第175話「歪みと熱の陽炎」
カーテンから透けて僅かに街灯が射している部屋は薄暗く、生暖かかった。
漂う香りはいやに野性的で、あまり心地の良いものではない。
粗く整わない呼吸音だけか耳元から聞こえて、思考も曖昧にぼうっと視線を投げ出していた。
今襲われたら即死だろうなとか、そんな無意味な事を考えつつ――。
散漫となった意識が戻って周囲を見れば、乱れたベッドシーツに濡れた身体、俺のものではない粗い息遣い。
膨張した腕には白みがかった琥珀色の髪が垂れていた。
意識を失いそうな程の異様な疲労はディアナに手を出したからに違いなく、事が終わってようやくと冷静になるのはいつものパターンだった。
冷静さを取り戻した俺に比べ、まずいのはディアナだった。
左隣へ目を向ければ、潰れたディアナは俺の左腕を枕に、その大柄な体躯を微かに丸めていた。
熱が籠った身体は上下に息遣いを見せて、未だ息が上がったままだ。
ぐっしょりと濡れた身体は、およそまともな行為で生じる発汗ではないだろう。
右腕を伸ばしてそっと肩に触れてみれば途端にビクリと硬直して、瞑っていた瞳が恐る恐るとこちらへ向けられる。
どうしたものかと熟考して、無言で抱き寄せた。
そうして背中に手を回して、互いの間は大きく柔らかな胸に埋められて――。
熱の塊の様なディアナの身体は豊満で、実に抱き枕に最適だった。
そんな馬鹿な考えがようやく出て来た所で、粗い吐息を間近に感じつつ先の行動を思い起こす。
ディアナの許可を得てその首元に指を這わせた。
無論その顎下に触れれば興奮状態で襲い掛かって来る訳で、此処までは想定内だった。
俺は極力剛腕を抑えて事に及んだし、実際この手で痛めつける真似はしなかった……と記憶している。
記憶が曖昧なのはもはやその獣の如き行為の激しさ故に仕方なしとして、さて、果たして俺は何度その顎下に手を這わせたのか。
現にディアナが俺の接触にビビッていたのは確認済みであり、未だ息も整わずに居る。
これは由々しき事態である。
こういう時は第一声が大事なのだ。
何かこう、心を繋ぎ止める殺し文句。
ディアナの背に手を回したまま視線を泳がせてみれば、先に見えたのは鱗の塊。
ベッドの上でくたんと横たわった太い尻尾だ。
その尾先には白みがかった大振りの鱗がいくつか生えていて、それは整然と納まる鱗達の中に在って実に映えて見える。
純白とは言えないが、その白を穢したと考えるとこれまた中々背徳的だ。
こんな時にそんな事を考えてしまうとは、やはり俺は根っからの変態だった様だ。
しかし実際、龍人化して幻想的に白みがかった今の色合いが好みなのだから仕方がない。
「綺麗だよ」
駄目だこれ。
ディアナからの反応は無い。
散々な目に遭わせた挙句に聞かせる台詞ではないだろう。
俺自身、未だ頭が回っていないのか。
稀に口にしていた心無い殺し文句はすらすら言葉に出来ていたはずなのだが――。
「身体、大丈夫か?」
続けて口にしたのは、相当に無理をさせたから本気の心配だった。
「丈夫……ですから……」
更に小さな声で返って来た言葉があまりに健気で、思わず少し力んでしまう。
ぐっと無意識の力で抱き竦めてしまった事で、ディアナは籠った声を漏らした。
すぐに力を解放して、この腕の調整が急務だと再認識する。
とはいえ当初ディアナはあれだけ俺を毛嫌いしていた訳で――そう思うと、中々にくるものがあった。
「こんなドラゴンなら毎日可愛がりたいくらいだな」
ようやくと見つけ出した文句を口にしてみれば、それを聞いたディアナはきょとんとしてしまった。
一瞬の間を置いて理解が及んだのか、真に受けてか――見る見る表情が崩れて真っ赤に染まっていた。
紅潮を隠す様にして胸に頭をぶつけて来れば、その恥ずかしがる姿は進化どころか退行してしまった様で、まるで小さな子供だ。
それを出来るだけ優しく抱き留めて、ようやくと落ち着く事が出来た。
「毎日は……嫌です」
「そうだな、毎日出来る事じゃないな」
耳元で囁かれた言葉はどうにもいじらしいもので、吹き出しそうになるのを堪えながら真面目腐って応答した。
それを不満に思ってか、ディアナは腕の拘束を抜けて自分の首元を押さえて見せながら目を細めた。
怒り顔なのか困り顔なのか、微妙な表情で目を逸らして口にする。
「此処も触っちゃ嫌です」
「嫌なのか?」
「頭がおかしくなりそうなので……嫌です」
「絶対に?」
多分、頭がおかしくなりそうというのは比喩ではなく本当の事なのだろう。
内向的なディアナがたった一度触れただけで豹変するのだから、それを刺激しつつ事に及べばどうなるか――ちょっと思い出すだけでも刺激的である。
そのディアナは動揺を隠す事も無くまるでドラゴンの様に僅かに唸っていた。
思考を巡らせていた様で、返って来た反応は悪いものではなかった。
「……たまになら」
「楽しみにしておくよ」
「……馬鹿」
そんな毒気の抜けた罵声を浴びせられたかと思えば、次には再び頭を埋めて来て、それを抱き留めて、それからずっと、無言で抱き続けた。
剥き出しの龍鱗は、触れられる事で強く反応を示す。
例えばそれは龍の逆鱗に触れるということわざにある様に、まさにあの状態を引き起こすに相応しい位置に埋め込まれてしまっていた。
気付かずにディアナの逆鱗に触れたあの時、もし俺が憎悪されていれば本当の意味で襲われていたのかもしれなかった。
そう考えると、まるで呪いの様だ。
「旦那様」
「うん?」
うとうととしていた時に、ディアナの小さな声に意識を繋ぎ止められる。
少し不安気な声色だった。
「この鱗は……どうなっているんでしょうか?」
ディアナがいう鱗とは、顎下の物の事だけではなく、頬や手足、尻尾の先に生えた物もひっくるめての事だろうか。
俺には鱗が生えていないからわからないが、リザードマンがそうする様に剥ぐだけなら出来るだろう。
だが少なくとも、顎下のそれだけは根深く浸透しているはずだ。
そして何よりその顎下の鱗こそが龍人化の原因なのだろう。
そこだけは取れないだろうし、恐らく取らない方が良い。
神経が通ってしまっているのだから、それを抜き取るという事は臓器を引きちぎる様なものではないだろうか。
「付いているというか……言いづらいが、侵食されている感じだろうな」
「やっぱり私、その内にドラゴンに……いえ、もっと恐ろしい鱗の化け物になっちゃったりするんでしょうか……?」
「化け物になろうがドラゴンになろうが、ディアナがディアナである限り、仲間だ」
「……絶対ですよ?」
「いいとも。巨龍山のドラゴン様にでも誓ってやろうか?」
「龍を撃滅する者の言葉では、信憑性は薄いですね」
ディアナは冗談めかして、ようやく口元を緩めて吐息を漏らした。
それを見て、内心安堵する。
やはり龍人化は本人にも相当のインパクトがあった様だった。
芝居掛かった台詞を投げた甲斐はあった……のかは鈍感なディアナの事だから不明だが、かなり心を開いている。
まぁ、こじ開けたといった方が正しいのかもしれないが。
全部が全部、嘘偽りという訳ではない。
しかし軍資金とはいえグレイディアの金も横領してまで購入した奴隷だ。
俺の手駒として完全な状態に仕上げる必要があった。
裏切らない俺の手足となる様に。
ディアナは多少戦闘に向いていない部分はあるが、それはあくまで殴り合いに向かないという意味だ。
決して頭が悪い訳ではない。
やれと言えば渋々こなしてくれるし、だからといって脳死して無能な働き者になる訳でもない。
出来ない事ははっきりと言う女だ。
そうなると、もしかすれば指令塔として活躍出来るかもしれない。
今後戦力を拡充する上で何より必要だったのは、その指揮系統の確保だった。
これは我武者羅に数を増やしても見付けられないし、すぐに死ぬ指令塔なんて邪魔でしかない。
この世界においては能力値という明確な判断材料があるが、とはいえその値が高いからといって頭が良い訳ではない。
武勇に優れて突出して争いを好むヴァリスタが指揮に向かないのは間違いなく、シュウもまたそのタイプだ。
オルガとグレイディアは何をやらせてもそつなくこなしてくれそうだが、グレイディアは前線においてこそ活きる能力の持ち主で、裏方に回すのは勿体無い。
そうなると指令塔を任せられそうなのはオルガだけだった。
そんな折に見付けたディアナは実に格好の人材だった。
求めて手に入れたのだから彗星の如くとは言えないかもしれないが、まさにそんな存在だった。
ダーティに動いた甲斐があったというものだ。
そして今のディアナにとって俺はただならぬ存在になっている。
それがただの主従関係なのか、仲間意識なのか、恋愛感情なのか――そこを問題とする前に、確信が先に来ていた。
憎しみ以外の感情があったのは間違いない。
少なくとも毛嫌いしていた相手に助力し、同室に自ら進んで泊まる事を主張する程度には。
受動的だったディアナがそういった行動を無意識にでも選択したのが、確信に至る切っ掛けだった。
一度引いて逃れる機会を与えた“触れる”という行為からも、遂にディアナは逃げなかった。
俺という凶悪な男に明確にパーソナルスペースを侵されて、その身に触れられて、それでも悪い反応を示さなかった。
そうして衝動的とはいえあちらから熱烈なアプローチを仕掛けられたと来れば、にわかにでも裏切る事は無いと信じられた。
これで指令塔となる人材は二名確保した事となる。
地下におとされてよりおよそ一月程度だろうか、かなり奔走した。
ようやくと、出発地点に立ったと言えるだろうか――。
「あっ」
突然の声はディアナのものだった。
腕枕の上で寝返りを打つ感触がして、見れば天井に目を向けてぼうっと何事かを考えている様だった。
眠りに落ちてしまいそうな重い瞼を微かに開いてそれを眺めていたが、俺に用があった訳ではないらしい。
眠気と疲労にいよいよと限界が近付いて来た頃、もぞりとディアナは動き出した。
ベッドから降りるとシャツを羽織り、出口へと向かって行った。
「どうした?」
「あっ、起こしちゃいましたか。すみません。私、あちらの部屋に戻りますね」
「え?」
「おやすみなさい」
「あ、ああ……おやすみ」
突然の素っ気ない態度に得も言われぬ虚しさを感じつつも、ディアナが部屋から出て行くと同時に意識はまどろみ、僅かに浮かんだ不安も連れて、静かに暗くおちて行った。




