22頁 「天使と共にあの世の深層へ」
「何アレ……!? て、天ちゃんが二人……!?」
「はい。私は同時に何カ所にも遍在することができます。ルビィアースの後方を魔法で飛ぶブラックアリスとロトリィもたくさんの魂に憑かれて苦しんでいます。現在、六人全員に私が付き添い、状況の解説をしています」
つまり、六人のうちでフレアとブラックアリスとロトリィは比較的多くの罪を重ねて生きてきたらしい。しかし、これといって悪いことをした覚えのないルビィアースも魂に憑かれているので、何が罪で何が罪でないのか区別が難しいところだ。
手足に張り付いた魂たちは邪魔でも、動けなくなるほどではない。障害に負けずにがむしゃらに手足を動かし、失速したフレアを追い越して首位に立ったルビィアースは先頭を独走していた。
群生していた花の密度が下がりはじめ、草ばかりの平野に入ると、身体にまとわりついていた魂たちは力を失ったかのようにばらばらと落ちていった。どうも、花畑以外では活動できないらしく、後方の花畑へと飛んで戻っていく。
「う、海……!? いや、湖……?」
光の道すじは、目の前に現れた広大な湖の先へと続いている。迂回して陸路を選んでも余計な時間を食ってしまうだろう。
「し、しょうがない……。飛ぶのはあんまり得意じゃないんだけどな」
魔法力を励起させ、「飛翔」の魔法を発動させる。そして、神の月詠や守護天使の天ちゃんとは較べるべくもない不安定さで、湖面の上をふらふらと飛んでいく。
「水上は空気がひんやり冷たくて爽快ね。走り続けて汗をかいちゃったから、この涼しさはありがたいわ」
「でも、この異常な透明度は不気味じゃありませんか……? 見ていると吸い込まれそうな気がして、恐いですよ」
フレイムの言う通り、湖面には波一つなく、水はどこまでもどこまでも高純度の水晶のようにすき通っている。千尋の湖底が水上からはっきりと確認でき、水深が深くなるほど濃紺に暗く染まっていく現世の海や湖では決して再現できない。この世ならざる透明度は、ここが常識や物理を超えた死後の世界であるからだろう。
「……お? 何かと思えば、珍しく生者じゃない。どうしたの? こんなところで飛んで」
大きな魚影が後ろから追いかけるように浮かんできたかと思えば、水上に顔を出したのは金色の髪をした美女だった。しかも上半身が胸を丸出しにした裸で、下半身は魚の尾ひれのようになっている。腰から下は桃色の細かなウロコに覆われ、目を見張るほどに美しい。
「何、こいつ……!? 魚人間……!?」
「この世界の水域に棲む、メスの人魚です」
それまで消えていた天ちゃんが、解説のために再び隣に降臨する。
「ねえねえ、暇だから話し相手になってよ。あなたたち、どうしてこんな所に来ちゃったの?」
身体が半分魚だけあって泳ぎの技は超一流であり、美女の人魚は背泳ぎしながら楽々とルビィアースに付いてくる。彼女のくだけた態度には悪意が感じられず、強い興味に後押しされて、ついルビィアースは天使祝司をめぐるレースの最中であることを話してしまう。
「ふぅん。現世の人間は色々と忙しいのねぇ。こっちは何もすることが無くてずっと暇なんだよ。あ、そうだ。あたし、暇つぶしに歌を作ってみたんだよ。聴いていってよ」
「ええっ!? 聴かせて聴かせて!」
尾ひれを動かしてまっすぐに泳ぎながら、人魚は目を閉じて歌い出す。歌詞の無いハミングだけの歌だったが、天性のセンスによる音程の正確さで十分聴くに耐える素晴らしい完成度だ。甘くて優しい歌声は気持ちよく意識を痺れさせるようであり、聴いているだけでとろんと眠くなる。こんなに美しい歌をルビィアースは今までに聴いたことがない。
あまりの心地よさにうとうとし始めたルビィアースの足先が湖面に当たって波立たせる。眠気で「飛翔」の魔法が解けかけ、高度が下がっているからだ。人魚はそんなことに気づかず、目を閉じたまま熱唱を続けている。
「ル、ルビィさま!? ダメですよ、眠っちゃ!」
「…………」
「ど、どうすれば……!? そ、そうだっ、あの禁断の記憶を!」
居眠り飛翔を続けるルビィアースの耳元で、フレイムが歌い始める。それは、昨夜ルビィアースがリキュール亭の客たちの前で歌ってしまった恥ずかしい歌である。
「……ぎゃあああっ!?」
突然の悪夢のフラッシュバックに両手で頭を抱えるルビィアース。その際、勢いよく伸ばした右足が人魚の腹に偶然命中し、大岩をも砕く蹴りの威力によって罪無き人魚は水没していく。
「……あれ? 人魚さんは……?」
「ルビィさまに蹴られて沈んでいきましたよ。歌う人魚にまた絡まれたらやっかいです。高度を上げて飛びましょう」
人魚の天上の歌声は船乗りたちをまどわし、船を座礁させ、多くの命を海に沈めてきたという。現世にはそんな伝承が残されているが、ルビィアースたちも、湖に棲む人魚たちも、それを知らない。ルビィアースと人魚双方の無知が引き起こした、不幸な事故だった。
もともとルビィアースの「飛翔」は未熟で飛行速度も遅く、しかも途中でうとうとしていたせいでフレアやヴァルキリーたちに追い抜かれていたらしい。遠くに二人の後ろ姿を確認したルビィアースは急いで高度を上げ、一心に先を目指して飛んでいく。
海のように広い湖を抜けると、砂利がしきつめられた霧の漂う場所へ出る。光の道すじだけを頼りに、砂利を蹴散らしながら肌寒い濃霧の中を走っていると、またもや水域へと行き当たった。しかし海や湖ではなく、水がゆっくりと流れている。
「死んだ方々はお早く乗船してください。もう次の船が出ますよ」
霧の向こうから届く女性の声。それにつられて近づいてみれば、数人の人間が岸辺にたたずんでいた。毒気が抜かれたようなすっきりとした顔をしていて、服装はばらばらであり、誰がどの国籍かはルビィアースには分からなかった。
「あ、あのーー……。この船は、どこへ行くんでしょう……?」
「死者の国に決まってるじゃないですか。ほら、早く乗って下さい」
川べりの小さな船に立つ女性に腕を引かれ、ルビィアースとフレイムは問答無用で乗船させられてしまう。止める暇もなく小舟はすうっと岸を離れ、川を進んで行ってしまう。
「この川、いったい何なんです?」
「死者の国とそれ以外を隔てる役目を持つ、境界線ですよ。これからあなたは死者の国で生前の裁きを受けるのです」
船頭の女性は櫂をこぎ、川の流れに乗りながら、少しずつ船を対岸へと近づけていく。川の上も濃い霧に包まれ、すぐ下の水面以外はまったく景色が見えない。
「ル、ルビィさま! この先は死者の国ですよ! このままじゃ本格的に死人の仲間入りですよ!」
「光の道はこっちに続いているし、この川の近くじゃ飛翔の魔法が使えなくて飛び越せないから、これが正しい渡り方でしょ。心配ないない」
いっしょに乗り合わせた死人の顔をのぞきこみ、「どうも」と明るく声を掛ける。死んでしまい、裁かれるのが恐くないかと尋ねてみるが、中年男性の死人は「なるようになるさ」と軽く流してしまう。聞くところによると、死ぬと欲望や生への執着が消えて無くなってしまうらしい。
同乗した死人たちとすぐに打ち解け、生前の人生を要約して教えてもらい、ルビィアースもこれまでの旅路をまとめて話す。そのせいで死んだように沈んでいた船上の空気が宴会もかくやというほどに盛り上がっていた。
「あきれるほどに元気な死者ですね、あなたは。死んでいるとは思えませんよ」
「あ、あははは……。元気だけがとりえなものですから……」
船頭の女性が首をかしげ、ルビィアースは頭をかきながら愛想笑いをしてなんとかごまかす。死者の国へ旅立つ船に生者が混じっているとなれば、ややこしいことになるに決まっている。
「……それにしても、こっちの世界は水が多いね。さっきの人魚の湖といい、この川といい。どうしてだろ?」
「死後の世界は現世と水によってつながっているためです」
「おわっ!? て、天ちゃん……!」
すぐ隣に天ちゃんが現れ、その曇天色の瞳でルビィアースの顔をじっと見つめたまま川の水面を指差す。
「水中は陸上の生物が生きられない場所です。肺呼吸しかできない者は溺れれば死にます。生存可能な陸上とそうでない水中は古くから別世界ととらえられ、事実そうでした。現世の者にとって水域はあの世への入り口であり、この世界の水域も場所によっては現世につながっています。運が良ければ、水域に飛び込んで現世へたどり着けるかもしれません」
「分かった! 解説はありがたいけど、もう分かったから! 早く姿を隠して!」
とっさに抱きついて胸の中に天ちゃんの頭を隠し、彼女は要求通りに小舟の上から消えた。船頭や船上の死者たちの視線がルビィアースとフレイムに集中し、「みんなをびっくりさせようと思いまして。魔法でしゃべる人形を創りました」と苦しい言い訳をする。
船上の死者たちの元気も長続きせず、すぐに話がとだえてしまう。牛乳のように真っ白な霧に包まれた川の上を小舟で揺られていると、がらにもなく妙に哲学的な気分になってしまう。岸を離れてからずいぶん経つが、まだ向こう岸は見えてこない。不安のあまり口を開くことさえしなくなったフレイムを放置し、ルビィアースは船の縁に両腕を預けて水面をながめたまま、ぼんやりと物思いにふけった。




