第168話「画龍点睛」
「はは……は……」
龍人と化したディアナからはそんな嗄れた声が漏れ出ていた。
決して明るい雰囲気ではない。
変質した両手を見たまま発せられた言葉にならない声はどこか自嘲めいて、正常ではないと認識出来た。
だとすれば、その肉体の変化はディアナ自身も想定していなかったものなのだろう。
シュウのみならず僧侶達を始めヴァリスタやオルガまでもが釘付けされたそれは、間違いなく異常事態なのだと思う。
だから本人が混乱するのもわからない訳ではない。
「やっぱりこうなっちゃうんじゃないですか」
ディアナは唐突に呟き始めた。
「ずっと、何か、足りなくて。ようやく……そうして、結局、そうなんですよ。化け物なんですよ。そうして、この手は……私は……。駄目なんですよ……そうして、もしかすれば、ヒトですら……」
続けた言葉は途切れ途切れで、頭に浮かんだものが漏れ出ている様で――誰に聞かせるつもりもないものだった。
力無く嗄れ果てた言葉は本来聞こえない声量で発したものなのだろうが、それは確かに届いた。
戦闘指揮の効果で、その声色に乗った震える感情も遮られる事無く完全に。
光を失い掛けた瞳と漏れ出る言葉は、あまりに痛々しかった。
抉られたのだと思う。
その生まれ持っての剛腕でどれほどの苦労の連続だったのか、想像もつかない。
だが“化け物”という言葉はディアナにとって最も身近で、最も鋭敏な刃だったのかもしれない。
その言の刃と、それ以上の現実が、ディアナを抉ったのだろう。
それだけの様子が窺えるにも関わらず、涙は無い。
それは異様で――既に涙も枯れたのだとすれば、恐ろしい事だ。
剛腕を持って生まれるという事、制御出来ない力を持つという事、それはどれだけ理解したつもりでいても尚、想像を絶するものだったのかもしれない。
「落ち着けディアナ――」
「憐れな。いつかの私を見ている様で……ままなりませんな」
「――すっこんでろ!」
何とか引き戻そうとする俺の言葉を遮ってジャスティンの煽る様な言葉が聞こえて、黙らせようと反射的に斬り掛かった。
剣は当然の様に弾かれて、頬に拳が叩き込まれた。
遠慮の無い一撃だった。
それは概念的なダメージとしては大した事は無い。
だが物理的には人の力とは思えない程のエネルギーで襲い掛かって、想定外の勢いで吹き飛ばされた。
まるで俺自身が肉の詰まっていない風船人形なのではないかと錯覚してしまうほどに。
まさしく、そう、人がごく簡単に虫を潰せてしまう様に、人と化け物が対等に渡り合える訳がないのだと、そういった事実を、当たり前の様に、無言のままに言い渡された気分だった。
頭が抜けるのではないかという衝撃は激突と共に逃げて行った。
もしかすればこのまま壁と衝突して頭が――そんな嫌な想像も駆け巡ったが、違った。
僅かな柔軟性のあるものに当たった様で、そのまま床へもつれる様に倒れ込んだ。
見ればそれは紺藍の――。
「ヴァリー!?」
「げほっ……」
「無茶しないでくれ」
「今度は、私が助けるわ」
そんな予め用意していた様な似合わない台詞を吐いて、下敷きになったヴァリスタは咳き込みつつも勝ち誇る。
いつの間に俺の裏に回っていたのか、その小さな体には強大な衝撃だったはずだ。
すぐさまに立ち上がって振り返ると、ジャスティンが追撃を掛けて来ない事を確認して行動に移る。
「オルガ!」
静寂に響いた呼び声にはっとして正気に戻ったオルガはようやくディアナから目を離し、倒れたヴァリスタを見るとすぐさまに回復魔法を飛ばした。
ヴァリスタは物理的に万全な状態ではなくなったが、命に別状は無いだろう。
問題はジャスティンだ。
先程まで、全力を出していなかった。
あまつさえディアナに言葉で追撃を仕掛けた。
誰がこいつを神官というクラスに就けたのか。
口内より垂れ滴る血を吐き出してジャスティンを睨み据えるが、ジャスティンの瞳が向く先は俺ではなくディアナだった。
そうして大仰な身振りを交えて話し出した。
「私は神に祈りを捧げこの拳を我が物としました。私も、貴女も、化け物等ではない。本来神に愛されて、暗い天のその先の、大いなる光を享受していたはずの――。ですが神は未だ私達を見捨ててなどいなかった。信仰の先で、貴女もその身体を――」
「耳を貸すなディアナ!」
ディアナはジャスティンを見ていた。
その牧師風の服の上からでもわかる隆起した両腕。
そして先の、俺達を圧倒する戦闘能力。
剛腕を持ち、そして制御出来ているという確信。
それはあまりに説得力があった。
それはあまりに魅力的な言葉だった。
何よりもディアナにとって同じ境遇という事実が。
ジャスティンは呆然とするディアナから俺へと向き直る。
その顔からは怒気が消え失せていた。
別人に取って代わられたのではないかというその表情は、恐らく慈悲。
またこの顔だ、まるで俺を憐れむ様に――。
「――ライさん。貴方は彼女の不幸を前に見て見ぬ振りをするのですか。これほどに悩み、苦しむ方を」
「不幸だ? 化け物じゃない? 笑わせるな下種野郎」
俺は再び飛び掛かりそうになる力を握り締めて、吐き捨てた。
「普通じゃなけりゃ異常なんだよ、恐いんだよ、化け物なんだよ。それが人として当然の反応なんだ」
「どうして……そんな事言うんですか。仲間だって、言ってくれたじゃないですか。信じてたのに……」
「なんという……」
俺の言葉を聞いてディアナが泣きそうになった。
ジャスティンが悲しげに眉を下げた。
嗚咽混じりのディアナだが、良かった、まだ正気を保てている。
回復したヴァリスタはどうにか立ち上がって態勢を立て直すと、命令を待つ。
オルガは目を細めて静観している。
対してディアナに釘付けとなっていたシュウはその黒髪を振り乱し、慌ててフォローに回ろうとした。
「言い過ぎですよライ様! どれだけ見た目が変わっても――」
「俺だって慰めて解決するならそうしますよ。ただディアナは何もわかっていない。何より自分自身が見えていない」
シュウは何事かを続けようとして、それでも口を噤んでくれた。
「ディアナ、俺は何者だ?」
「え……?」
「この魔導馬鹿が。魔導具以外にも頭を回せ」
「うう……」
「俺は何処から来て、何を手に掛け、何処へ向かっている?」
言葉の意味する所がわからないようで、ディアナは返答出来ずに立ち尽くす。
「あの時お前が俺から奪おうとするほどに必死に、たいせつそうに胸に抱えた物は何だったんだ」
「それは……」
それでディアナははっとして、呟いた。
「龍を撃滅する者」
深く頷いて返すと、ディアナは涙を拭って、落とした魔導書を拾い上げた。
ジャスティンは仏頂面でその流れを見ていた。
「そうだ。俺はお前が馬鹿にして信じなかったくらいの化け物じみた称号を持ったいかれた男だ」
「化け……物……」
「でもディアナ。お前はきっと、誰よりも優しい奴だよ。俺はそう確信している。その手で他人を傷付けたくないと、真っ先にそう考えてしまうから苦しいんだろう?」
ディアナは心根が優しい。
だが、優しすぎた。
それは本来良い事なのだろうが、しかし他人を傷付けまいとする思いが尚の事ディアナ自身を傷付けていたに違いない。
「だが力を持たない者がそんな事を考えられるか? わからないんだよ。力が無ければ考える土俵にすら立てないんだよ、立とうとしないんだよ。全部対岸の火事だ。だから結局、どれだけ取り繕っても化け物は化け物だ」
「旦那様は、恐くないんですか。化け物扱いされる事も、する事も」
「恐いも糞もあるか。勇者だろうが魔王だろうが、人知を超えた存在は皆等しく化け物だ。そこにある差はただ自分にとって敵か味方か、既知か未知か、それだけだ」
強力な者が味方となれば心強い。
救世主だ何だと畏れ敬い崇め奉る。
反して一度敵となれば掌返しだ。
そこには恐怖しかない。
ヒトは集団で生きるものだ。
だから未知の存在を無意識的に拒絶し、それを恐れとするのかもしれない。
「俺は神だろうが斬ってやろうと考えている龍を撃滅する者だ。そんな俺が、恐いか?」
「旦那様は……変な人だと思います。ごめんなさい」
「謝るな、それでいい。ディアナは至って正常だよ」
龍撃。
それは例えてみれば、神殺しという意味合いにごく近しい称号なのだろう。
だから竜人であったディアナにそれを簡単に受け入れる事は出来なかった。
それは変人とも思うだろう。
だが同時にそれはディアナが普通である事の証明でもある。
剛腕を持っている事以外、至って普通――いや、むしろ剛腕により自らが傷つく程に繊細な少女。
「そんなディアナが化け物なら、俺は悪魔だ」
「……」
「そんな俺の奴隷で、嫌々戦っているのがディアナだ」
「……はい」
「外道に踏み込んだ俺に比べれば天と地ほども差があるだろう」
「……」
「胸を張れ」
ディアナは目を泳がせた。
そうして何事かを考えて、一言一言、間違えない様に問いにした。
「旦那様は他人を傷付ける力を持ったとしても、泣きませんか? 潰れませんか?」
「俺がそんな優しい奴に見えるかよ」
「私、こんなんなっちゃいましたけど、恐がらないでいてくれますか?」
「可愛いもんだ。未だドラゴンには程遠いな」
「は、はは……」
その笑い声は、乾いていた。
ただ嗄れたものではなくて、俺の反応に呆れた風で――。
ディアナはその大きな胸を強く押さえると、不安げに口にした。
「それでもやっぱり、慰めてください。簡単には割り切れないんです。此処が、痛いんです」
それが本音なのだろう。
一見すればオルガより年上に見える程の成熟した身体を持っていても、それは恐らく種族の差だ。
中身はどこか危うく幼い。
生来より受けて来た痛みは深く、簡単には乗り越えられない。
だが、その一歩目を踏み出そうとしている。
「龍と化しても、抱き締めてやる」
俺はその先を征く。
この龍人と化した心優しい少女が二度と迷わぬ様、主人として、屈する事無く。
「だから、その痛みを寄越せ」
仏頂面で黙していたジャスティンを正眼に捉えると同時、自分のものとは思えない程の握力が拳に宿って、剣先が震えた。
握る拳は指と指とが互いに潰し合う様に、逃げ場の無い力にグリップは唸った。
膨大な握力に増幅した前腕に、シャツの繊維が悲鳴を上げた。
だから――
「詰みだ、ジャスティン」
――もう、負けない。




