35頁 「死人は決して振り返らない」
「そうだったな。聞いて楽しい話でもないが、知りたいのなら、お前の健闘に敬意を表し、話してやろう」
チェスフォッグは建築物の壁に背中を預け、煙草を吸い、建物のすき間から見える夜空を向いて深々と紫煙を吐く。まるで盛大なため息でもついているかのようだった。
「……昔、世話になった人がいてな。俺の兄貴分だった人だ。誰よりも才知に長け、何事にも屈しない勇気をもつ、二人といない天才だった。俺が唯一目標にしていた人だ」
向こう側の建材を見つめるチェスフォッグの目は、いつにも増して暗く、冷たい。そばに立つルビィアースまでもが心を侵蝕されそうな、計り知れない闇をチェスフォッグは抱えている。
「いっしょに組んで仕事をして、その人はドジを踏んだ俺をかばって、あっけなく死んでしまった。一言、謝る暇さえなかった」
「そ、それはまた、悲しいことだなぁ……」
思わぬ話の方向にルビィアースはうろたえ、宙に視線を泳がせながらちらちらとチェスフォッグの顔色をうかがう。いつもの通り、彼は感情の見えない顔で闇を見つめている。
「悲しいのではない。俺は悔しい。目標としていた人にかばわれ、その上死なれるなど、これ以上の屈辱があるか。死んで記憶の中に生きる者は、ただの生者とは別格の存在だ。俺は生涯、その人を超えられない。助けてもらった命を後生大事に抱えたまま、超えるべき目標を失い、無意味に無様に生き続けるしかない。その人に死なれた日から、俺は抜け殻になったような気分だ」
「じゃあ、天使祝司が欲しかったのは……?」
「もしも天使祝司で叶うのなら、死んだそいつの魂を俺の前に呼び出して、また昔のように徹底的に口論したかった。どうして俺なんかを助けて死んだのかをな」
いびつな形ではあるが、チェスフォッグはその人の死を悼んでいる。そうでなければ、こんなにも疲れたような顔をするわけがない。彼は過去の出来事をきっかけに虚無感にとらわれ、ルビィアースには分からない重たい何かを背負って死ぬまで過ごすのだ。
チェスフォッグは短くなった煙草を地面に落とし、足で踏みにじって火を消すと、壁から背を起こした。
「俺に過去の恥を話させたんだ。話したかいがある相手だったと俺に思わせるような結果を出して見せろ」
「……うん。わたし、がんばるよ」
「仮に勝っても、王には気をつけろ。あいつはきっと何かをたくらんでいる」
最後にルビィアースに向けて薄く笑い、チェスフォッグはスーツのポケットに両手を入れたまま、街のどこかへと歩いて消えた。
どこか、にぎやかで楽しい空気に満ちた場所に行きたかった。夜祭りではなやぐ大通りに出て、申し訳程度に夜店をのぞいてみても、思ったように気分転換が進まない。まるで世界から隔絶してしまったような孤独感だった。チェスフォッグの悲痛な打ち明け話に心理的な影響を受けているのは明らかだった。
「ううっ……。みんな、天使祝司にたくす願い事が重すぎるよ。大人って、全員そんな感じに苦しみながら生きてるわけ? だったら大人になんかなりたくないよぅ」
「王様に選ばれた方たちはみな強く、特異な人生を歩む人ばかりですから。悩み事や願い事も、常人とは一風変わったものになるのが道理ではないでしょうか」
ふらふらと往来を進むうちに、通りの雰囲気の質が変わった。出ている店が、異国からの輸入品を扱うものに様変わりしたからだ。出店の装飾からして普通の店とはずいぶん違い、商品の文化を模したデザインは目に新鮮だった。猫人の夜店とはまた違った異国情緒をにおわせる。
「まあ、ルビィアースさんじゃありませんの」
「……ひっ……!?」
感心のうなり声を上げながら店をのぞいていると、後ろからの品の良いかけ声にルビィアースは肝を冷やした。恐る恐る振り返ると、思った通り、そこには傘を差した鬼百合が立っている。
昨日、他ならぬルビィアース自身が負かした因縁ある相手である。「えへへ……」とあいまいな笑みを浮かべてどうにかこの場をやり過ごそうとしていると、鬼百合は「よければお酒でも飲みましょう」と笑顔で誘いを掛けてくる。どうも、怒ったり憎んだりしている様子ではないらしい。
店先に設置された、長方形の台らしきもの。その上に一枚の大きな赤い布がゆったりと敷かれ、鬼百合に教わって座る。
「どうぞ。故国のお酒ですわ。お口に合うとよろしいのですけれど」
「ど、どうも。いただきます」
東方国から輸入した、その国伝統の酒。それを鬼百合は出店で二人分買い、片方をルビィアースに手渡してくれた。
グラスの中で揺れる酒は完全に透明で、一見すると水のようだ。しかし、液体から立ち上る芳香はまぎれもなく酒のものである。
「……あっ、美味しい!」
「ふふ、気に入ってもらえてなにより」
少し辛いような味わいの後、奥深い甘みがじんわりと口腔に広がる。口から鼻に抜ける酒の薫りも芳醇で、この繊細なうま味はルビィアースの知るおおざっぱな酒にはないものだ。鬼百合によれば、穀物の米を醸造させる清酒だという。
「東方の国って、食べ物も美味しいんですね!」
「ええ。料理の味と創意工夫、それに見た目……美観については人後に落ちないと自負いたしますわ」
「ほら、お前も飲んでごらん」と足元のフレイムにも美味なる清酒を味わわせ、隣に座る鬼百合をそろそろと見る。
グラスを両手で持ち、薄い唇を端につけてそっと杯を傾ける鬼百合は、見とれるほどに優美だった。そろえて閉じた両脚を少しだけ斜めに傾け、意識して品良く振る舞っているのか無意識なのか、なにかにつけて絵になる淑女である。
「……鬼百合さん。昨日はごめんなさい。鬼百合さんにも天使祝司でかなえたかった願いがあったんでしょ?」
「お気になさらないで。勝つ者がいれば、必ず負ける者で出るというもの。恨みっこは無しですわ。それに、実は負けて良かったとも思っておりますの」
「えっ。どうしてですか?」
「ずうっと昔、わたくしは一人の殿方と愛し合いましたわ。相手は鬼族ではなく、異種族の人間。それは鬼族では古来より禁じ手とされ、必ず不幸が訪れるとも仲間に忠告されました。しかし、わたくしは愚かでした。恋の熱に浮かされ、耳を貸そうとしませんでした。そして、忠告通りに破局に至りました」
女性同士の恋愛談義となれば、話に花が咲くのが世の常である。しかし、早くも雲行きが怪しい話の気配に、ルビィアースは冷や汗を浮かべて息を殺しつつ、じっと鬼百合の横顔を見つめていた。
「わたくしを愛して下さった人間は、鬼の身体からにじむ妖気にあてられて寿命を縮め、ほどなくして死んでしまいました。あの時ほど、我が身が鬼であることを呪ったことはございません」
両手で支えたグラスをももの上に添え、目を閉じる鬼百合は、深い悲しみに沈んでいる。しかし、そんな様子ですらがどこか耽美的で美しいと、不謹慎ながらルビィアースは思ってしまう。
「もしも何でも願いが叶う天使祝司が手に入れば、死んでしまったあの方を蘇らせたかった。もう一度、過去をやり直したかった。今度は他人として、遠くから見守りたいと、そう思っておりました」
「ぐっ……!」
ルビィアースは思わず左手で顔をおおい、目を覆いたくなる現実に涙をにじませた。鬼百合の過去に涙を誘われたのではなく、何の願いももたない自分が彼女の悲願を潰してしまった罪悪感が胸に迫ってきたからだ。
「そう思い詰めないで下さいな。死者の反魂は、命の摂理に背く最大の禁忌。死んだ者は二度とよみがえらないのがこの世の絶対原則。過去に死者の復活を試みた者は大勢おりましたが、そのほとんどは失敗に終わり、かりそめの命を吹き込むことに成功しても、死者の身体をかぶった狂った亡者……怪物でいうところのゾンビとなるだけだったそうですわ。わたくし、あの方のそんな醜い姿は見たくありませんもの。異種族間の愛という禁断にさらなる禁忌を重ねても、悲劇の上塗りは目に見えています」
「鬼百合さんみたいに綺麗な女性だったら、いくらでも新しい恋を見つけられると思います……」
「ふふ。それもいいかも知れませんわね。思い出は思い出だからこそ美しく、それを胸の中から現実に掘り返すのは無粋というもの。天使祝司を手に入れてしまったら、また昔と同じあやまちを繰り返すところでしたわ。わたくしを負かしてくれたルビィアースさんに感謝しなくちゃねえ」
鬼百合は空のグラスを台座にことりと置き、閉じたまま立て掛けていた鬼蓄を開いて立ち上がる。
「明日は勝てるといいですわね。およばずながら、ルビィアースさんの勝利を祈願しておりますわ」
「……はい!」
傘のはじきを肩に添え、にっこりと笑う鬼百合に清酒と応援のお礼を言い、暖色の屋台明かりで彩られた通りの向こうへと消えていく彼女をルビィアースは手を振って見送った。
「なんかさ、気が楽になったよ。一番気になってた鬼百合さんにああやって許されると。負かしてくれてありがとうなんて、普通の人じゃ言えないよね。綺麗な女性って心まで綺麗なんだな」
「顔は精神を鏡に写したもの、だと言いますからね。性根がだらしない人は自然にだらしない顔に、気高い信念をもった人は自然にきりっとした顔になりますよ。ルビィさまも鬼百合さんを見習ったらどうです?」
いつもの調子を取り戻しつつあったルビィアースは右手に果実酒を、左手に串焼き肉を持ち、「美味い、美味い」と笑顔を浮かべていた。
買い食いを終え、ほろ酔いの上機嫌で通りを歩いていると、数ある店の中でいちだんと人を集めた催しものをルビィアースたちは見つけた。




