第216話「空の瞳」
王城、毛足の長い絨毯を踏み抜き騎士の立ち並ぶ廊下を渡る。
仲間達は客間に置いて、俺は一人騎士の先導を追って普段立ち入れない地帯へと踏み込む。
王城に散見される美麗な扉と違う、堅牢な鋼鉄の扉が見えた。
此処が目的地――独房の間だ。
まだ時刻は夜に差し掛かる前で、宴の休憩時間といった所だ。
クライムに依ればこの後は貴族諸侯の晩餐会もあるらしく、俺達に合わせて昼の開宴としたのだろう。
あるいは昼の宴で俺達から情報を得た後に貴族間で共有する腹積もりだったのかもしれない。
俺達の食欲まっしぐらな態度にその目論見は潰えたなと心の中でほくそ笑みつつ、冷えた色合いの鉄扉を抜けると、同じく温かみのない石造りの廊下へと続く。
いくつかある房もまた頑強な鋼鉄で、食事を差し入れる用の穴がある程度で装飾もなく非常に息苦しい。
先導していた騎士の足がひとつの房の前で止まり、振り返る。
「こちらです。いかが致しますか」
「話をつけたいので単独で入室させて頂けますか」
「わかりました。何かありましたらすぐにお呼びください」
独房へと入室すればむわりと匂いが立ち込める。
女の匂いではあるが、それと共に鼻をつくものもある。
目を凝らし暗がりを見れば独房に魔導具の類はなく、差し入れ口の隙間から微かに射し込む光があるだけで、当然水洗便所も存在しない。
魔導具の使用には魔石が必要だ。
国の設備に投じられる魔石は血税により賄われる。
いかなる身分と言えども罪人に依る流血は許さないという訳だ。
それでも汚物などが処理されているのは姫フローラの気遣いだろうか。
壁際、貫頭衣を被っただけの金髪の女が一人、手枷を嵌められ鎖に繋がれ座り込んでいた。
雑に裂いて作られた貫頭衣は胸元が大きく開き、浮かぶ鎖骨に暗い谷間も覗く。
扉を閉めると向こう側に数名、衛兵がべったりと張り付いた事がわかる。
「負けたよ」
かすれ声、唐突な敗北宣言。
目前、脚を放り出し俯いた女は空色の瞳を持ち、虚空を見詰めるままにふっと自嘲する笑みを湛えた。
エニュオ・トラロックだ。
「先の戦い、外套に隠れて見えなかったが、私と剣を交えたのはライ殿だったのだろう……?」
「何故そう思う?」
「両腰に帯剣し、背にも帯剣してなお重量を感じさせない膂力。体格と身のこなし。独特な脚運び。様々だ」
「慧眼だな。さすがは元近衛騎士といった所か」
「元……ね」
洞察力は確かなものだ。
俺は剛腕による恒常的な弱体状態にある脚をカバーする為に意識的に脚を先へ先へと伸ばす動作を取っている。
無意識に歩いていては屈強な上半身に貧弱な下半身がついて来ない為だ。
それを読まれた。
「口が悪くなったな、ライ殿?」
「奴隷に気を遣う必要もないかと思ってな」
「……奴隷落ちか」
「それとも姫の騎士様は歯の浮くような台詞の方がお好みかな?」
鼻で笑って返されながらパーティ申請を投げる。
一瞬驚き顔を上げ、隈のある目元から空の瞳はこちらを伺う。
しばし視線を交わし、俯きと共にパーティが結成され、戦闘指揮の効果で囁きもよく通る様になる。
壁際にへたり込むエニュオの目前に便所座りの格好で着く。
その圧迫感に彼女は何事かされると思った様で、逃れられない石壁の背後に身動ぎした。
位置関係としてエニュオと独房の扉の間に俺が鎮座した形となるが、この身体が障壁となり多少は音も漏れ難くなるだろう。
準備を完了して本題に入る。
「この世に未練はあるか?」
意味がわからないといった風にこちらを見たエニュオは此の地のトラロック家に懐柔されていたが、元は上の世界の人族だ。
その境遇から色々と聞きたい事はあったが、これまでの――いわゆる姫の騎士の――状態では障害が多過ぎた。
だが今は違う。
「俺は上の世界で勇者として闘い、命じられるままに龍を撃ち滅ぼした」
「それで龍撃か……」
「今の俺からは想像もつかないだろうが、騎士アーレスと同じく王家に忠誠を誓い、与えられた職務を全うしていたんだ」
牢の外に張る連中に聞こえない様、ごく小さな声で話し掛ける。
忠誠など誓った覚えはないが、現実として俺には騎士というクラスが発現している。
上辺だけの忠誠と上辺だけの奉仕で認定される辺り、条件など検定程度の意味でしかないのだと思う。
資格という名の実力の伴わない飾りだけの称号。
それは何処の世界も変わらないらしい。
事実龍撃という大層な称号を持つ俺も、バタフライエッジアグリアスのバグ染みた挙動が発揮されなくなった今では一太刀でドラゴンの首を斬り落とす芸当は再現出来ないだろう。
「結果がこれだ。あの腐った塔の上から落とされて、泥水を啜る様な生活を送る羽目になった――」
大仰な身振りで自分の可哀想な境遇を語り聞かせる。
実はもう生活も安定し、ボレアス王の追求からも逃れ戦力拡充に時間が割けるのだが、それをこの場で語るつもりはない。
「――だから俺は塔を登る。こんな所で死んでやるつもりはない」
虚実を取り交ぜて騙り、本心でもって静かに結ぶ。
「良いのか、そんな事を話して。勇者である事は隠していたのだろう?」
今まで勇者である事を散々否定して来た俺が語る内容に、当然エニュオは食いついた。
「奴隷密売組織の首領。その義娘の言葉にどれだけの者が耳を傾ける?」
「義父は……残念だった」
「拍子抜けだな。口を割らないと王様が嘆いていたが、気が変わったのか?」
「罪を認めた訳ではない」
エニュオは視線を落とした。
フォボスの悪行は聞かされ、認知しているらしい。
その上でも口を割らない理由はなんだ。
「ただ姫様がな……幾度も訪れてトラロックの名を捨てろと、義父との関係を切れと懇願されるのだ」
「お姫様らしいな。言う通りに名を捨てれば楽になれるんじゃないのか」
「私はフォボス・トラロックの義娘である前に、上の世界で産み、育ててくれた両親の娘だ。この名だけがたったひとつの、家族の繋がりなんだ」
上のトラロックと下のトラロック。
家名は同じでもその実態は異なる。
エニュオの性質は上の世界で俺に尽くしてくれた騎士アーレス・トラロックに近い気がする。
何よりエニュオは騎士アーレスを王の剣とまで称賛していた。
それほど立派で、エニュオの目指す騎士の像足り得たのだろう。
「俺は上の世界に居た頃、戦闘に向かう時以外あの王城から出た事がない。一体何があるんだ、あそこには」
「何と言われても……」
「敵国による陰謀、王国の内紛、何だって良い。ひとつでも切り口が、軋轢の証拠が欲しい。初めは俺が異世界人だから認識のズレを感じているだけだと思っていたが、下の世界を経験した今でも異常な点が多過ぎる。俺にはあそこがまともな国家だとは思えなかった」
俺の言葉が進む度にエニュオの顔は困惑に満ち、言い終わると同時に疑問を返して来た。
「待て、敵国とは?」
「ナナティン……上の世界の姫には塔を巡っての戦争状態と聞いたが」
「会敵した事は?」
「無い」
答えを聞いて、いよいよとエニュオは俯いた。
情報が足りなかったのかと言葉を続ける。
「俺達は勇者として塔に送り込まれ、一刻も早く“平和な世界を創る”為の登頂を命じられていたんだ。それ以外は自由に出歩けず基本教練を叩き込まれた。戦い以外何も知らないんだよ、俺達は」
静寂の向こうでエニュオが呟く。
「……あそこにはミクトラン王国しかない」
「は?」
「一国しかないのだ。陽光に恵まれ、雨水が降り注ぎ、草木が大地に芽吹き、風が戦ぐ。真に永劫の平和と安寧を享受する不朽の国家。至上の楽園、天の国だ」
プロパガンダ――。
チートという明確に俺達に寄せた用語を使用していた事からも、かなりの頻度で、しかも特定の層を狙って召喚していた事は明らかだった。
第二次性徴真っ盛りと言っても過言ではない学生をピンポイントに狙い撃ちにした理由は、思考誘導のし易さからだろう。
女をあてがう明け透けの懐柔策を受けて、それは理解していたつもりだ。
仮想敵を作る事で自国民を鼓舞し、また守るべきものを与える事で戦闘行為に正義といういかれた属性を付与する手法は理にかなっている。
特に勇者イケメンなどに対しては効果覿面だった。
上の世界の一般人であるシュウの話を聞く限りでも、一般の国民は俺達異世界人と同程度の知識しかない様子だった。
頭が悪いのではない。
情報を統制され“そうさせられている”のだ。
他国との争いを終結させる為に一刻も早く塔を登り、平和な世界を築く必要があるのだと妄信して。
出立時に街中から轟く黄色い声援に勇者の脳は快楽物質で有頂天だ。
戦争を止めたければ強力な勇者を緩衝地帯に派遣すれば良いのではないか。
何なら敵国に送り込んで直接叩けば良いのではないか。
そんな考えには及ばなくて、平和的に戦争を治める為に塔を登るという甘美な大義名分に思考を犯されて、過剰分泌される脳汁に疑いの目は逸らされて――。
他の国の存在自体が偽りであるとまでは想定出来なかった。
俺達は何と戦っていた。
いや、何の為に戦わされていたんだ。
「俺達は同じ空を知りながら、認識にかなりの差があるみたいだな」
「そのようだな……」
上の世界では王城から一歩たりとも私用での外出が許可されていなかった。
昼は戦闘訓練を受け、夜は女をあてがわれ、僅か数日で塔にぶち込まれ、戦わされた。
十代半ばの少年がそんな生活を送れば頭が馬鹿になる。
闘争の奴隷だ。
対して下の世界ではどうだろう。
勇者レイゼイは当初こそ魔族ゾンヴィーフの襲来によりごたごたが続いていたようだが、今は任務に忙しくしているとはいえ昆虫採集ならぬ寄生虫採集に興じたりと自分の時間を確保出来ている。
塔や迷宮の低階層での格下相手の戦闘訓練も行っていたようだし、直属の配下である騎士達を従え脳筋十三騎士団として活躍している。
先頃の対話を見ても王子ゼーテスとは上下関係にはなく、その扱いは貴族というよりも王族に近いのではないか。
同じ世界なのに、同じ勇者なのに、上と下に別れるだけでこれほどの差異がある。
「エニュオの言葉を信じるならば、俺の指導をしていたアーレスはすべての偽りに加担していた事になる」
「そんなはずは……!」
「真に王の剣として務めていたのなら、姫の裁量で国が動かされていて見過ごす訳がないだろう」
「どういう事だ?」
心底わからないといった感じに空色の瞳を向けて来る。
エニュオが居た頃と国の体系が変化していたのだろうか。
「まず俺が違和感に気付いたのは王と姫の力関係だ」
「私が幼少の頃にナナティンという者は居なかった」
一蹴される。
確かに年代が違うのだろうから、そうなのだろう。
とすれば直近の数年でナナティンにあそこまで掌握されたというのだろうか。
「ちょっと待て、エニュオって今何歳?」
「な、何だ、突然」
「俺は十八なんだけど」
「老けて見えるな……」
「うるせー大体この世界の連中のせいなんだよ」
怯懦に淀み、猜疑に歪んだ生活で、健全という名の堕落した生活に培われた現代人の容姿からどれほど劣化したか、この世界の連中にはわかるまい。
眼光は殺意に満ち満ちて、上半身は武器の筋に包まれて、もはや日本人というより原始人だ。
食事がコンビニ弁当から変わった事で内臓年齢に関しては若返っていそうだが。
「私は……二十の半ばだ。あの地を離れたのは十余年前の出来事だ」
「ならその当時はあの王、骸骨親父が取り仕切っていた訳だな?」
「……ボレアス王に似た恰幅の良い男だったと記憶しているが」
「毒でも盛られたか……? 病的な痩せ方をしていたからな」
食うに困らない王が摂生していたとしても骨の様になるのは尋常ではない。
それに姫が王のように振舞っていたのも鼻についた。
ナナティン・ミクトランという女は魔の法に犯されて、人族と魔族とが入れ替わり立ち替わりに混在している異常な存在だ。
魔性の女といえばそうなのだろうが、こと魔の法に及んでは意味合いが異なる。
何処までがナナティンの意思で、何処までが魔族の意思なのか、それがわからない。
確かなのは、権力の在り所が歪んでいた事だ。
「魔族と化した姫に裏で操られていたのかもな」
「魔族?」
あの厄介なスキルには思い至らないらしい。
「魔の法。魔族に身体を間借りされるスキルだ。塔の街でも一度発現している」
俺達のパーティと居合わせたごく一部の者しか実態を知らないのだから仕方ない。
「それに姫が犯されていた。あそこはもう駄目だ。滅ぼすしかない」
「そんな滅茶苦茶な! 穏やかではない!」
「静かに。別の罪状まで貼り付けられるぞ」
騒いで断罪されるのは完全武装で独房に入った俺の方だろうが。
「一旦更地にして塔攻略の拠点に出来れば都合が良い」
「それではもはや戦争ですらない、蹂躙だぞ」
「あそこには俺とレイゼイさん以外の勇者も居る。そしてそいつらは国に隷属されている……わかるだろ?」
間違いなく殺し合いになる。
蹂躙ではなくて、同郷同士の激突。
勇者と勇者の、いかれた力のぶつかり合いだ。
「そこまでして塔を登りたいのか」
「俺は元の生活に戻りたいだけだ。望まずにこの世界へと拉致され、見た事も触れた事も無い武器を持たされ、義理も恩も無い世界の為に戦わされる。その気持ちがわかるか?」
いつかの言葉の復唱に、エニュオは口を噤んだ。
上の世界に喚ばれた勇者の境遇を知った今、受け取る意味合いも変わるだろう。
反論の出来ない立場なのだと、そう考えているのかもしれない。
「いや、今のエニュオにならわかるかもな」
「何?」
「フォボスに強制されて騎士に成ったんだもんな」
「違う! 確かに義父の望んだ道ではあったが、だからといって……」
言葉は尻切れになった。
やはり思う所はあるらしい。
「本当に自分の意志だったのか? 同じ家名だからと望まない不名誉を受け入れ忠義を尽くす謂われはない」
「しかし……」
「クライムさんが言っていた。たまたま同じトラロックの名を持つ者が手を挙げたから預けられただけだと」
異なる地で同じ家名の者に引き取られるというまるで絵に描いた様な展開は、彼女にとっては天啓にも思えるものだったろう。
だがこれは神がどうこうした話ではない。
ヒトの業が招いたものだ。
「電撃戦の折に剣も取らず、奴隷が掃討された奥の部屋で独り喚いていたような男だ。あまつさえクライムさんに向かって風の迷宮が領主アライブ様を抹殺し、風の迷宮街を支配しようと共謀を持ち掛けた。それがエニュオの思う所の騎士って奴なのか?」
利用する者とされる者、それ以外の可能性に思い至ったらしく、彼女は眉をひそめた。
俺は咎人と目されながらも国内紛争に参加し、力でもって王国の追求から逃れた。
そうした常道から外れた道を往く者の存在を、彼女は認知してしまった。
「エニュオには別の道がある」
「何を今更……過去は変えられない」
「だが未来はその手で切り開く事が出来る。此処で死ぬまで生き恥を曝すか、俺と共に塔を登り真実を突き止めるか」
クッと歯噛みして目を逸らした。
選択肢はふたつにひとつ。
国の奴隷になるか、俺の奴隷になるかだ。
しばしの沈黙の後、エニュオは口を開いた。
「私は……自分が天蓋から此処に落ち延びた理由がわからない」
「まさか少女が一人でに塔を降りた訳じゃないだろう? 誰が手引きしたんだ?」
「叔父上だ。頭陀袋を被せられ、馬車に乗せられた。気付けば此の地に居た」
「アーレスか……」
あの統制された上の世界からの脱出は困難だ。
ましてや貴族であれば尚の事。
騎士アーレスが手引きをしたとして、どうして此の地に逃がしたのだろうか。
「思えば何かしらの薬剤でもって眠らされていたのかもしれない」
エニュオに猜疑心が芽生えた。
彼女にとって騎士の鑑たるアーレス。
理想であり目標である彼に対し、疑いを掛けるという発想すらなかっただろう。
しかし今、これまで見ようとしなかった可能性に着目した。
逃避行の記憶がないのは自分を昏睡させたからではないかと。
「理由は?」
「ただ亡命させただけなのか、あるいは何か別の目的があったのか……今となっては何とも」
あまりに付き合いが短くて確信はないが、アーレスは邪悪な人物には思えなかった。
例え邪悪な人物であったとしても、赤の他人の俺と、身内のエニュオでは対応も異なるだろう。
だから親身になって動いたと想定して、もしエニュオを何かしらの目的で逃がしたのだとしたら、それは上の世界と下の世界の差異にまつわるものだ。
でなければあえて“地獄”と称される此の地におとす理由がないからだ。
ぱっと思いつくのはステータス関連だ。
上の世界での石板は簡素な身分表示しか出来ない物だ。
だから重要なのはレベルとスキルくらいだった。
対して下の世界の石板では能力値まで見破る事が出来る。
だから俺は能力値を牽制として見せ付けている。
あとは加工技術くらいか。
ヘカトル家子飼いの鍛冶師であるライカの祖父――親方は、俺が上の世界から持ち込んだ革の鞘を見て『高品質な素材』と言い、反面『作りは凡庸』だと言った。
技術に歪な差異がある。
そういった何かしらの差異が、地獄への片道切符を切らせたのだろう。
「私が此の地に着いたのは幼少の頃だ。覚えているのは家族や親戚の顔と、あの空の色」
「両親は?」
「母は私を産み亡くなった。父は塔の攻略中に戦死した……と記憶している」
何かおかしい。
母親に関してはご冥福を祈るより他はないが、気になるのは父親だ。
わざわざ異世界から人材を召喚して派遣する連中が、自国の貴族を易々と死地に送り込むだろうか。
「本当に戦死だったのか?」
「そうとしか言えない」
「国に謀殺されたとか」
あるいはアーレスは本当に、ただエニュオを逃がす為だけに、あえて何も知らせなかったのかもしれない。
少女エニュオには重過ぎる真実がそこにあったのだとしたら、何も知らせず、幸せな記憶のみを残して逃がしたのだとしたら――。
そうして悩む俺に、エニュオは苦言を呈する。
「憶測で物事を語るものじゃない」
「そうやって良い子にしていて、今どうなっている?」
図星を突かれてエニュオは顔をしかめた。
「頭を使う事を止めたら、ヒトもモンスターもかわらない。相手を疑い、悩み続ける。それが俺が師匠から学んだ事だ」
「師が居たのか」
「グレイディアさんの事だけどな。勝手に学習対象にしてるだけ」
「千年を生きる者……だったか。彼女はかつて何者にも束縛されず人斬りに興じていたという。そんな法外の存在がライ殿に付き従っているのも、理由があるのだろうか」
「誰しも自分の考えを持って生きている。好きで隷属される者はいない」
誰だって奴隷にはなりたくない。
「だがな、騎士であっても奴隷であっても、与えられたものを丸呑みするのはヒトじゃない、家畜だ」
エニュオは唇を噛んだ。
これまでいくらでも機会はあったはずだ。
フォボス・トラロックの牧柵から飛び出る機会は、いくらでも。
言葉はきついが、騎士たらんと他人を疑うという事をせず、あるいは意図的にしない様にして来たであろうエニュオに、今明確に疑いの意識を植え付けた。
俺が欲しいのはフォボス・トラロックなどという小者に縛られる女ではないのだから。
話の詰めだ、立ち上がると追って来た下方からの視線に合わせて見下ろす。
「さて、エニュオには奴隷密売に加担した容疑が掛けられている」
「ああ……」
「フォボスやあの邸宅に詰められた奴隷を見て、本当に何も感じなかったのか? 今一度よく考えてみろ」
目を合わせ、しかと問い詰める。
「私は生来より奴隷という存在に馴染みが無かった」
ぽつりと呟いたのは本心だろう。
「違和感はあった。ある時から突然奴隷の数が増え始め、どれもこれも生気が感じられなかった」
「フォボスが密売組織に関与し始めた頃だろうな」
「だから気付かない様に、感じない様にしていたのかもしれない。物心ついた頃より我武者羅に剣を振り、騎士に取り立てられてからは忠実に公務を遂行し、近衛と成ってからはほとんどの時間を姫様と過ごした。養子というのもあるが、単純にあの家に居たくなかったのだと思う」
「過失だな」
「否定はしない。だが私は……養って頂いたのだぞ。信じたかった……」
心情として理解出来ない訳ではない。
しかし事ここに至っては感情論で解決する問題ではない。
エニュオの取れた最前手は、違和感を覚えた時点で国に報告する事だ。
「他人を信じる心は立派だと思う。しかしどれだけ綺麗事を並べても敗北者に未来はない。自分の命すら守れない奴隷以下の存在だ」
「反論の余地もないな」
「ではその空っぽの瞳に、未だ他人を信じる意思は残されているか?」
「疑えと言ったその口で、今度は信じろと言うのか」
困惑の眼差しを受けて、答える。
「ひとつだけ確実に言える事がある」
すっと右手を天に掲げて、そこには石造りの天井しかない。
「俺は必ず塔を登る。どんな手段を使ってでもだ」
下から覗き込むのは疑いの目。
明確に思考する事を覚えた家畜ではない女。
これなら、使える。
「見たくはないか。暗黒じゃない空の色を、かつて見た本当の世界の景色を」
空はいわば俺とエニュオの合言葉だ。
何処まで行っても暗黒のこの地は、俺達の故郷じゃない。
それを端的に言い表す伏字。
「知りたくはないか。上の世界に何があったのか、トラロックに何があったのかを」
たった十余年前にあったもの。
それを失った天国を犯す魔の手。
気にならないはずはなかった。
空の瞳が暗く落ちて、思案気に泳ぐ。
ごくりと唾を飲み込んで、ぎらついた空の瞳は意志を持ち始めた。
「見せてくれ、私に空を」
かつて近衛騎士とまで成り上がった女は、暗い独房の中、空色の天を目指して――トラロックの真相を追う為に、トラロックという名の柵から飛び出したのだった。




