12
その日おれは久しぶりにあの玉砂利の浜の夢を見た。遠くで誰かが泳いでいた。それが晶なのか、葉なのかそれともかれの片割れなのかは、わからなかった。水は透き通っていて、おれの足の下に丸い、いろいろな大きさの石がたくさん転がっていた。おれはそのまま仰向けに倒れて、身体の下でぱしゃんと水音がするのを聞いた。太陽はどこにも見えないのに空は均一に青く、おれは目を閉じる。
起きて、と足を持ち上げられて戸惑う。葉はおれの右足首を引っつかんでいる。おれはずいぶん腑に落ちないという顔でもしてたのか、人を起すときには上半身より下半身を揺らしたほうがいいってテレビでやっていたから、と言って笑う。ラジオ体操もう終わったよと言ってスマートフォンを見せられるとたしかに十時を過ぎていて、身を起こすが畳の上とはいえそのまま寝てしまったので身体が痛い。珍しいね、と言って葉が笑う。珍しいって言ったっておれとおまえは四日間しか一緒にいないぞ、まだ。おれのなにがわかるんだよ、そう言ってタオルケットを引っつかんでもう一度丸くなると、かれはそれを奪ってぼくが作った朝ごはんが食べれないって言うの、と芝居がかった口調で言った。
台所のテーブルを見るとたしかにきれいなフレンチトーストが雑誌のなかから飛び出てきたみたいに並んでいて、なかなか起きないから勝手にやったよ、とかれが笑った。それはルックスは完璧なのに、食べるとなぜか甘みがまったくなくて、おれは思わず笑ってしまった。フレンチトーストってこんなんだっけ、と言うとむくれた葉は、はちみつかメープルシロップがあればよかったんです、と言い募る。仕方がないので冷蔵庫に入っていたバニラアイスを半分ずつ乗せて、いちごジャムも乗せて食べた。アイスを朝に食べるって贅沢だよねと、葉はすぐに機嫌を直した。
もともと荷物の少ない部屋の整理はあらかた終わり、おれは二階の物置三畳間の片付けを始めた、物が多くて身動きが取れない部屋なので、荷物を向かいの親の寝室だった部屋にすこしずつ移動させて確認していく。わけのわからないものが大量に出てきた。由来不明のサイン本とか、見覚えのない帽子、張子の人形。極めつけはブリキ缶に大量に詰まった石。子供が描いたらしい絵なども出てきたが、分量がおれと晶で三倍くらい違うのは正直笑うしかない。たしかおれは途中で絵を描かなくなったしな、と納得する。蝉の声がする。型押しガラス越しの光がおれと晶の描いた絵に差している。あんなに上手ねえと言われていたかれの絵は、ただの子供が描いた絵だ。そんなことをしているとやっぱり時間は一瞬で過ぎるので、葉のただいまの声でおれはふと気がついた。ほどほどに遅い時間だ。二階からおりてごめん飯まだだわ、どっか食べに行こうかと聞くとかれはビニール袋を提げて笑った。迎え火を焚く日だよ、春さん。
そのまま軒先でやってしまおうと言うので任せるとどこで調達してきたのか、ぺなぺなのアルミホイルの皿に本格的なオガラを折りちいさな井桁に組む。手つきが妙に慣れているので聞くと毎年おばあちゃん家でやってるからね、ということで、そういえば従弟なんだからこいつの行く寺もあの晶の骨がある寺なんだよな、となんとなく思った。百円ライターは最近チャイルドロックで硬い。それには手こずるらしくなかなか火がつかないので、ライターを借りてみる。煙草を吸うわけではないので、おれ自身も不慣れでたしかに難しい。チャイルドロック開けられない大人、と笑われてからやっと火がついた。ぽっと赤い炎がゆれ、オガラがよりいっそう白く見えた。迎え火というには夜遅すぎるような気もするが、このくらい暗いほうがきっと灯も目立つだろう。
「いつも実家に帰るんでしょ。今年はなんで残ったの。まだ中学二年だし、塾だって別にいいんじゃないの。夏休みの十日くらい」
なんとなく手持ち無沙汰になって、かれの横顔を見ながら聞いた。瞳にちいさな炎が映ってゆれている。今のお勉強ってなかなか大変なの。みんな行ってるからね、塾。お盆も休まないしね。それに、やっぱり、今年は幹がいないから。そう言って端っこで燃え残っていたオガラを器用に掴んで、火の中に放り込んだ。
「幹がいないんじゃ、仕方ないんだよ。」
風が通って涼しいということでおれたちは二階で寝ていたのだが、その部屋をうっかり荷物置き場にしてしまったので下に布団を運んで客間で寝ることになった。居間でいいだろと思っていたのに、葉がこっちのほうが涼しい、と言い出してそうなった。もし晶の夢でも見たらしゃれにならないと思ったが、前の日畳の上で直に寝ただるさが残っていたからか案外深く眠れたらしく、なんの夢も見なかった。
翌日は普段どおりに目を覚まして、おれたちは相変わらずラジオ体操をした。朝飯のトーストはおれが焼き、葉がコーヒーを入れる。これだけは本当においしいと褒めると、 コーヒーを入れるのはぼくの役目なんだよね、と数日前と同じ笑い方をして言った。その役割、幹君にもあるの、と聞くと、いたずらっぽく笑ってコップを傾けながらかれは言う。
「コーヒーを飲むのが幹の役目なんだよ」
伏せた目がちらりと光を反射して輝いた気がした。
やっぱり二階のほうが涼しいよ、とかれが言うので早くそっちを片付けようとなった。明らかにいらないものをダンボールにまとめて、これは後ほど叔父が引き取りに来るということで居間に下ろした。本の類はビニール紐で括っていると、インターネットの古書店に売るからと言われた。葉がお店のアドレスまで控えていたので、叔父のそういう用意周到さには笑ってしまう。
アルバムが出てきたので、そのまま捨てようとするとめざとく葉が見つけて、みたいみたいと騒ぎ出した。仕方ないので冊子ごと渡すと、うわっ春さんかわいい、これ双子のほう、めっちゃそっくり、と楽しそうだ。
やさしそうな子だね、と晶が一人で写って笑っているものをみて、かれが言った。日付を見ると中学二年生の夏で、場所は母の実家の例の島だった。おれが行っていないときだ、と思ってその写真に見覚えがあることに気がついた。どこでか、としばらく考えて、葬儀のときの写真のもともとはこれか、と思い至る。はめ込みで服が学生服になっていたから気がつかなかったんだ。南の島の日の光を浴びて笑っている晶はとてもしあわせそうだった。ぼんやりとそれを見ていると葉の手が伸びてきて、それをアルバムの台紙からはずしてしまった、どうしたのと聞くとかれは笑って、フォトスタンド出てきたから入れてあげる。と言う。銀メッキがすこしくすんだ枠にはめられたかれは、変らずしあわせそうに笑っている。
葉はとてもいい子だったので、一緒に暮らすのはなんの不満もなかった。ただ、やはりかれ自身は自分の親や兄弟と離れて過ごすのがさみしいらしく、夜など眠る前にぼんやりとスマートフォンを見ていることもあった。声をかけると、幹からライン、とか、お母さんから写メきた、などと言って、そのときばかりは年齢よりすこし下に見えるような顔で笑った。二人並べて布団を敷いていたので、闇の中、写真をぼんやり見ているかれの頬が、白い光で照らされているのは何度か見た。スマートフォンを両手で捧げ持っているその姿は祈るようだった。
おれはおれの立場でなにかかれにしてやれる事はないかといろいろ考えていたが、心配ないとか、そういう台詞は言えば安っぽくなるのがわかっていたから、結局口にすることはできなかった。するとかれは見ているおれに気がついたのか、手をのばして、おれの額にかかった前髪を持ち上げて、変な顔、と言って笑った。心配してんだよ、とぽろりとこぼすとさらにかれは笑って、大丈夫だよ、幹、ただの骨折だもん、と言った。それを聞いたとき、おれはどうして葉の片割れも死にゆくような気持ちでずっといたのか、勝手な思い込みだったと気がついて顔から火が出そうになった。交通事故でね、タイミングが悪くて、リハビリがたいへんだからずっとお母さん、行ってるけど、がんばったら元通りになるって言うから、平気だよ。そう言って笑ってかれは目を閉じた。おれは、おれなんかよりこの子のほうがずっと大人だな、と思って恥ずかしくなった。
結局片付かなかった二階の寝室を今日こそは終わらせると、朝食を食べながら葉は息巻いていた。おれは正直子供のころのどうでもいいものが大量に出てくるのに疲れはじめてきて、さらに子供部屋もあるという現実に面倒な気持ちになっていた。そんなおれを無視してかれは元気よく掃除を始めた。さすがにもうアルバムは出てこないし、怯えていた大きなケースの中身は父の古いスーツだったりして、それを羽織って自分の父、要するに叔父のどうでもいい物まねを始める葉にだいぶ笑わせられたりした。
そろそろ昼の用意をして、葉も塾に行こうかというくらいの時間だった。どうしてもよくわからないものは諦めて箱の中に入れていると、透明な安っぽいちいさなプラスチックのケースに脱脂綿を入れたものが転がり出てきた。なにかと拾い上げて見ると、あっ、それ本物初めて見た、と葉が言う。知っているの、と問うと頷きながらプラスチックのケースを指でなぞり、これ、水晶なんだよ。と言う。見るとうすっぺらいガラスの破片のような、親指の爪のようなものが入っていて、一部が欠けたハートの形にも見えた。
「これ、双子の水晶なの。ぼくもこういうのネットで見たことあるけど、現物は初めて見た。ジャパニーズツインって言うんだよ。」
ケースを開けて、かれがそれを窓に向けて透かす。その横顔と、差し込む日の光に、おれの心臓が悲鳴を上げた。それは、おれが晶のお守り袋から取り出して、捨てたかけらと多分同じものだった。日本の双子、と名を持つその石は、ケースに残されたラベルを読むとたしかに日式双晶、とあって、その下に採取地らしいところがちいさな字で書き添えてあった。それは、あの玉砂利の浜を、砂嘴の島を持つふるさとで、母がなにを思ってお守り袋にそれを入れていたかわからないが、ずいぶんいまさら酷い仕打ちだと思った。
「ねえ、これもらっていいかな、幹にも見せてやりたいな」
そうはずむ声で葉は言い、こちらを見る。固まってしまったおれに気がついたらしい。心配そうに覗き込むのが晶に似ていて、おれは似ていると思ってしまうおれ自身が嫌だった。
「いいよ、あげるよ」
ねえところでおれもうちょっと片付けるからさ、よかったら今日、昼ごはん、外で食べて行ってほしいな、お金渡すからさ。なるべく明るくそう言った。これ以上酷い顔をかれに見せたくなかった。葉はなにかを察したのか、それともわからなかったのか、いいね、ちょっとマック食べたいと思ってたんだよね、じゃあシャワーだけ浴びて出かけるね、と言って階段をおりて行った。階下から、これほんとにもらうねえー、と能天気な声が聞こえてくる。
そのままおれはへたり込んで、しばらくじっとしていたが、下でしていた物音が聞こえなくなって、ドアの閉まる音がしてしばらく経った後にふいにぽろっと涙が出てきた。右目と、左目から一滴ずつ、それは畳におちて、しみになった。
あの母がなぜ、双の名のつくものを晶に渡していたのか、それはもう永遠にわからないし、わからなくてもいいことだ。ただ、晶が持っていたそれを、おれはおれ自身で捨ててしまった。おれは不意に、おれ自身は一体晶になにを渡せただろうか、と思った。産まれたときから奪われていると言って拗ねて挙句の果てに逃げ出して、おれのこの世でたった一人の双子の半身になにか、してやれていたのかと。おれはずいぶん長い時間そうして座っていたが、ただひとつのなにかにも思い当たることはできなかった。そのことがわかってから、おれは立ち上がって、片付けの続きを始めた。
帰ってきた葉はきれいになった二階にだいぶ驚いたみたいで、さすがだね、ととくに根拠なくおれを褒めた。ありがとう、とおれは言った。飯もすぐできる、と言って作っておいたケチャップライスを温め、工場の近所の喫茶店直伝のオムライスを作ってやると、すごいすごいたまごがつやぴか、と喜んで食べた。