第176話「おもいあい」
眠りに落ちる直前、ディアナが部屋を出て行くあの時に感じた不安――嫌な予感は的中した。
早朝、剛腕による影響か、未だ身体の火照りは抜けず――いつもの如く宿屋の一室で椅子に腰掛ける俺の目前にはディアナが居る。
晴れ晴れとした表情だが、それは妙に色っぽく、頬には赤みを帯びていた。
色気づいた少女の行動は嬉し恥ずかしというのが的確で、本来微笑ましいものなのだろう。
そのディアナは椅子に座る事は無く、俺の真横まで来たかと思えば屈み込んで立膝をついた。
大きな背丈は俺の視線より僅かばかり下に落ちて、両手で作った皿を恭しくこちらに近付けて――その手に包んだ鋭く大きな楕円形の物を見せて来た。
「これは?」
嫌々に疑問を口にした。
答えはわかっていたから、嫌々だった。
ほんの数秒の間に、もしかしたら宝物の様に持ってきたそれを俺に自慢してるのかなとか、そういった無意味な希望を何度も浮かべては、その度に自分自身に掻き消されていた。
多分口元が歪んでいたと思う。
「私、奴隷ですし。何も無いので、これで今までの非礼を詫びようと思いまして」
「あ、ああ、そう……」
両手に包まれて差し出されたのは一枚の鱗だった。
白みがかった大振りの鱗だ。
それはいつか見た細工が為されていて、紐が結ばれていた。
これをどうするのかというと、それはもうひとつしかない訳で、ディアナは俺の首にそれを掛けようとした。
咄嗟に腕で止めると、一瞬の沈黙の後、それはもう、絶望的な運動音痴とは思えない程の速度で二度、三度と無言で繰り返された。
三度目の正直、ディアナは腕を下ろして、悲しげに俺を見た。
「受け取ってくれないんですか?」
「いや、だってそれディアナの鱗だろう?」
ターゲット出来ない辺りそれは例えば皮膚だとか、そういった本来一体となっているものの一部。
そう、どう見てもその鱗はディアナの物だった。
龍の鱗の如く大振りで白みがかった幻想的な色合いを持つそれは、竜人にはない、龍人の鱗だ。
知りたくもないが、一体何処から引っぺがしたのか。
リザードマンの風習では番がそれを持つという。
つまり雄と雌の契りだ。
それも馴染みのある指輪を渡すだとかそういった契約ではなく、自身の一部を剥ぎ渡すという何とも猟奇的なもの。
「やっぱり私の鱗は嫌なんですか、全部嘘だったんだ」
「待て、そうじゃない」
「じゃあ受け取ってください」
ずいっと突き出して来た鱗のネックレスを膨張した胸筋で受けて、この窮地を穏便に潜り抜ける方法を考える。
断るだけなら容易いが、それで築いた関係が崩れるのは馬鹿らしい。
だとすれば頭ごなしに拒絶するのはうまくない。
逆に俺がディアナの鱗を受け取った場合、どうなるのか。
結婚しろと迫られるのだろうか。
その場合承諾するとやはり証が必要なのではないだろうか。
婚姻の証――鱗の代償――とすれば、例えばそれは――身震いしそうになる。
「俺に爪でも差し出せというのか」
「要りませんよ、そんなもの」
「は?」
「え?」
そんなものだと。
生爪剥がすのがどれほど痛いのか、僅かにでも想像してしまった自分が馬鹿みたいだ。
いつもの真逆の立場に変わり、俺が呆然としたのを見てディアナは小さく笑みを浮かべた。
「だってもう、鱗は貰ったじゃないですか」
その首元を擦って、そう言ったのだ。
縮み上がった股間を締めて頭を働かせる。
俺が渡した鱗と言えば、龍の鱗に違いない。
だがそれは決して俺の身体に生えていた物ではない。
「ねえ、ライ様」
唐突に伸ばされた手は鱗を包み込んだまま膝に置かれて、散漫とする意識と目線を掴まれた。
「竜人族に鱗を交換する風俗はありませんよ」
「それはそうかもしれないが……」
「本気で考えてくれるのは嬉しいですが、そもそも私は竜人でも、ましてやリザードマンでもないです」
「……ん?」
あれ、これはもしや、謀られた。
いや、ただ俺を戸惑わせる為だけにそこまでするか、普通。
そんな冗談の為に自傷行為を働く気質ではなかったはずだ。
「どういう事だ?」
「とにかく、この鱗は受け取ってください。今の私には、何も無いから」
「それは……。だが、どうして此処まで……」
「どうして此処まで辛い思いをしなければいけないんですか?」
被せて述べられた言葉には、重い感情が乗っていた。
「普通に暮らしていたかっただけなのに、あまつさえ――あの時は全てが憎くて、恐くて、貴方を怨みました」
「……そうか」
怨まれていた。
俺に買われなければ、こうはならなかった。
ディアナの中にあるのは、そういった自己中心的な衝動なのだろう。
あの奴隷市場を見れば別の人物に買われる事でもっと酷い扱いを受けていた可能性が高いが、ディアナの語るこれはあくまで感情論だ。
否定は、逆効果だ。
「でも、もしあの時見捨てられてあの男の言葉に乗っていたらと思うと、私――だからこれまで邪険にして来た事、どうか許してください」
龍人と化したディアナは異世界から来た俺と同じ、常識から外れた存在だ。
その現実を直視し、けじめをつけるのがこの行動の本質なのだとすれば――。
だとすれば許しを請うのが副次的なものだとしても、その相手に俺が選ばれたのは決して小さくない。
差し出された鱗のネックレスは浮ついた想いからの選択ではなく、奴隷という身分におとされたディアナが唯一明確に示せる決意の証だろうか。
資産を投げ打ち同行するグレイディアに見たそれと同等以上の、身を切る程の、その身に証を立てる程の、意志。
一連の事態において俺の取った行動は、ディアナにとってそれほど強烈だったのだろう。
少し危険な領域に踏み入っている感がある。
正直かなり恐ろしくもある。
だが、これを受けない手は無い。
「許すも何も、俺が望んでディアナを仲間にしたんだ。力を貸してくれ」
「でも私なんていなくても、ライ様はとても強いですよね」
見上げるのは不安な表情、確かめる言葉――。
これまでの言動は、想定していた以上にディアナを縛っていたのだ。
それは行き過ぎた決意も生んでしまったが、依存に近いものがそこにはあったのかもしれない。
俺達は冒険者という名の戦闘集団。
負けない戦いしか挑まない、卑劣にして無敗の蹂躙者。
戦闘経験の薄いディアナが風の迷宮での乱獲を目の当たりにして、もしかすればそれはいとも容易くモンスターを殺戮している様で、例え理解が及んでいてもある種プレッシャーを感じていたのかもしれない。
戦闘が得意ではないという欠点に綻んだ決心の外側で、微かな不安が何処か居場所を求めているのだろう。
例えばそれは、自分にしかない特別性。
もう一押しで、盤石となる。
「個人の戦闘能力だけでは限界がある。それにディアナにしか出来ない事もある」
「それは……?」
「魔導具を作ってくれ」
「魔導具……ですか? そんなもので――」
「俺の目指す先は塔だ。これから長丁場となる場面では不便も出て来るし、力だけでは解決出来ない問題もあるだろう。だからディアナが必要なんだ。魔導具を作ってくれ、俺の為に」
鱗を纏った手を握り、しかと籠めた力は増幅されて伝わって――。
「俺が斬るのは、敵だけだ」
「はい、旦那様」
誇張でも何でもいい。
カリスマが無ければ演じるまでだ。
信頼出来る主人だと、そう思い込ませる事が出来たのならば――これは精神的な服従、本当の意味での隷属だったのかもしれない。




