24頁 「天国に来たけど何も無い」
ホワイトアリスはにこにことした至福の表情で、皿に盛ったケーキをとっかえひっかえ食べている。別人のブラックアリスに交代すれば過剰摂取したエネルギーも帳消しになるので太る心配もないようだ。
あまりに美味しそうに、幸せそうに食べるので、ルビィアースも腹が鳴り、よだれがにじみだす。しかし、ここでケーキに手を出したら地獄の中を走るうちにため込んだ欲望が爆発し、もう止まらなくなるだろう。
「貴様は、体重を気にする乙女全ての敵だーーっ!!」
ルビィアースは涙がにじんだ目を閉じ、両手で耳をふさいでその場から逃げ出した。力の限りに足を動かし、ふわふわとした死人が風圧で吹き飛ぶ速度で地獄の街を駆ける。そのうちに欲望をくすぐる建物はまばらとなり、光の道が続く先へ跳んだ瞬間、景色が一変した。
一面の澄んだ青空。足元には緑の草と美しい花々が広がり、清浄な空気は胸いっぱいに吸い込むだけで汚れた心が洗われるかのようだ。赤く、毒々しい色の空だった地獄とは天地の差である。
「気持ち良い場所……。分かったよ、天ちゃん。ここって天国でしょ!」
「その通りです。不完全な空間に出来た歪みを通って、地獄と隣接する天国へやってきました」
「樹とか森とか空は見えるんだけど、天国の住人が一人も居ないね。まだ入り口だからかな」
「いいえ。天国に住む者たちは、そこら中に居ます。見えず、触れられず、感じられないだけです。現世の空気よりも希薄な、限り無く無に近い存在となって、天国に溶けているのです」
天ちゃんは無感情な灰色の目で、桃源郷のような天国の景色を見通している。一方でルビィアースは言葉にならない恐怖を抱きながら、目の前で腕を振ってみる。何の抵抗も感じられない。現世のゴーストだって、実体はなくともその気配や霊気くらいは発しているというのに。
「あ、あのー、て……天さん……。地獄の人たちはちゃんと形を保っていたのに、なぜ天国の人たちはこんなことに……?」
「先ほども申し上げた通り、感情や欲望といった精神のゆらぎは疲労を招きます。それと同様に、何かを考えること、思考も、一種の労働です。生きていた頃のように命を維持するために食べたり、眠ったり、外敵におびえたり、苦痛を感じたり、考えたり、不要な快楽を求めたり、生殖のために異性を探したりする必要は、天国ではいっさいありません。植物や鉱物のように何も思わず、何も感じず、それでいて形ある物質ではおよびもつかない極度に安定した高次元の存在となれる。つまり、天国の住人はいっさいのゆらぎとは無縁の静止した存在なのです。これが究極の楽というものです」
「たしかに、ものすっごく楽そうなのは何となく分かるけどさ、それって楽しいの? 楽と楽しいは別物でしょ……?」
「ここの住人は、退屈だとか、楽しいことがしたいという感情も思考も無なので、心配いりません」
欲に振り回されるがとりあえず自分自身は残る地獄と、欲も意識もいっさいを失った空気のような自分になる天国。はたしてどちらが良いのか、ルビィアースは天国を走りながら思い悩んで顔をしかめる。
「……あれ? フレアさんだ」
前方に立つ華やかな姿の大魔女にルビィアースは急ブレーキをかけ、地面をがりがりと削りながら止まる。
「こんな所で立ち止まってどうしたんですか、フレアさん。お腹でも痛いんですか?」
「いや、天国の自然に見入っていた。ここは自然の楽園だ。気温も湿度も植物の生態系も完璧にかみあった、まさに理想郷さ。こんな素晴らしい自然を、私は現世に再現したい。どういう仕組みなのかと調べていたところだ」
宝石と花々しいドレスで彩られた黄金色の大魔女がひざを折り、花をつむ無邪気な少女のように草花を手にとっている光景は、なかなか見られるものではない。ルビィアースはあっけにとられ、どこかほのぼのとした気分でいたが、後ろのフレイムに無言で頭をつつかれ、はっとレースのことを思い出す。
「フレアさん、わたし、先に行ってますね。ごめんなさい」
「気にしないでいい。私が負けるわけがないからな」
フレアは花の茎を手にとりながら、ルビィアースの顔を見もせずにさも当然といった口調でつぶやいた。自信過剰というよりも、勝利した自分の姿を未来視しているかのような落ち着きようだ。失敗や敗北を完全否定し、己の勝利と栄光しか信じない。世界にその名をとどろかす大魔女フレアともなれば、そんな成功者的な考え方が血肉になっていても不思議ではなかった。
できないことなど何も無いほどの力と富をもつフレアが、なぜ天使祝司を求めているのか。今以上の大きな何かを求めているのか。そんなことにルビィアースが思い至った時、光の道の後方から何かが迫り来る風切り音を感じ取った。
かなり大きな動物だ。どうも馬らしい。しかし、翼ももたない馬が四肢を駆り、空中を猛スピードで走っている。いや、あれは飛んでいると表現すべき移動の仕方だ。
遠目には分からなかっただけで、現世の馬よりも三回りは大きい。飛翔する巨体の馬はルビィアースたちの前で優雅に止まり、その背中に横座りしていた鬼百合がにっこりと笑いかけてくる。
「おくればせながら、わたくしも極楽浄土にたどりつきました。ずいぶんと過ごしやすい、素敵な避暑地ですこと。鬼のわたくしが極楽を楽しんでいちゃあ罰当たりですわね」
「お、鬼百合さん……! そのバカでっかい豪華な馬は、いったいなんなんです……!?」
「これは神獣の麒麟。冥府の世界を進むうちに、森で偶然見つけましたの。現世では聖人の前にしか現れないとされる幻の動物ですわ。捕まえて、鬼蓄のお仲間に加わっていただきましたの。思わぬ拾い物でしたわ」
神獣、麒麟。獣の神というだけあって、地上の馬とは身体の特徴も、身にまとう空気感も違っている。頭部には古木を思わせる色合いの一本角を生やし、顔の造りも馬というよりルビィアースが親しむドラゴンに似ている。背毛は五色の毛が混ざった色鮮やかなもので、体表は黄色の毛に覆われている。威圧感のある巨大さを備えているが優しく穏やかな雰囲気で、神聖な動物である。
「それではわたくし、先に参りますわ。ごきげんよう」
鬼百合を乗せた麒麟は天へと舞い上がり、光の道の先へと飛んでいく。かなり速く、みるみるうちに遠ざかっていってしまう。
「ああっ、先を越されたっ! わたしたちも急ぐよ、フレイム、天ちゃん!」
フレイムを肩につかまらせ、案内役の天ちゃんを隣に並走させ、ルビィアースは土煙を上げながら天国を突っ切っていく。
その直後、鬼百合がやってきたのと同じ方角から、ロトリィとブラックアリスの二人がこぜりあいながら飛来してきた。
「しまったーーっ、地獄の麻雀にのめりこみすぎたーーっ! これが本当の地獄待ち、なんちゃって!」
「ホワイトがあまりにデザートを楽しんでいたから、いつまでも私が言い出せなかったのが、この遅れの原因……!」
それまでずっと自然の性質を調べていたフレアは頭上を飛び去る二人を鷹揚に見上げ、金色の瞳に嫌悪感をにじませる。
「あわただしいな。仕方ない。天国には、天使祝司を手に入れた後でまた調査に来ればいいか」
完全に調和のとれた芸術的な自然を傷つけないよう、フレアは「飛翔」の魔法ではるかな高みへと上昇していく。
大魔女フレアが生まれもった、たぐいまれなる自然属性。それは周辺の自然に干渉して大災害規模の自然現象を引き起こす、けた違いの威力と影響範囲の自然魔法を可能にする。
風を操り、強烈な追い風を生み出したフレアは、風の一本道に乗ってぐんぐんと加速していく。疾風と同じ速度は、飛べない人間を魔法で強引に飛ばす「飛翔」どころではない。たがいに攻撃し合い、移動に専念できないロトリィとブラックアリスをあっという間に追い越し、フレアは暴風の余波で地面の花々を揺らしながら、光の道をたどっていく。
「だめだーーっ、あの黄色い馬……キリンだっけ……!? とにかく速いっ、速すぎるっ!」
竜人ルビィアースの化け物じみた脚力をもってしても、天を駆ける神獣の麒麟にはおよばず、じりじりと距離を離される。おっとりした東方レディーの鬼百合が、あれほど優れた機動手段を死後の世界で手に入れてしまったのはまったく意外であり、誤算だった。
「こうなったら、わたしたちも移動速度を上げるわよ、フレイム!」
「ええっ……!? でも、例の切り札には瞬発力はあっても持続力はありませんよ!」
「天ちゃん、ゴールまで、あとどのくらい!?」
「現在、全行程の六分の五の地点まで来ています。あと少しで終点です」
「ぃよぉしっ! 最後の最後、一気に追い込みをかけるんだーっ!」
右肩にしがみついていたフレイムを引きはがし、胴体をわしづかみにしたまま腕を伸ばして前へと突き出す。
走り続けたまま、ルビィアースに内在するドラゴンの力を小竜のフレイムに注入し、一時的に貸し与える。フレイムが巨大化するのと反比例してルビィアースの身体が縮み、幼児へと退行していく。力を抜き出される脱力感で意識が緩むが、ここで眠気に負けて気絶するわけにはいかない。
成体へと変化した赤竜フレイムの首にまたがり、「よーし、全速前進だーっ!」と前を指差して号令を発する。




