第174話「龍星の如く」
突然に口を塞がれた事で咄嗟に呼吸を求めて押し返そうとするも、剛腕で弾く真似は危険と判断して踏み止まっていた。
代わりに反撃してやろうと少し馬鹿な考えが浮かんで、舌を突っ込んだ。
「んんっ!?」
ディアナの舌は少々細長い形状をしており、やたら器用に逃れて暴れ回っていた。
驚愕の表情と声を漏らしてたじろぐと、ようやくと解放された。
水気に糸を引く唇を拭いながら目前の少女を見れば、どうも息が粗く、赤い瞳もどんよりと据わっている様に感じられた。
「どういうつもりだ」
「さ、さあ……?」
「……大丈夫か?」
不審な言葉と共に目線を逸らしてしたり顔を作ってみたり、反して腕や股を擦り合わせる様は、どう見ても平常ではない。
剛腕での指使いに慣れていないとはいえ尻尾を撫で回されたのだから、やはりそうなのだろう。
「発情期かな?」
「違います!」
「どっかのお姫様じゃあるまいし、こんなタイミングで襲われるのは困る」
「そっちが先にやったんじゃないですか!」
「そりゃあお前触ってどうぞって許可されたら触るだろう。とても良い尻尾だった」
「そ、それもですけど……それもですけど! もっと凄い所に触ったじゃないですか! 馬鹿!」
「馬鹿ってお前……」
おかしい、こいつは本当にディアナだろうか。
俺の言葉に瞳に生気が戻って、はっとして反論してみせた。
能力を覗き見ても特別異変は無く、突然ブチ切れた理由がわからない。
困った。
何だかよくわからないが錯乱しているし、こういう時は正気を保っている側が折れるべきだろう。
俺に対する憎しみを抱かれてはたまったものではない。
「俺が悪かった」
「え!? ちょ、ちょっと待ってくださいよ! 何を……!」
神妙に頭を下げると、ディアナは更に混乱してしまった様だった。
多少でも冷静になってもらいたかったが、普段へこへこしていないからこその相対的な効果かもしれない。
訳もわからず謝るというのは良い気分ではないが、失うものがちっぽけなプライドだけで済むのなら安いものだ。
「ディアナの言う通り、俺は馬鹿だからわからないんだ。だから何が嫌だったのか教えてくれないか?」
「そ、そんな……やめてくださいよ、酷いですよ」
「頼む、この通りだ」
そう、これは酷く、卑怯な手だ。
主従の関係において絶対的な強者である俺が頭を下げるというのは、奴隷よりも下に、首を垂れるというのは――。
ともすれば諸刃の剣ともなるが、確信があるからこそこの手に及んだ。
絶対に裏切らないという確信が。
「頭を上げてください。話します、話しますから」
「ありがとう、ディアナ」
「は、はい……」
いつの間にか混乱も失せて冷え切った顔は、決して俺を見下しているものではなかった。
ディアナはその心情がすぐ表に出てしまう性質だ。
ある種の罪悪感と、畏怖に似た何かと、そういったものが表情に表れてしまっていた。
それから少し間があった。
しばしの沈黙を挟んで、ゆっくりと息を吐き出して、ようやくとディアナは口にした。
「旦那様、突然此処、触ったじゃないですか……」
俺を避ける様に視線を泳がせながら、顎元に手を添えてぽつりと語った。
「何かひどく、強い衝撃が走ったんです」
そうして頬を真っ赤に染めると、次第に声量は小さくなる。
聞かせたくない様な言葉なのかもしれない。
「頭から熱湯でも浴びせられた気分でした。それが、胸やけを起こしそうな程の熱が、全身に駆け抜けて、眩暈がしそうな程に、催してしまいそうな程に――」
それは多分――。
「――例えば光魔法に全身を貫かれた様な……」
「オーケー、わかった。ディアナ、よくわかった。言い難い事を強要してしまってすまない、ありがとう」
「い、いえ……」
先の粗い息遣いに真っ赤な顔。
今話してくれた熱くて、眩暈がして、催しそうな程の全身を貫く何かとくれば――。
ディアナを襲った感覚は、間違いなく性的な快感だ。
それも普通得られない程の。
初心なディアナにそれを与えてしまったのだとすれば、錯乱するのも無理はない。
とはいえその発生源が、今回のキーパーソン――。
「まさにドラゴンの呪いだな……」
龍の鱗が顎下に内蔵されて、それがある種、弱点部位と化していた。
いや、弱点というのは少し違うが、言うなれば非常に敏感な部位となっていた訳だ。
鈍感なディアナにすら通るホットスポットと来れば相当なものだろう。
「呪い? 呪われちゃったんですか、私? 旦那様からあの鱗を取ったから……?」
「あくまで例えだ。絶対に呪いなんてものじゃないし、もし呪われるのならドラゴンを殺した張本人である俺だろう」
「そう……ですか……」
それが呪いであれば状態異常として確認出来るはずだ……多分。
問題なのは、どうして龍の鱗と同化してしまったのか。
そもそも龍人という種は何なのか。
「龍人って何処かで聞いた事あるか?」
「いいえ?」
「全く覚えはないのか? 伝説とか、お伽話とかでも」
「無いですね。あったら私自身あそこまで驚きませんでしたよ」
「悪い、それはそうだよな……」
当のディアナがまるで知らない。
そして戦闘が終わって休息して、それでも元に戻る気配が無い。
寝れば治るとか、そういった希望的観測が持てる状況ではない。
脱皮なんてレベルの話ではなく、例えばヒトの胎児がそうする様に、ほんの僅かな期間で形態変化を起こし昇華したのだとすれば――いや、尚の事理解出来ないが。
俺の持ち得る知識ではそれくらいしか考えられなかった。
確かなのは、龍の鱗が組み込まれ、新たな鱗が萌芽した事だ。
状況から考えればそれによって別種へと変貌した可能性が高い。
そこから見えるのは、やはり何らかの異常。
異常と言えば、視えるからと使わせた無属性魔力攻撃“竜の息吹”というあの技も、本来人前で使う事を憚れるものだったはずだ。
「今更なんだが、何度か使わせた竜の息吹は禁忌というか、伝統的に使用を禁じられているものだったりするのか?」
「禁じられている……という訳ではありませんね。ただ口から吐き出しますし、何より竜の魂を許容する事は――」
「待て。それだよそれ」
「――え?」
あの時もこうして当然の様な口ぶりで話されたものだから、竜人独自の価値観としてスルーしてしまっていた。
竜人というくらいだし竜か人かという人間性的な意味でのせめぎ合いでもあるのかと、そんな雑な解釈をしていた。
でもそれで、竜の魂という大仰な単語までをも持ち出すだろうか。
「以前も言っていたよな。その竜の魂ってのは何なんだ?」
「竜の魂は、竜の魂ですよ」
「いやいや、俺は異世界から来たんだ。この世界の文化には疎い。もっと詳しく」
「ええっと……竜の、魂です」
「……詳しくはわからない?」
「……はい。説明なんてした事ありませんし……。だって、ほら、そういうものなんですよ!」
「そういうものか、なるほど」
要するに竜の魂とは“よくわからないが凄いもの”だ。
それが事実を元に生まれたものなのか、空想の産物なのかは不明だが、そういった神秘的な概念の土台の正体は容易に思い当たる。
巨龍山というドラゴンの根城周辺を住処と定める竜人とリザードマンにとって、ドラゴンこそが最強の偶像だ。
いや、偶像というか、この地下では事実最強の存在として君臨しているらしいから、畏怖の象徴となるのはわかる。
そしてそのドラゴンの取り巻きとして飛び交っているとされる竜。
これの系譜として生まれた……のかもしれない竜人にとって、その魂が自らに内在すると考えるのは――まぁ、わからないでもない。
例えば混血の者がどこの血を主張するのかと、そういった話だ。
あるいはお伽話の様に、この場合「人らしくあれ」だとかそういった戒めの為に創り出された文句が変質して至ったのか。
例え事実ではないとしても、理性に溶け込む様にして、竜人には当然にそれが根付いている。
竜の魂が、深く刻まれている。
「悪い、ディアナ。もしかすればその身体の変化も、俺が竜の息吹を使わせた事が一因かもしれない」
「そんな事、無いと思います。もしそうだったとしても……大丈夫です」
「無理はするな。吐き出してくれて構わない」
「違うんです、本当に」
ディアナは胸に手を当てて、ほんの少し、拳を握った。
「いつも満足がいかなかった。まるで何か抜け落ちていたみたいで……」
「だから魔導学者になったのか?」
「それは趣味でもありましたから。でも、そうですね。何かを為す事で、大きな手応えが欲しかったんだと思います」
「そうか……」
「でもそれが解消されたんです。あの鱗を手にしてから。だから、怨んだりしませんよ」
不意に笑んだ表情は、妙に可愛げに溢れていた。
背丈は大きく、もはや竜人ですらなくなって、しかしそれは何よりもいじらしく見えた。
非常に、魅力的に。
解明出来た訳ではないが、竜人と龍には浅からぬ因縁があるのかもしれない。
それは現代に伝わる事も無いほどの、太古の縁。
もしかすればリザードマンが番の鱗を首に提げるのも、その名残なのだろうか。
ディアナがこれまでに抱えていた不満が、求めても手に入らない強大なもの――つまりドラゴンという力の象徴なのだとすれば、いやに龍の鱗を欲したのもわからなくはない。
本能的にそれを求めるのなら、その解消されない欲求を何かにぶつけ魔導オタクと化してしまうのも致し方ない。
とすると変態の理由は龍の鱗というのが説得力がある気がする。
生物的にだとか、そういった発想をするから難しくなるのだ。
もっとファンタジーに考えてしまおう。
ドラゴンは超常の存在として畏れられている様だし、滅多な事では倒せないのだろう。
塔の六十階層という取り巻きが存在しない限定的な状況で相対したあの時でさえ死屍累々だった訳だし、地下の脳筋集団が無策で挑めばどうなるかは目に見えている。
その強大なモンスターから得た希少な鱗を身に着けていた事で起きた現象。
そうして、竜人を超えて別の種族とまで至ったのだ。
あれだ、恋い焦がれた鱗が手に入り、肌身離さずに居た結果合体してしまい絶頂したのだ。
なるほど、そうなると今はいわゆる賢者状態だ。
ガバガバ理論だが、そう思う事にしよう。
「ところでその顎下の鱗、自分で触っても何ともなかったのか?」
「そうですね……」
思い出した様に自身の顎下を撫でるディアナは、何とも無い様だった。
試しに俺が手を伸ばせばあからさまに後退して逃げる辺り、他者に触れられる事で大きく刺激が入ってしまうらしい。
逃げるものほど追いたくなるという理不尽な本能を抑えつつ手を引く。
「しかし困り者だよな」
「何がです?」
「そこはいわゆる弱点だろう? それも剥き出しの」
とはいえ滅多に見られる部位ではないし、戦闘中にそこへ攻撃を貰うというのは脳震盪でも起こして気絶するか、首を落とされるか――そういった危機的な場面だろうが。
自身で触れて何とも無い所を見るに、一概に性感帯としての働きがあるものではないのかもしれない。
とはいえ突然に俺に襲い掛かった辺り、他者に触れられると激情に駆られてしまうという感じだろうか。
「不利になってしまいましたね……」
しみじみとそう述べて見せるディアナは、戦闘自体は苦手でも俯瞰して物事を見ているらしい。
「例えばその顎下を撫で回されて誑し込まれたり」
「どうして此処を触られると誑し込まれるんですか?」
きょとんとしたディアナ。
それはもう、理解出来ないとばかりに。
経験しても想像が至らない辺り、何処までも疎い。
鈍感極まれりだ。
「自分がどうして俺に襲い掛かったか、その身体に起きた一番の変化と危険性を理解出来ていないみたいだな」
「何ですか、一体?」
「要するにお前は発情してしまう身体になってしまったんだよ、それもひと撫でされただけで」
「そ、そんな訳ないじゃないですか!」
ワンタッチで即発情とは恐ろしい。
珍しく怒るディアナだが、先の強引な接吻は頭から消したのだろうか、それとも一瞬の激情に流されて記憶も曖昧なのか。
どちらにしてもそのままでは良くない。
「どれ、もうひと撫でしてやろう」
「や、来ないでください……」
わざとらしく指先をいやらしく動かして見せると、ディアナは自身を抱いて下がった。
一歩寄れば、一歩退く。
動物なら舌なめずりでもしていそうな程の鈍重さで追い詰める。
そんな悪代官染みた背徳行為を大真面目にこなしてディアナの様子を探っていると、壁際に詰まってようやくと動きを止めた。
まだ左右に退路はある。
それでも自身を抱いて縮こまって、僅かにそっぽを向けただけの顔が目を逸らすばかりで動かない。
そんなディアナを見て、再三にあの言葉を告げた。
「やはり止めておこう。この腕が使いこなせていないからな」
此処に来て、ディアナの赤い瞳は彷徨いながらも俺を捉える。
僅かに顔を逸らしたまま向けられた瞳は、狙ったものではないだろう上目遣いで、下唇を微かに噛んで――ぼそりと小さく、声を漏らした。
「身体だけは、丈夫ですから……」
「この手で触れても良いのか?」
「……はい」
確かな返事を受けて、そっと首筋に指を這わせた。




