても人間は生きて帰れるのだな、と思ったが、かれの顔を見てそれは間違いだったとすぐにわかった。健康的にすこし丸いくらいだった頬はすっかり痩せ、おれよりすこし年上にすら見えた。そうか、とおれは思った。ここにいても仕方がないから帰ってくるだけなんだな。
母は用事があると言っておれと眠ったままの晶を病室に置いて部屋を出て行った。おれはベッドサイドに置かれた丸椅子に座って、かれを見ていた。カーテンが静かにゆれ、こぼれた光が床に複雑な影を描いた。部屋にはいくつかベッドがあったが、思い出せばなぜかどこも空で、痩せた晶の喉がかすかに上下するのを見ていた。枕元には色とりどりの紙で折られた、千羽と言うにはあまりにも数の少ない折鶴の束がかけられていて、これは学校の連中がこしらえたものだった。晶のクラスとは程遠い教室にいるおれのところまで、ちいさなダンボールに入れられてさも尊いものであるように差し上げられたその紙くずのかたまりを持って帰ってきたのはおれ自身だ。他は本が数冊。携帯ゲーム機、テレビのリモコンなんかがベッドサイドにばらばらと置かれていて、おれが持っていないものばかりだな、と思った。ベッドの枕元にひっかけるようにしてお守り袋がかかっているのが目に入った。見慣れないそれには母のふるさとの南の島の名が書かれていて、おれはなんとなくそれを手に取った。たしかに昔遊びに行ったときにちいさな神社があったことは記憶していたが、こんなお守りが売られていたとは知らなかった。おれはしばらくそれを見つめて、なんとなくその固く結ばれた紐を解いた。お守りを開けてしまうのはよくないことだとは知っていたが、おれが持てないものの中身を知る権利くらいはあるとなんとなくそう思ったのだ。中の薄いものを爪ではさんで引っ張り出すとちいさな薄いスポンジのクッションと、紙切れのようなお札と、薄く透明なガラスの破片のようなものが出てきた。指ではさんで光に透かすとハート型がつぶれてゆがんだような妙な形で、ちょうど中心に入った接合部分の細い線の周りが虹色にきらめくのだった。おれはこれがなにかはわからないが、きっとかれは知っているのだろうと、なんとなくそんなことを思って、おれは生きていて初めておれ自身が惨めになった。同じ遺伝子を持っていて入れ替わることすらできそうなのに、おれと晶はなにもかもが違う。すれ違ったナースが振り返るほどおれたちはよく似ているのに、おれは誰にも好かれず、早く走ることもできず、病魔に蝕まれることもないのだ。おれはどうにもいたたまれない気持ちになって、その透明な破片を持って窓へ向かった。ガラス窓はすこしだけ開いていて、そこから吹き込んだ風がさっきからカーテンを揺らしている。ちょうど子供の腕が通るくらいの隙間だった。おれはそれを握ったまま窓の外に差し出し、手をぱっと開いた。外を覗き見ることすらしなかった。そのままベッドのほうに向き直り、お守りの薄い緩衝材とおふだを元の通りに直して、紐もきちんとしてベッドサイドにかけなおした。人がいじったような跡を根こそぎ消して、おれはもう一度丸椅子に座って、そして晶を見た。病んだおれの双子を。
家に帰ってきた晶は客間に敷かれた布団が定位置になった。トイレや風呂など行っていたと思うのだけど、おれはそれを覚えていない。起きているときすらも、薄い膜が一枚瞳の前に下りたような目つきをして、かすかに開いたかさつく唇とあいまって、おれはもう晶自身は遠くへ行ってしまってここにいるのはかれの抜け殻なんだなと知った。いつの間にかすっかり夏は終わって、秋というにも寒い日が続いて、おれたちの誕生日がやってきた。おれはべつに自分の誕生日にはなんの思い入れもなかったし、もともとそれは毎年かれを祝う人々を傍から見るための日で、もちろんおれの美しい双子が皆からお祝いされまくるのをみていてべつに不服もなにもなかったが、とりあえずおれのための日ではなかった。おれのための日なんて一年のうちどこにもないのだけど。だけど晶は学校にすら行けていないし、そのころには母はいつも泣いているか怒っているか疲れた顔をしてため息をついているかで、父は徐々に家にいることが少なくなっていた。やれ仕事が忙しいだの、どうしても付き合いで出かけなければいけないだのと言っていたが、おれでも自分の妻がこんなふうになったら家にはそりゃ帰りたくないよなあと思うような状態だったので、仕方ないと思っていた。おれ自身は普通に学校へ行っていたので、普通に勉強をして、いるんだかいないんだかというかんじで、定期テストを終わらせ、誕生日と言っても普段と何一つ変わらない時間を過ごした。家に帰っていつものように、すっかりおれの仕事になってしまった洗濯物を取り込み、部屋に掃除機をかけている途中に玄関のチャイムが鳴った。出てみるとなんとなく学校で見覚えのある女の子が立っていた。学校のダサい制服から着替えてしまうとよくわからないが、多分、晶と同じクラスの笑い声がうるさい女の子だったと思う。洗濯物がバリバリになるくらい風が冷たい日だというのに黒いショートパンツに、淡いピンクのカーディガンを着ていてなんとも寒そうに見えた。肩の下辺りまでの髪の毛がやたらとツヤツヤしてんな、と思った。
あきらくんに、これ、と差し出されたのはカーディガンと同じ色をした紙袋で、おれがぼんやりしているとお見舞いだから、と言って押し付けてくる。中を見ると透明な袋の中に手作りらしいクッキーが入っていて、おれは不意に、喚き散らしたいような、泣き出してしまいたいような気持ちになった。食欲もなくして母が工夫してこしらえたなんだかベチャベチャした飯を皿に半分も食えていないこととか、点滴の痕がすっかり痣になってしまった腕のことなんかを、言っても馬鹿みたいだと思いながら洗いざらいぶちまけたくなったが、この女に罪はないのだと思い直す。彼女はただ走るのが速くて美しくて人を惹きつけるあきらくんのことを、数ヶ月たっても忘れなかっただけだ。おれは二回ほど深い呼吸をした。女の目になんともいえない、侮蔑のような色が見える。晶のことが好きな人におれがたまに向けられていた目だ。素材が同じはずなのになぜおれとかれはまったく違う人間なのかと。そんなの、おれが知ったことではない。
とにかく菓子が食える状況ではない、ということをおれはどもりながら拙い言葉で、なんとか言った。女はあきらかに不満そうな顔をしていて、おれはだんだんこいつは病気のお友達を見舞うやさしい自分に酔っているだけなのではないかと疑い出した。しばらく話したところで彼女はおれの手から紙袋をひったくるようにして奪い、おじゃましました、と言って踵を返した。おれは嵐のようなそれについていけずに、ボケーッと玄関に立ち尽くした後、掃除が途中だったのを思い出して振り向いた。早くやってしまわなければ、夜にあまり物音を立てると晶に障ると母がうるさい。掃除機を置きっぱなしだった居間に戻ると、母が立っていた。おれは目を合わせることすらしんどくて、まっすぐに掃除機に手を伸ばす。こいつがガーガー言ってくれれば、母もおれに話しかけないはずだ。スイッチを入れる前に彼女が口を開く。
「あの子もおまえが病気になったほうがいいと思っていたんだ」
ああ、そりゃないよ母さん。おれ、わりと母さんにも父さんにも、晶にも義理立てして生きてきたんだぜ。おれは晶じゃないから、せめてできることは、やったつもりだったよ。スイッチを入れる。おれの代わりに泣いてくれる掃除機はいいやつだなと思った。