第189話「風の迷宮、遺志の魔窟」
絶壁から森の奥へ、警戒を緩める事無く向かうと、微かにだが血生臭い香りがした。
人の反応はその先で、決して歩を早める事無く鈍足に周囲を探査しながらの進行だった。
足元にはひとつの割れた首輪があった。
決して解けるはずの無い呪いの首輪が。
色あせてはいるが、その硬質で不滅の細工はかつては美しい装飾品であったとわかる。
首輪を手に取ると、グレイディアは不審を感じてか目を細めた。
嫌な予感がして警戒を強めると、すぐにそれは目に入った。
「こいつはひどい」
複数の冒険者の武装と、決して冒険には向かない華美な服装と、それを突いたクズ鉄と、ボロ布と――。
さながら風化した殺人現場だった。
何時の惨劇か、モンスターの餌になったのか、はたまた迷宮に消化されたのか。
遺体はそこには無かったが、血濡れの衣類は遺っていた。
「先の首輪、まるで肉を裂く様に綺麗に割れていたな」
「最悪な偶然が重なったんでしょうね」
「状況を鑑みるになるべくしてなった結末とも言えそうだが」
「否定は出来ませんね」
魔力刻印、隷属、貫通――冷やりとした。
奴隷を剥いて街中を練り歩く趣味の良いおっさんが居るくらいだし、人の目の届かぬ迷宮、何が起きても不思議ではない。
刻印だけが絶対の契りなのだから。
ちらと仲間達を見て、遺物よりも周辺状況を気に掛けているのが見えて内心ほっとしてしまう。
死人に口無しとはよく言ったもので、遺物が発見された所で既に終わった事実は揺るがない。
手早く遺留品を回収すると移動を再開する。
暗い景観の中、先程から漂っているくらりと来そうな臭いが次第に濃くなる。
どうやら風に流れる香りの根源はこの先らしい。
助太刀する――と口にする予定で来たが、果たしてこれは――。
「こいつはすごい」
正面に見えたそれを凝視していた。
こんな最低な環境に、最高の美女が居た。
一糸纏わぬ姿で、間違いなくそこに居る。
艶のある緑の黒髪に、意志の強い瞳。
肉体は豊満ながら出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいる。
むちりとした太腿はさぞ触り心地が良いだろう。
あ、これはアレだ。
シュウを魔改造した感じだ。
染み付いた行為を無意識に、開け広げた瞳で絶世の美女を凝視していた。
モルドスケイル 魔獣 Lv.30
クラス スケイルメイデン
HP 180/180
MP 480/600
筋力 600
体力 1200
魔力 600
精神 1200
敏捷 60
幸運 60
スキル 魔性
いや、これはおかしい。
モンスターじゃないか。
だがエルフや獣人が居て、どうして可愛げのある魔獣が居ないと思い込んでいたのだろうか。
スキル魔性は魔力の性質を変化するという。
例えばこの場合、魔力によって錯覚を引き起こす事も――しかしそうするとこれは偽乳偽尻なのだろうか。
果たしてこれは、いやいや、まずは見て、聞いて、揉んで、嗅いで、舐めてというし、もう少し近くで改めた方が――。
「阿呆が」
「いって!」
隣から突然飛んできた低高度の打撃をもろに受け、跳ね上がってしまう。
脛に直撃したのはグレイディアの回避困難な一撃。
上半身は屈強だが下半身はあまりに貧弱だった。
「えぇ……いきなり蹴るとかないわ……」
「お前やはり正気ではないな?」
正気じゃないという。
この世界に来た時点で正気を疑ってはいたが。
グレイディアは攻撃的な性格をしてはいるが、分別を守る人物だ。
その彼女が俺の貧弱な脚の、事もあろうに弁慶の泣き所を蹴り上げる事態は異常だ。
何か取返しのつかない事が起きてはいないか。
「確かにシュウが二人も居る訳無いな……」
「え、私? 何の話ですか!?」
シュウは確かに大変に変態的な肉体の持ち主だが、いわゆる漫画的なボンキュッボン体形ではない。
元村娘だけあってちょっとだけだらしないのだ。
いや、それが良いのだ。
反して目前のこれは完璧過ぎやしないだろうか。
まるで妄想の中から出て来たかのような――やはりこれは幻覚か何かだ。
もしや誘惑だとか、そういった類の効果に当てられているのか。
そもそもどうして俺がモンスターに感情移入しているのか。
状態異常にも何も無いが、こうなると魔性の効能と見て間違いない。
「もったいないが」
今は遠い故郷に育まれたもったいない精神を押し殺し、一本の剣を両手で握り込むと目前のモンスターに振り下ろした。
人肌ではない硬質な手応えを貫いて、一撃で命を奪う。
美女の幻影は薄れ散って、途端に頭がすっと晴れた。
滲み出た煩悩が引っ込んだらしい。
やはりだ、何かしら悪い作用に当てられていた。
大きく息をつくと、心配そうにグレイディアが覗き込んでいた事に気付く。
どうやら相当いかれていたらしい。
「正気に戻ったか?」
「魔が差したってこういう事を言うんですかね」
「目が据わっていたからな」
「おかげさまでどうにかなりました。ありがとうございます。それにしても、なんて恐ろしいモンスターだ」
突然絶世の美女にお目に掛かって頭がおかしくなっていた。
いや、こんな所で絶世の美女と出会う事自体が頭おかしいのだった。
性欲を弄ぶとは許し難い生物である。
「よし皆、次から美女っぽいモンスターを見かけたら容赦無く斬り捨てろ」
「多分美女に見えていたのはお前だけだぞ」
打って変わって呆れ顔になったグレイディアが剣で指し示した先に目をやると、そこにはまたモルドスケイルが居た。
クラスはスケイルメイデン。
視える情報は先程と同じだが、意識的に幻覚を打ち破った為か、今度はしかとその姿が目に映る。
驚いた事にそれは人型にすら見えない。
地面に生えた巨大な石のようなものだ。
表層は漆黒の鱗で形作られており、その岩石と見紛う球状は大柄の男よりも大きいほどだ。
花の蕾のように表面に亀裂が入ったかと思うと縦割れに開かれた。
何か出て来るのかと警戒したが、暗闇だ。
どうやらこの縦割れがいわゆる“口”らしい。
そこに引き込まれると口が閉じて、鱗が上手い具合に噛み合って獲物を逃がさない仕組みだろう。
恐ろしいブービートラップだ。
周囲には数体点在しているようで、そのどれもが魔性を発しているのだとすれば、上手い事冒険者を誘い込んで仕留めているのかもしれない。
口を広げ魔性を振り撒きじっと佇む姿はさながら食虫植物だ。
ただ、どうやら魔性にさえ当てられなければ脅威にはならないようで、脳が慣れたのか、抗体が出来たのか、はたまた魔力が適応したのか、色々と線はあるが、残念ながら再発症する気配は見られ無かった。
しばらく挙動を観察していると何時もの様子で黙して居たヴァリスタが突然ふらりと躍り出た。
剣を手に直進した先は魔性の岩蕾。
「ヴァリー!」
まずいと叫んだ次の瞬間には、ヴァリスタは接敵していた。
不安とは裏腹に、何時もの如く剣を振り下ろし目前の標的を叩き斬った。
ただ敵を排除しただけのようだが、尻尾をぶん回しやたらに興奮していた。
「どうした!」
「え? あれ? 何でそこに居るの?」
「ヴァリー……あまり聞きたくはないが、何を見たんだ」
「ライと戦ったの。勝ったの、一撃で!」
「それ偽者だから」
「そんなー! でも勝ったの! 私の方が強かったの!」
「わかったわかった。一勝一敗、引き分けな」
「うん!」
ご機嫌で戻って来たヴァリスタはすぐに警戒態勢に戻った。
この切り替えの早さはさすがの一言で、まさかあのモンスターも魔性を当てて抹殺されるとは思わなかったろう。
グレイディアには無効化され、オルガもシュウもディアナもいつも通りだし、種がわかれば対応は出来そうだ。
「どうやら俺とヴァリーは魔力の影響を受けやすいらしい」
精神値の低さから魔力への耐性が問題か。
とはいえオルガも防御能力は低いし、幻覚の影響を鑑みるに欲望に忠実なだけにも思えるが。
それを言ってしまうと酷い事になりそうなので黙っておく。
「しかしこいつら、自立して移動する事は出来ないみたいだな」
「誘き寄せ食らう、魅了の力だな。最もそれなりに理性が働いていれば克服出来る程度のものだが。なあ、ライ?」
グレイディアに一瞬で看破されて目を逸らすと、すぐさまに話題を転換する。
「こんな危険地帯では生存者の命が危ない。今すぐ探査してくれオルガ」
「本当に見えてなかったんだ。あそこだよご主人様」
俺が翻弄されている内に捉えていたのだろう。
オルガの視線の先には確かに人が居た。
黒い岩蕾に誘惑されてか、半身を見事に挟まれて戦闘不能となった冒険者が。
目は虚ろに、舌は剥き出しになっており、だらりと垂れた手足も動く気配は無い。
鱗の牙は皮膚を貫き血が流れた形跡はあるが、幸いにも肉や骨を断つには至っていない。
どれほどの期間しゃぶられていたのかは知らないが、髭は伸び全身から臭い立っていた。
「生かさず殺さずって事か……むごいな」
「というより、単純に殺し切れないんじゃないでしょうか」
「どういう事だ?」
挟まれたままの髭親父を興味深げに覗きながらディアナが呟いた。
「この階層のモンスターって、どれも性質が偏っていませんか?」
「そうだな。上等な割り振りだと思うよ」
「鎌の奴は待ち伏せで、飛ぶ奴は高速移動で、そうすると――」
「この黒い岩蕾は専守防衛という事か」
考えの一致に大きく頷いたディアナ。
似たような能力のモンスターを量産しても対策されるだけだし、バリエーションの増強は方策としては妥当ではあるが。
しかし移動能力も持たない防御特化のモンスターとは何の役に立つのか。
正直せっかく捕まえて抵抗力も失わせた冒険者をこうして殺し切れずにいる状況を見ると、能力もスキルも腐らせているようにしか思えない。
あるいは魔性というスキルも身を守る為の能力なのか。
尚更無駄だらけだ。
「羽虫が馬鹿みたいに魔力好きだったのも気になるが」
「ライ様が女性に目が無いみたいに、モンスターが魔力に集うのも理由があるって事ですか?」
「大いに反論したい所ではありますが、本能って奴ですかね」
シュウがうむうむと謎の理解を示した本能という線もどうだろう。
これまでのモンスターは多少の思考能力はあれどもただ殺す為に向かって来ている印象だった。
それに比べると冒険者を襲う事を第一に考えないモンスターというのは番犬としても些か疑問が残る。
「迷宮の中で独自の生態系が発生している……?」
「まさか」
「ですよね」
思わず苦笑したグレイディアに同意してしまう。
そもそも迷宮にとっての冒険者とは狩りに来て狩られる間抜けなおやつのはずだ。
だがそれでも収支をプラスに持っていけるのは時の運。
土の迷宮のように自壊する可能性だってある中で、自家発電が如く迷宮内で生態系の循環を構築しモンスターを培養しているのだとすると――何だか発想が飛躍して来た。
「とにかく、生存者を救出しよう」
深読みはしても暴走は禁物だ。
生態についてはこの世界の連中の方が詳しいはずだし、俺の知らない冒険者の情報網だってある。
それに例え迷宮が自給自足していたとしても問題は無い。
奪う側にとっては旨味しかないのだから。




