表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
84°33’  作者: ・△
13/13

13

 翌日は残った子供部屋の片付けだった。とりあえずもう誰も寝ることはないだろうとベッドに置かれた布団を畳んだ。目に見える黴などは生えていなかったがそれでもちょっと変なにおいがしたので、紐でしばって一階におろした。二段ベッドはなんとか解体できそうだったので、葉がいるあいだにということで二人でできるところまでやった。作業をしながら他愛ない話を沢山した、学校で好きな教科、やっている部活のこと、塾でできた友達のこと、幹が元気になったら一緒に遊びに行きたいところ。今日なに食べたい、と聞くと一拍おいてからにっこり笑ってカレー、と言った。三畳間にあった工具箱が役に立って、かれが塾に行く前にベッドをおおむね分解することができた。昼からも、同じサイズの板や棒を括ったり、長すぎるものを小さなのこぎりで切ったりして、階段を往復してそれを運びきるともう夕方だった。いつかのような薄青が窓の外に広がっている。色だけは変らないんだな、と思ってカレーに足りないものを買うために家を出た。

 どんなカレーが好きかわからなかったので、大阪で食べ慣れていたビーフカレーを作ったら、家のカレーは基本チキンだからめずらしい、おいしい、とニコニコして食べてくれた。おれは葉のおいしそうな顔を見るのが好きだな、と思った。

 なんだかお兄ちゃんができたみたいで嬉しい、とかれは笑う。そう、とおれは言った。皿を洗ってしまうから持ってきて、と食後に声をかけると、はい、と明るい声で言って運んでくる。ちょうど振り返ったときにかれがそこにいたので息ぴったりだな、と思うと葉もそうだったらしくて春さんとは気が合うと言う。皿をすべて洗ってしまうと、お疲れ様でーす、お水だけど、と言ってかれがガラスのコップを差し出してくる。差し出されたのは左手で、既視感があった。たしか初めて会ったときにもかれの手は左が差し出されていた。おれは思わずコップを右手で受け取って、開いた左手を差し出した。葉はおなじように手のひらを上にして右手をあげ、中指の関節をこつんとおれにぶつけた。まるで鏡のように。目を一度固く瞑って開くと、かれは同じようにした。にっこり微笑んで見せると、同じようにした。そこまで来て、我慢できないといった様子で笑い出し、ねえなつかしいこれ鏡遊びでしょ、ぼくも幹とめっちゃ子供のころやってた、春さんもやってたの。といかにも楽しい、という様子で言った。おれはなにも言うことができなかった。右手から滑り落ちたガラスのコップが、分厚いものだから割れはしなかったけど転がって、氷が二つ床の上で滑った。春さん、と一転不安げにかれは言った。おれはたまらずかれのその薄い身体を抱きしめた。ぎゅうとまわした腕が、あまりにも細い肋骨に触れる。おれの不意の行動に葉は驚いたようだったが、何も言わず、腕をはねのけることもしなかった。必死にしがみ付いて、寄せた鼻先がちょうどこめかみの辺りにあたって、シャンプーと、微かに薄荷とオイルみたいなにおいがした。とても長い時間だか、わりと一瞬だか、おれはそうしていて、そして正気に戻って慌てて何度も謝った。葉はいいよ、気にしないで。と言ってくれるが、申し訳ないやら年下に見せる態度ではないと思うやらで落ち着かずに頭をさげ続けるおれを置いて、本当に気にしてないよと言うと、とっとと眠ってしまった。

 いつの間にか六日もたっていて、もうあと四日しか葉と一緒にいられないと思うとすこしさみしかった。次の日もかれは楽しそうで、子供部屋のちいさな押入れから出てきたものに目を輝かせていた。二段ベッドが邪魔になっていて半分しか開かなかった押入れはどうも緊急ではないものが沢山入っていたようで、それこそ晶が祖父母にもらった天体望遠鏡やら地球儀やら、古い飛行機の模型やらが出てきて、小学生のころのおれたちですらすこし微妙、と思っていたものが今のかれの目から見ると一周回って新しいらしく、地球儀を回しては知らない国がいっぱいある、名前が違う、国境も違うとはしゃぎ、模型についてはシブい、という評価を下していた。島の文房具屋で買われたらしい学用品にはリアルエイティーズじゃんヴィンテージじゃんと楽しそうに叫び、おじさんはもうついていけないです、という顔をするしかなかった。すごいすごいとスマートフォンで写真を撮るかれに欲しいならあげる、と言うと真剣に見繕い始めたので笑ってしまう。学校の友達、こういうの好きな子もいるからさあ、と下敷きで自分を扇ぎながら言った。

 じゃあこれは友達にあげる、といくつかものを取って、これは自分用にしようかな、と摘み上げたのは大きめのジャムかなにかだったらしいガラス瓶に差されたままの透明な万年筆だった。これは晶がむかしおばあちゃんにもらったやつ、と言うとそれぼくにもおばあちゃんかな、と言うので、ううん、もっと田舎の、南の島のおばあちゃん、と教えてやる。でも古いペンだからな、書けるかな。と言うとかれは万年筆の使い方をスマートフォンですぐ調べて、水で洗ったらいけるかも、と言った。ペンたてのほかのものは古いはさみや、ボールペンだったから捨ててしまって、ほこりまみれのその瓶をかれはくるくると洗った。新しい水を入れ、ねじを回すようにペンを分解して、そのまま水につけた。いつのものかわからない紺色が、一筋ふわりとガラスの中で踊った。

 翌日は水曜日で、おれたちがもう一週間も一緒にいるんだと思うと戸惑う。 朝、普段つけないテレビをかれが初めてつけたので、理由を尋ねると台風が近づいているから進路が気になって、という話だった。たしかにこのまま進むと明日このあたりを直撃するらしくこのおんぼろ家がそれに耐えられるのかおれはすこし怖くなった。とにかく戸締りをするしかないな、と真剣に考えていると葉がけらけらと笑って、春さんが東京にいないあいだこの家だって沢山台風が来たんだからいまさら飛びやしないよと言って、それを聞いてすこし気が楽になった。今おれが住んでいるところはあんまり台風が来ないんだよといって、工場のことを思い出す。来週にでも帰らなければいけないのが、楽しみなようであり、名残惜しくもありで不思議な気持ちだった。来る前はあんなに嫌だったのに。塾が休みの日だから、なにか食べたいものがあるかと問うとかれはすこし考えてギョーザ、と言った。今日は送り火の日だから、焚いてから一緒に食べに行こう、と昨日水に浸けていたペンを引き上げながら笑った。葉が食べるものを作ってやれないのはさみしいような気がしたが、たしか近所に旨い中華料理屋があったからそこに行けばいいかもしれない、晶も好きだったから、きっとかれも気に入るだろうと思った。

 子供部屋の片付けは順調で、押入れはほぼ空になり、机の中身も明日にはけりが付きそうだった。古い教科書も葉は面白かったみたいで、今と違うとしげしげとそれを見ていた。さすがに残す意味もないので、廃棄用のダンボールに詰めていく。

 日が暮れたころに、送り火を焚こうと言うのでそうした。夕日はおどろくほど赤く、軒先からはそれ自体が見えるわけではないが空の半分ぐらいが怖いほどあざやかな色に染まっていた。さみしい虫の声がして、ざあっと吹いた風はずいぶん冷たかった。なんの虫だろう、と言うと葉がひぐらしだろう、と続けるように答えた。

 焦げ跡のついたぺなぺなのアルミ皿に、オガラを積んで火をつける。あんなに苦労したのに、今回はすぐに火をつけてみせた。要領がいいんだな、とおれは思う。晶みたいだ、と思って、そんなことばかり思うおれ自身が見苦しいな、ともうひとつ思った。強い風に煽られて火はすぐに強く燃えて、消えた。後にはきれいに炭になったまっくろなオガラだけが残った。コップの水をかけて灰が散らないようにとかれはすぐそれを玄関の中に引き戻した。

 ギョーザ、おいしい店あるから、と言って葉を連れて外に出ようとすると、まさかと思うけどなくなってないよね、と疑わしそうな声音が帰ってきた。おれがなくなったスーパーを目指していた話をしたのを覚えていたらしい。ちょっと待ってと言い、その場で調べると確かに店は健在だったが、すこし遠いところに移転しているようだ。調べてよかったよ、とかれは言い結局なんだかんだでチェーン店のファミレス風の中華屋に行くことになった。例の電話ボックスを越えたちょっと先にその店はあって、白々とした店内におれと葉はぽつんと浮いているようだった。葉のリクエストで餃子だったのに、頼んだそれにかれはあまり箸をつけずに青菜炒めばかり食べていた。ほどほどに人がいるのに、静かな店だった。話の内容までは聞こえない程度のかすかなざわめきが、まるで寄せては返す波のようで、おれは大きなガラス窓に映った葉の姿を見ていた。外は真っ暗で、それはまるで鏡みたいだった。

 台風の予報は当たったらしく朝からすごい音をさせながら雨が降っていた。この雨は台風に伴った前線の影響で台風自体は昼過ぎです、これからどんどん雨が強くなりますとテレビは言った。ちゃんと早くに起きたのに、葉はコーヒーを入れなかったし、ラジオ体操もやらずにおれたちはニュースを見ていた。どこか遠くの町で浸水があったらしくて、ニュースは水浸しの町を映していた。泥水の川のようになった道を押し流される車の映像が、どこか嘘のように見えた。強くなる雨脚にしかたないと数日前に片付けた雨戸を引き出して閉め、家中が夜のように暗くなったところで、子供部屋にだけ明かりをつけて掃除の続きを始めた。細かいものと、ベッドの下にしまわれていた衣装ケースが残っていたので、まず机のほうから雑多な紙類などをダンボールに詰めていった。学校のお知らせや、古いノートや、テストの答案なんかが出てきて、今までの葉ならおれより賢いだのこれは勝っただの言いそうなものなのに、雨風の激しい音と古い蛍光灯のかすかにちらつく光がおれたちからそんなふざける気力を奪っていったようだった。いっぱいになったダンボールを二人で階下に運び、衣装ケースは中身だけざっとみてこのまま下に運ぼう、とおれが言うと、かれは頷いた。雨の日って頭が痛いよね、と言うので、奇遇だなあおれも具合がよくないんだ、と言いながら白色のプラスチックのそれを開けると、中に入っていたのは学生服だった。瞬間、ばちんという音が聞こえてあたりが真っ暗になった。

 停電か、とおれが言い、とりあえずブレーカーを見てくるとスマートフォンのLEDの明かりを頼りに葉が動こうとしたとき、足元に置きっぱなしの衣装ケースのふちを踏んだらしく服がばさっと散らかってそのまま転んだ。光源がシャツかなにかの下敷きになったらしく目を刺すちいさな点が朦朧として、すべてのものの輪郭がぼんやりとだけ見えるようになった。飛び散ったのは晶が着ていた服だった。灰色の半そでのシャツも、紺色のマフラーにも、学生服にも見覚えがあって、おれは泣き喚きたいような、心臓が突き刺されたような、そんな気分になった。晶の服の下敷きになって、身を起こしたかれは薄明かりのなか違う人間に見えた。晶。おれが思わず零すと、冷たい声音でかれは言った。

「ちがうよ、ぼくは、葉介だよ」

 あ、とおれの唇から震えと声とがない交ぜになった呻きが漏れて、暗い中に消えていった。ぼくは、違うよ、と駄目押しのようにかれは言った。ぼくはあなたの半分じゃないよ。日、とかれはおれを呼んだ。

 でもあなたはとってもかわいそうだから、ぼくの夏休みを一日だけあなたにあげる、と言われて、おれは思わずその足元に座り込んだ。寒くもないのに身体の芯から震えている。それでも手を伸ばすと、鏡遊びのときのように触れてくる気配があった。かれの指先はあまにりも冷たくて、氷に似ていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ