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STAGE:Ⅱ ミッションスタート

                    


                    1



 潜入一日目。

 世間がゴールデンウィークに入ると、教団の『合宿』も始まった。

「おはようございます、皆さん! ようこそ――――『ふれあいの楽園』へ!」

 朝、学校にあるような体育館。

 若々しい雰囲気を保つ中年男が、青ジャージ姿でステージに立ち、ニコニコとうさんくさい笑みで挨拶を始めた。

 それを見上げるのは、半そで短パンの体操服を着用し、男女ごとに並んだ少年少女たち。

世代は俺やアリスたちと同じ……高校生。

 銀四郎もその中にいた。もちろん、半そで短パンに身を包んでいる。

 後ろについたツーブロの茂木が、小声で話しかけてきた。

「あまり目を合わない方がいい。なんせ、素行の悪さで集められた連中だ」

「そういう偏見こそ、やめるべきだろ」

 ごにょごにょと言い争う二人だったが、女子側のアリスに睨まれ、やむなく引き下がる。

 中年のトークが続く。

「一部はね、我々を『悪逆の徒』とか呼んでいますが……悲しい誤解です! こんな楽しいイベントを開く、『千理の瞳』が悪逆? ありえないでしょ!」

 そうだ、そうだ、と列の大半が声を上げる。

 うまくやったものだ、と銀四郎は呆れていた。

 明るみになっても……すでに手遅れ。『千理の瞳』の存在は数日前に広まった。

 だというのに危険な本性を知る者は、少数。知らない多数が教団の味方だった。

 掃除屋の自分も名前すら耳にしなかった。目立ち過ぎないようにかつ、着実に力をつけていったのだろう。

 茂木もぼそぼそと毒づく。

「ちくしょう。ここぞというタイミングで表に出やがって。裏で片づけることがますます難しくなっちまった」

「このまま手をこまねいていたら、いよいよ止められなくなるぞ」

「だな。教祖に手が届く、最後のチャンスだ。しくじった後の未来なんて想像したくもない」

「俺は賛成したわけじゃないけど」

「とにかく、内緒話はいったん中止だ。そろそろ来るぞ」

 ちょうど演説が終わったところだった。

「さて、本題に移ろうか。君たちは――――我々の教祖に会いたくて、参加したんだよね?」

 列の大半が首肯する。

 教祖は顔を出さずに若者たちのカウンセラーを務め、人心の掌握に成功していた。

 思春期における複雑な感情を見抜き、甘い言葉で篭絡し、依存させているのだ。

 見たがる人だって、いる……『合宿』も過去に何度も行われてきた。

 世間はすっかり更生のためのイベントだと信じきっている。

「でも、残念なことに『あの人』は忙しいんだ。心の広いお方ではあるものの、全員に割く余裕がない。  そこで、我々は君らの中から……ふさわしい人間を選出する」

 芝居がかった言い回しで、男は説明を開始した。

「ルールは簡単だ。『合宿』を通して、様々なスポーツや座学……ゲームで競ってもらう。我々が優秀だと認めた数人に――『あの人』と直に会う権利が与えられる」

 顔を見せる約束は今回が初めてだという。これが潜入の目的である。

 内容に動揺や不満の声はなかった。大勢が教祖に会いたくて、意気揚々としている。

 過去の合宿を経験した人も多い。競い合う空気が当たり前になっているようだ。

「じゃあさっそく――――『バスケットボール』、スタートだ」

 男の背後には、プロジェクター用のスクリーンが下りている。

 そこに画像が投射された。ゲームの詳細がでかでかと載っている。

 チームはランダムに組まれた三人組。順に勝ち上がっていく、トーナメント形式で3(スリーオン)3(スリー)。試合の時間は五分。

 やがて下へスクロールしていき、チームのリストが表示されていく。

 この場に参加しているのは、勧誘に応じた若者たち。完全な信者ではない。

 ゆえに合宿イベント中はニックネームで呼び合う。

 たとえば自分の体操服には『シロウ』と、黒の油性ペンで大書した名札が縫いつけてある。

 他の者も同様だった。教団からの支給品で、着用を義務づけられた。

 そして今、リストに『シロウ』『サダノ』『モギ』――と、三人の名前が並ぶ。

 ……仕組んだ。後ろから白々しい口笛が聞こえてくる。振り返る気にもなれなかった。



「そう怒るなよ。事情を知る者同士の方がやりやすい……わかるだろ?」

「わかってるし、別に怒ってない」

 不利なスタートになる。金鵄も忠告していた。

 銀四郎への『任務に関する情報』は制限されている。エージェントからの提供も禁止。

 チームが一緒になることも伏せられていた。もちろん、ちゃんと承知している。

 しかし、どうにもやりにくい……感情を抑えきれず、無愛想な物言いになってしまう。

 現在は顔合わせの時間だった。周囲でも自己紹介や作戦会議が行われている。

 同じチームの貞乃が不満げに睨みつけてきた。

「私たちだって、主義の違う『掃除屋(あなた)』と組むなんて嫌よ。けど上の命令である以上、やるしかないの」

「……そうかよ」

 このままだと口論に発展しかねない。そっぽを向こうとした時だった。

 いきなり、ガシッ! と半そでの襟を掴まれる。

 貞乃だ。真剣な表情がすぐ間近に迫ってきた。

「お、おい――」

「私たちは教祖に会わなければならない。そこは共通してるでしょ?」

 ぐい、とさらに引き寄せられる。両者の体もぴたりと密着してしまう。

 ふんわりと甘い香りにしなやかな太腿の弾力……自然と、下半身の方へ視線が集中する。

 今まで見ないようにしてきた。なぜなら、目にいろいろと毒だからだ。

 貞乃は、紺色の『ブルマ』を履いていたのである。彼女だけではない。

 女子の全員に配られ、体操服とともに着用を義務づけられていた。隠すことも許されない。

 ショーツのように下半身をぴっちりと包み、すらりとした脚線美を露出してしまっている。

 ブルマを強要するカルト教団なんて、バイオテロ以前の問題。

 周りの女子はすっかり受け入れている様子。おそらく、あの手この手で納得させられたのだろう。

 銀四郎の気持ちなどつゆ知らず、黒髪の少女はぶつかってくる。

「拗ねている暇があったら、この状況をどう利用できるか考えれば? 言っておくけど、私はいっさい容赦しない……校舎の屈辱も忘れてない」

「――――」

「ちょっと、聞いてる?」

「え、あっ、わ、わかった! とりあえず離れてくれ!」

 貞乃もようやく近すぎる距離感にはっとし、気まずそうに下がる。

 茂木がこほん、とせき払いして状況の指揮を執り始める。

「まずは作戦会議だが、その前に確認しておきたいことがある」

 彼はこちらを見た。正確には、銀四郎の『右腕』を。

「本当に――――大丈夫なんだな?」

「ああ、普通に動けるよ」

 しかし、二人の顔は曇っている。無理もないことだった。

『紅桜』を隠す湿布が、二の腕にもべったり貼られているのだ。

 症状は悪化していた。まだ任務前ということで判定はノーカウント。

仮相(かそう)戸籍(こせき)』を与えられようと、『紅桜』はどうにもならない。

 銀四郎も強がるしかなかった。一方で、試合の準備はどんどん進んでいく。

 スタッフは舞台の男と同じ、ジャージ姿の信者たち。ほとんどが成人の男性。

 かなりの数だ。挨拶中も四方の壁際にずっと待機していた。何人かがカメラを持っている。

 彼らは若者たちを端に下がらせ、緑色の(ネット)でコートを区切った。

 体育館にバスケットゴールは四つ、二面のオールコートが形成された。



                    2



 二つの試合が、二面のコートで繰り広げられている。

 ゲームは五分ごとに終了し、舞台のプロジェクターが組み合わせを掲示していく。

 まもなく、銀四郎たちの試合も始まる。三人はステージ側のコートに立った。

 相手チームは――パーマに金髪、スキンヘッドと派手な男子のトリオ。

 目つきが悪い上に、ブルマ姿の貞乃をじろじろ見ている。明らかに不良タイプだった。

 ……やはり、こういう奴らもいるのか。ピーッ! と開始のホイッスルが響く。

 不良たちの体格は一回り大きい。茂木とのジャンプボールも、パーマが競り勝った。

 金髪がボールをキャッチ。銀四郎がディフェンスの準備をした時だった。

「あれ?」

 黒い影が……金髪の死角にするりと忍び寄る。

 貞乃だ。彼女は手を伸ばし、キープされていたボールをカット。

 簡単そうに見えるが、違う。さながら暗殺者のごとく一瞬の隙を狙ったのだ。

「お疲れ様。実戦なら死んでたわよ」

 皮肉を吐きつつ、ボールを奪取。スピードを落とさず、ドリブルで突っ切っていく。

 慌てて戻ってきたスキンヘッドも、あっさりと置き去りにする。

 ところが、抜けた先にパーマが立ち塞がる。彼はファウルの勢いで体を当てようとした。

 危ない。しかし、貞乃はスピードに緩急をつけながら……鮮やかなハンドリングで翻弄。

 さらにブルマから伸びる脚も織り交ぜて、男の視線をかき乱す。

 ついにパーマの重心がぐらついた瞬間――――銀四郎は見た。

 彼の股をくぐっていく、バスケットボールを。

「あ」

 股抜きだった。同時にパーマがバランスを崩し、尻もちをつく。

 アンクルブレイク。ドリブルで相手を転ばせる高等テクニック。

 彼女は難なく、レイアップシュートを決めた。



 女の怒りを買った不良たちは、なんと二十点もの差をつけられて敗退。

 次の対戦まで、だいぶ時間がある。三人はいったん解散することにした

 体育館の休憩スペースはステージと、一階を見下ろせるギャラリーの二つ。

 前者を選んだ銀四郎はその上に立ち、舞台袖へ歩いていく。

 男子が右、女子が左。

 荷物はあらかじめ、この中に置くように言われている。入り口を覆う黒いカーテンから、明かりが漏れていた。女子側も同じ。着替えの場所でもあるのだ。

 人や物を避け、自分のリュックサックに到達。

 スポーツ飲料を取り出し、舞台袖を後にする。ステージの縁に腰かけた。

「ふう……」

 水分をごくごくと補給。足もぶら下げる。

 コートをぼんやり眺めていると、反対側から一人の少女が近づいてきた。髪は煌びやかな金髪で、縦ロール。瞳は澄んだ青色。

 ブルマを履いた一条(いちじょう)姫子(ひめこ)は西洋人らしい、完璧な美脚を露わにしている。

「あら、さっそく初戦でへばってしまいましたの?」

「散々、貞乃にこき使われたんだ。まあ、俺もスカッとしたけど」

「仲良くやれているようで、何よりですわね」

 彼女は立ったまま、試合の様子をじっと見ていた。

 すると、日本人離れした容姿の少女に……周囲の目が集まりだす。

 そして嫉妬の視線が自分に刺さった。居心地の悪さを紛らわしたくて、話題を振る。

「姫子。女子がブルマ着用を義務づけられているって、やっぱりおかしいよな?」

 はて、と少女は首を傾げた。

「そんなに突飛なことではないと思いますけど。短パンより動きやすいし、伸縮性もほら――ご覧の通り」

 彼女はブルマの食い込みを直すついでに……ぐいっと生地を一瞬だけ、つまみ上げる。

 ちらりとよぎった白い肌に、銀四郎はもちろん周囲も慌てて目をそらす。

「ちょ、何やってんだよ⁉」

 少女はくすくすと楽しげに笑う。

「失礼。見てばかりで、奥手な殿方たちをからかいたくて……冗談はさておき、たしかにハレンチな衣類ですの。やはり、脚の強調は目を引きますわね。あんな風に」

 姫子が示したのは、コートに立つ一人の少女。

 髪型はお団子にまとめたポニーテール、肌は全体的に程よく日に焼けている。

 ブルマから伸びる、ほっそりとした小麦色の脚はカモシカのようだった。

 名札には『ナナ』とある。ボールを手にしたナナがドリブルを始め、一気に敵陣を突っ切っていく。

 強気な瞳でゴールをまっすぐに見据えており、パスの選択肢は眼中になさそうだ。

 そこを男子二人のディフェンスが阻む。ナナもいったん足を止める。

「――――ん?」

 その時……一瞬だけ彼女の呼吸パターンが変わった、ように思えた。

 ほんのわずかな違和感。正体を掴めないまま、少女の足さばきに意識を奪われる。

 貞乃の軽快なハンドリングとは違う、独特なリズムのフットワーク。

 ボールを守りつつ、ディフェンスの二人を誘導する。とどめに簡単な切り返しを一つ。

 二人の男子が釣られる形で動いた途端――――がつんっ! と勝手にぶつかり合う。

 同時に転倒したところを、ナナは何食わぬ顔で抜き去り、軽くシュートを決めた。

 ……狙った。ナナが用いた呼吸法とフットワークは、ある武術に伝わるものだった。

 あの少女は何者なのか。姫子に聞いてみようとしたが、それはできなかった。

 彼女が小声で警戒を促してきたからだ。

「男子が一人、こちらに来てますの。シロウさんに用がありそうですわ」

「俺?」

 やがて、体操服の少年が自分の前に立つ。

 髪は後ろに流した黒のオールバック、顔は周りの女子も見惚れる甘いマスク。

 鷹を思わせる鋭い瞳で、銀四郎を睨みつけてきた。

「お前、サダノとどういう関係なんだよ?」

「貞乃?」

 いきなり話題に出てきた少女の方に目をやる。

 最初のプレーで彼女はすっかり人気者になった。今も上のギャラリーで大勢に囲まれている。本人は 嫌々ながらも、愛想笑いを取り繕っていた。

 いろいろとひねくれている貞乃を、オールバックの少年は舐めるように観察する。

 さきほどの不良と変わらない態度に、うんざりさせられた。

「おい」

「文句あんのかよ? あんな格好だぜ」

「教団が義務づけてるだけだ。隠すことすら禁止されてる」

「うっぜえ……かわいい顔して、彼氏ヅラかよ」

 体操着の名札には『タカキ』と記されていた。

 体つきもしっかりしている。覚えておくべきだろう。

 タカキは遠慮なく敵意をぶつけてくる。

「つまり、オレの方が強いと証明すれば――サダノはお前を見放すってわけだ」

「……どんな理屈だよ?」

「次の試合、覚悟しとけ。二度とここに来れないようにしてやる」

 オールバックの少年は最後にそう言い残し、去っていった。

 はあ、と憂いに満ちたため息。銀四郎ではなく蚊帳の外に置かれていた姫子である。

「面倒な人にマークされましたわね。シロウさん」

「アイツがどうかしたのか?」

「タカキさんはバスケ部。公式戦では悪名高い『死神』として有名ですの。彼が目を付けた者は必ずケガをするという。まあ、ようするに――――」

 彼女はニッコリと極上の笑顔に、ありったけの軽蔑を込めて、吐き捨てた。

「ラフプレーが得意なクソ野郎ですわ」



                    3



 時間が経過し、銀四郎たちのチームもいよいよ次の試合に臨む。

 コートに立つと、やはり相手チームにタカキがいた。さっそく貞乃にアピールしてくる。

「教えてやるよ。シロウなんかより、オレの方がずっとイケてるって」

「…………」

 彼女はスルーしながら、銀四郎の方へと近づく。

 唇と唇が触れてしまいそうな距離で止まり、耳元にそっとささやいてきた。

「姫子から経緯を聞いた。私が何とかするから、あなたは――――」

 しかし、銀四郎は遮った。

「俺は大丈夫。自分の身くらい自分で守れる」

「まさか、試合中にやり合うつもり?」

 正気を疑う目が、こちらに向けられた。

「バレないように動くさ。日常に溶け込めるのは、八咫(そっ)()の専売特許じゃない」

 貞乃が何かを言うより先に、ピーッ! と開始の笛が鳴ってしまう。

 今回の相手はバランスが取れている。身長の高い男子、小柄ですばしっこい女子、オールラウンダーなタカキ。

 最初のジャンプボールも、茂木が競り負けた。

 ボールはタカキに渡る。銀四郎はディフェンスについた。

 少年が、やってきた獲物にほくそ笑む。別に構わなかった。

 逃げるつもりなど毛頭ない。彼はドリブルを始めて、いきなり正面に突っ込んできた。

 ぶつからないよう、上半身に注意が集中した時――タカキの右足が低めのキックを繰りだす。

 狙いは銀四郎の向こう脛。アリスの斧刃脚と似ている。

 だが、あっちの方が何倍も恐ろしかった。左の膝を上げ、ふくらはぎによる脛受けで防御。

 当たる瞬間に脛をたわめて『ショック吸収』も発動。

「うおっ⁉」

 蹴り足を押し返し、ドリブルも後退させた。

 笛が鳴らない以上、審判は水面下の戦いに気づいていない。

 周辺(しゅうへん)視野(しや)で場外を確認した。観戦中の素人たちも、ボールや上半身にのみ意識が向いている。

 信者の男性たちは、そもそも見てすらいなかった。

 ブルマ姿の女子ばかりに注目している。カメラのレンズもそこしか捉えていない。

 嫌悪の域を越えて、どんよりとした失望で胸がいっぱいになる。

 ラフプレーで人を傷つける少年に対し、きちんと叱ってくれる大人が存在しない。

 目をつけられたのが銀四郎ではなかったら――――どうするつもりだったのか。

 おそらく、何も考えてはいなかった。

 タカキが再び肉薄してくる。今度は強気の接触を仕掛けてきた。

 銀四郎はファウル回避のために両手を上げた。これはバスケットボールの基本でもある。

 つまり、クラヴマガの『360度ディフェンス』も使える。

 もともと護身術は……日常に潜む、危機への対処法として編みだされたテクニック。

 クラヴマガの構えを、スポーツの中に溶けこませたのだ。

 タカキは巧みなハンドリングで手元を隠しつつ、短パンのポケットから何かを取り出す。

 右手がマジックのように握り込んだそれは、銀色の鍵。

 いくつかの束になっており、一本ずつ指の間に差しこんである。

 ナックルダスターの代用。凶悪なパンチが飛んでくるが、遅すぎる。

 左の前腕部で相手の手首を打ち、止めた。審判や観客、信者の死角は周辺視野が把握する。

 素人は気づけない。そして、ついにタカキが動揺を見せ始めた。

「な、なんなんだよ、くそっ!」

 彼は鍵束を引っこめると、次は黒色のカードを右手に仕込む。切りつけへの代用だった。

 だが、銀四郎にとっては児戯に等しい。またしても手首を打ち、防いだ。

 今までも、この少年を叱ってくれる大人はいなかったのか……。

 違うと言ってくれる者に出会えず、周囲を欺く優越感に溺れ、知恵と手先だけが悪い方へと成長していく。

 自分には『先生』がいてくれた。だから、道を踏み外さずに済んだ。



 結局、試合はこちらの勝利で終わったものの……次の試合で負けてしまった。

 相手チームに部活動の経験者がいたのだ。掃除屋やエージェントといえども、本物との力量差は覆せない。

 アリスや姫子、江野もその定説に敗れて……バスケットボールは終了を迎えた。



                    4



 カルト教団による凶悪な事件は、人々の記憶から薄れつつある。特に若い世代とくれば、なおさら。

 事件すら知らない者だっている。『千理の瞳』はそこに付けこんだ。

 教団は日本の各地にいくつかの『拠点』を持つ。

 銀四郎たちの潜入先が、その一つ――――『ふれあいの楽園』だった。都内から遠く離れた山奥に位置し、辺りにはうっそうとした森林が広がっている。

 しかも敷地内の四方を、五メートルほどの壁で囲っていた。

 車は生活用の物資を運ぶトラックと、勧誘された若者を送迎するバスが通るのみ。

 銀四郎たちも都内の施設でバスに乗り、ここに連れてこられた。

 そして今は――――『座学(ざがく)』だ。施設の教室で、学校のように授業を受けている。

 バスケットボールは午前で終了。ちょうどよく、お昼の時間に解散となった。この『座学』まで自由が与えられた。

 食堂や売店もある。誰もが支給されたジャージに着替え、気ままに過ごしていた。カルト教団の影はどこにもない。

 だが肝心の『座学』が始まると、ようやく彼らの一端が見えてきた。

「おい、貞乃」

「……なによ?」

 赤のジャージを着た黒髪の少女は窓際の隅、横の席に青ジャージの銀四郎がついていた。

 教師は、体育館の舞台にいた中年。同じ青ジャージ姿の彼からはだいぶ離れている。

 静かに話を聞く貞乃に、ひそひそ声で疑問をぶつけた。

「なにって、とぼけるな。この授業で教えていること――――八咫烏(おまえら)のことじゃないか」

「…………」

 貞乃は口を閉ざしたまま、片手をこちらに差し出す。

 メッセージが簡潔に記された、小さなメモ用紙を握っている。

『返事は後で』

「え?」

 怪訝に思った瞬間、パシッと目の前でメモが取り上げられた。

「おやおや、授業中に告白かい? ロマンチックだねえ」

 教師の男、だった。しげしげと用紙を眺めている。

 ニコニコしているが、目は笑っていない。さりげなく天井の明かりに透かし、表面をつぶさに観察した。

「恋愛は、ほどほどにね。ここは健全な精神を育成する場だよ」

 細工を見つけられなかったのか、彼は釈然としない顔でメモを貞乃に返す。

 勘違いした周りが笑う中、銀四郎は絶句していた。

 気配を悟れなかった。距離も充分に離れているとばかりに、安心しきっていたのだ。

 ここは学校ではない。悪魔の本性を隠す連中の根城だと、改めて痛感させられる。



 座学が終わり、またしても休憩の時間を与えられた。学校と変わらない賑わいが訪れる。

 貞乃はすぐに席を立ち、教室を出ていこうとする。

「あ、おい……」

 少女は足を止めない。しかたなく、追うことにした。

『ふれあいの楽園』の構造は、林間学校で使う施設とほぼ同じだ。中央が本館、左に体育館、右は宿泊棟……と繋がっている。

 本館は一階に昇降口、食堂や売店、二階に複数の教室。左は体育館の他にも武道場がある運動エリア。

 宿泊棟はいくつかの宿舎に分かれており、教団の大人たちも利用する。

 外は駐車場、正面の壁が厳重なゲートと化している。物資の搬入は拠点の裏で行う。

 ここは本館の二階。ライムグリーンの床に、白い壁と天井が広がる廊下を、貞乃がつかつかと歩く。

 両側に引き戸が並び、幅も大きい。クラスは毎回シャッフルされ、別々の教室で授業を受ける。他の四人は違うクラスだった。

 貞乃に続いて階段を下りると、ジャージ姿の男二人とすれ違う。彼らもそろってニコニコする一方で、目元はまったく笑っていない。

 さきほどの座学は、明らかに『八咫烏』の存在を示唆していた。

 しかも敵の扱いで、ただならぬ因縁を感じた。

 黒髪の少女は一階で左に曲がり、体育館に足を踏み入れる。

 休憩中も自由に使えるのだ。手前のコートは遊びのチーム戦。生徒たちが室内サッカーに興じていた。

 ブルマを履いた女子もいるが、本人はもう気にしていない様子。

 慣れって怖い……恐々としつつも、端を歩く貞乃を追いかける。緑のネットを越えた先に、個人の練習スペースがある。

 出しっぱなしの籠に様々なボールが詰め込まれている。少女は室内サッカーのボールを選び、練習を始めた。

 彼女はボールをリズムよく弾ませながら、無感動につぶやく。

「『座学』のこと、教えてほしいんでしょ?」

「いいのか?」

「タカキ君の件で迷惑かけたし。借りは早めに返しておきたいの。まさか、見返りはいらないなんて言うつもり? 偽善者のあなたが」

「わ、わかったよ。じゃあ聞かせてくれ、あの『座学』の意味を」

「難しく考える必要はないわ。もともと『千理の瞳(かれら)』はね――――『八咫(わたし)(たち)』を倒すことを目的として集まった連中なのよ」

「…………は?」

 体育館の賑わいが、静かに遠ざかっていく。脳の処理が追いつかない。

「共通の敵を認識することで、組織は内側の結束を強化していく。教団は皮肉にも――都市伝説上の脅威である『八咫(そし)()』の殲滅を、思想(イデオロギー)に取り込んだのよ」

 若者たちが受けた『座学』は、思想の刷りこみだった。

 繰り返していくうちに、奴らは増えていった。学校の部活で、全国優勝を目標にしたチームが一つにまとまるように……。

 八咫烏がいたから、千理の瞳が生まれた。

 ずっと、勘違いしていた。凶悪なカルト教団を止めるべく、動いていると。

 だが八咫烏の戦いは――――自らの尻ぬぐいに過ぎなかった。しかも後始末を、銀四郎と同年代の少年  少女たちに押しつけている。

「安っぽい同情なんか、しないでね。私は私でこの汚れ仕事に誇りを持ってる。今回だって、いつものゴミ掃除とそんなに変わらない」

「……そっか」

 一人で淡々とボールを蹴る姿に、強い拒絶の意思を感じ取った。すでに多くの葛藤と矛盾を抱いてきたのだろう。エージェントではない自分が口を出しても、野暮になるだけだ。

 聞くべき話は終わった。なんとなく、隣のコートを眺める。

 室内サッカーが続く中、女子が飛んでくるボールを受け止めていた。

「うお……」

 感嘆の声が、無意識に出た。みごとな胸トラップだったのだ。

 どことは言わないが――立派な体つきをしており、衝撃の殺し方もなかなかのもの。

 はんっ、と貞乃が鼻で笑った。

「男って、ほんと単純。あなたはもちろん、他の連中もみんな釘付け。あんな脂肪の塊の何が良いんだか」

「ごめん。プロポーションで負けてる人が何を言っても、妬みにしか聞こえない」

「はあ?」

 ギロリと、殺気立った視線を向けてくる。

 銀四郎は慌てて両手を上げ、少女をなだめようとした。

「お、落ち着けって!」

「その両手を上げた状態……クラヴマガの動作に移れるでしょ。余計イラつくわね」

 人目があり、暴力行為にまで発展することはなかった。

 代わりに彼女はボールを、こちらにパスしてくる。

「ん?」

 構えを解き、足でボールを止めた。

「それを、こっちに投げて。なるべく高めに」

 貞乃は説明しつつ、できるだけ後ろに下がっていく。

 どうやら、自分にも胸トラップができると証明したいらしい。

「お手並み拝見ってやつか」

 言ってみたかったセリフを口にしてから、指示通りにボールを放つ。

 少女は正確に落下地点を見極め、そこそこの胸でトラップを試みる。

 ところがボールの勢いを殺しきれず、ポーンと明後日の方向に行ってしまう。

「あ」

「…………」

 重い空気を払拭したくて、彼女を思いっきり励ました。

「ほ、ほら、フィジカルで劣るなら、テクニックで勝負――――」

「殺すわよ」



                    5



 機嫌を損ねた少女に追いやられ、とぼとぼとした足取りで体育館を後にする。

「……はあ」

 疲労のため息が漏れる。『座学』の意味を知り、気が滅入っていた。

 自由時間はまだ残っている。部屋でしばらくゆっくりしよう。

 銀四郎は廊下を歩きだした。

 怪しいと思われる拠点の裏や、教団の宿泊棟には万全なセキュリティが敷いてある。

 映画のように華麗な突破、は無理だ。潜入前に教わった。

 実際は命がけの潜入捜査に、地道な情報収集、血なまぐさい命のやり取りと――かっこいいエージェント像からは、ひどくかけ離れている。

 廊下を進みながら、情報を整理する。

『千理の瞳』の目的は『八咫烏』を倒すこと。

 スポーツを通して連携を学び、クラヴマガも教え、いずれは戦闘に応用させる。そして思想(イデオロギー)により、一丸となった『軍隊』が完成していく。

 やはり危険だ。机上の空論じみた発想が、現実の脅威と化しつつある……。

 やがて宿舎に着き、思考を中断した。内部は部屋への引き戸が並ぶ、短めの廊下になっている。右手に 共用の洗面所とトイレ、呆れることに掃除まできちんと行き届いていた。

 カルト教団の拠点じゃなければ最高だった。

 はあ……とまたしてもため息をつき、一番奥の部屋に向かい、引き戸を開けた。

 基本は四人部屋だが、ここには自分を含めて二人のみ。

 家具は二段ベッド、クローゼット、大きめの棚。エアコンも取り付けてあった。

 本来は、もう一つのベッドがあるはずのスペースに……二人の荷物が置かれている。

 ルームメイトの茂木はベッドの上段に胡坐をかき、何かの作業に集中していた。

 気にせず部屋に入り、引き戸を閉め、室内シューズを脱いで棚に置く。

 吸い寄せられるようにベッドの下段へと倒れこんだ。

「ふう……」

 仰向けで転がりながら、物思いに沈む。

 宿舎は男女別に分かれており、組み合わせはエージェントたちが仕組んでいた。女子の方でもうまく四人が固まっている。

 この部屋にベッドが一つしかなかったのは、ラッキーだった。

 その時、がりがりと何かを削る音が聞こえてきた。茂木がいる上段からだ。

「おい、何やってるんだ?」

「ちょっとした工作だよ。持ってきたローファーに、刃を仕込んでるところ」

「……ここに入る前に、教団は俺たちのスマホを預かった。危険物の持ちこみも確認してきたはずだ。刃なんてどこに――――」

「食堂と繋がってる調理場に忍びこんで、包丁を一本くすねておいた。料理人は雇われの部外者……奴らの監視も自然と甘くなる」

 不気味なカルト教団のイメージを植えつけたくないのだろう。

 敵の死角を突いた、まさしくエージェントのやり方。

「他にも良い『穴場』があるぜ。たとえば本館の二階」

「あそこは教室だけだぞ」

「教室と言っても、いろいろあるだろ? 工作室、視聴覚室、模造品(レプリカ)だらけの展示室……よりどりみどりだ」

「展示室って?」

「偽物づくりの達人が、教団にいるんだよ。そいつの作品ギャラリー。いずれは見分けのつかない贋作を売りさばいて、稼ぐつもりなのかもな」

 新たな資金源のことまで視野に入れているのか。

「どこまでも抜かりない連中だな……教室でいったい何をすればいい?」

「それくらい自分で考えろ。スマホも武器もない状況だぜ。死にたくなかったら、ちゃんと覚えておけ」

「……アドバイスはありがたいけど、どうしてここまで?」

「今だって、お前のことは気に入らない。かといって何も知らずにやらかして、勝手に死なれるのも寝覚めが悪い。半端な器用貧乏だから、エージェントの競争にも取り残される」

 自嘲的なつぶやきだった。銀四郎は本心を吐露する。

「冷徹な奴が優秀とは限らない。茂木のおかげで、助かったこともある」

「どんなことだよ?」

「校舎での戦い――お前はスペツナズナイフを俺に飛ばしてきた」

「ああ、右手にぐっさりと」

「ところが、俺の右手は短期間のうちに治った。なぜだ?」

「ナイフが骨や神経を抉らなかったから。テストの都合上、後遺症になる傷はご法度だったのさ。結局、別のナイフで殺しに来ただろ」

 それでも、助かった事実に変わりはない。

「とにかく俺はこうして万全の状態、アドバイスも参考になったよ。ありがとな、茂木」

「……ふん」

 瞬間――――目の前に何かが飛んでくる。

「うおっ⁉」

 反射的に手を伸ばし、キャッチした。

 ナイフ、ではなく一足のローファーだった。茂木が上段から投げてきたのだ。

「おい、これ――」

「利き足は右、サイズも俺と同じだろ? 親指の辺りに力を込めると、甲の部分に刃が出てくる。力を抜くと、勝手に引っこむ」

 試しに足を入れ、説明の通りにしてみる。

 ジャキンッ! と磨き上げられた刃が、勢いよく突き出てきた。

「なんか、悪役の怪人が履いてそう……運動靴みたいにフィットする」

「ベースはエージェント用の動きやすいローファー、俺のお古だ。好きに使え」

「もらっていいのか?」

「こんなものはいくらでも作れる。もっといいものを作る予定だし、やるよ」

 見た目は物騒だが、履き心地は抜群。

 とりあえず、もらっておくことにした。



                    6



 自由時間が終わった。

 今度は『ヨガ』――――と称した、クラヴマガのトレーニングが始まる。

 練習は運動エリアの武道場で行われるが、さすがに全員を入れるわけにはいかない。

 またシャッフルしたクラスに分かれて、順番に使っていく。

 一つのクラスが道場にいる間、他のクラスは教室で説明を受けたり、視聴覚室の映像を見て学習したりする。

 そして現在……緩衝材が組み込まれた床の上に、銀四郎は立っていた。

 服装は男女ともに支給された体操着の半そでとジャージのズボン、足は実戦を想定して室内シューズを履くことを義務づけられている。

 今の武道場は、銀四郎のクラスが使用していた。

 他の生徒が体育座りで見守る中……銀四郎は講師の男と組み、フットワークまで利かせ、ほぼ全力の拳を連続で打ちこむ。

「助かったよ。クラヴマガの上級者がいてくれて」

 男――『バスケットボール』や『座学』でもお世話になった例のジャージ中年は涼しげにすべての攻撃を捌いていく。服装は銀四郎たちと同じだった。

 ちなみにパンチやキックの練習では通常、打撃を受け止めるためのミットを使う。

 しかし、この男はミットを着けずに銀四郎の猛攻を防ぎ切っている。

 つまり、完全に格上……自分の上位互換というべき存在。教団内でも幹部に位置するかもしれない。

 一対一で話せる絶好の機会だ。怪しまれない程度に、探りを入れてみる。

「あんたもなかなかの腕前じゃないか。教団ってのは、意外と武闘派なんだな」

「決めつけは良くないよ。身を守る術の習得は精神の鍛練にもつながる。野蛮な戦闘集団と見なされるのは、心外だ」

「じゃあ、『座学』で言ってた『敵』はどう倒す?」

「アレは『人の心に巣食う、邪悪な(カラス)』と定義したよね。普段の彼らは人々に取り憑き、日常に溶けこみつつ、不都合な存在を排除していく。なら、我々は強い心と体を持てばいい」

 惑わされない心と打ち倒せる力を備えた体を育てる。

 いかにも、カルト教団らしい詭弁。話術にも長けていた。

 拳も、追及も、のらりくらりと流され……やがて、トレーニングは次のステップに移る。

「それじゃあ、ディフェンスの練習もやってみようか。焦らず一つ一つ基礎を重ねていけば、銀四郎くんみたいになれるよ」

 はい! と、周りは揃って気合のこもった返事を返す。明らかにモチベーションが上がっている。

 ――――クラヴマガについては隠すつもりでいた。

 ところが中年に技量を見抜かれ、宣伝のデモンストレーションに使われてしまった。

 現実に心と体を持て余した若者たちは、未知の強さに憧れるものだ。

 他ならぬ自分が焚きつけた。悔しさを噛み締めることしかできない。



 ディフェンスのトレーニングは、江野とペアを組んで行うことになった。

 銀四郎が打ちこみ、茶髪サイドテールの少女が正確に捌いていく。

 貞乃の評価の通り、彼女は天才だった。すでに動きをものにしつつある。

 この子と話す機会はあまりなかった。

 攻撃を維持しながら、以前から気になっていたことを聞いてみる。

「江野、『八咫(そし)()』は特定の戦闘パターンを教えないんだっけ?」

 はい、と彼女はうなずく。話しかけられても、ディフェンスに乱れはない。

「初歩の技術は教わるけど、本格的なテクニックは教室を選んで、自由に学習します」

 金鵄が言うにはパターンの解析による、対策や存在の露見などを防ぐためだという。

「でも、なんだか無責任じゃないか? 組織の一員にしておきながら……」

「ウチは良いと思いますよ。得体のしれない技術を叩き込まれるより、自身に合ったスタイルを探していく方が楽しいです」

「なるほど、そういう視点か」

 生徒の自主性を重んじる、あながち間違ってはいない。

「じゃあ、江野はどんなことを覚えたいんだ?」

 その途端、少女は顔を曇らせる。

「……ありません」

「え?」

「ウチ、物覚えが良すぎるんです。ちょっと教えてもらうだけで、すぐマスターしちゃう」

「楽しくないのか?」

「熱中することはできるけど、あっという間に終わって――冷めちゃいます。周りは嫉妬したり、気味悪がったり、ろくな目に合いません」

「天才にも、いろいろあるんだな……」

 思わず黙り込んでしまう二人。

 このまま空気が沈む展開を嫌がったのか、今度は江野が話を持ちかける。

「ウチも聞きたいです。シロウ先輩の『()()』について」

「こいつか?」

 湿布で隠された、右腕の紅桜。

 堂々と口にできる状況ではないが、自分だけ何も答えないのはアンフェアだろう。

「わかった、言える範囲内でな」

「了解です。えーと……もし()()を完全に発症すると、シロウ先輩は具体的にどうなります? 闇落ちとかバーサーカーみたいになっちゃうんですか?」

「いや、発症者の親父によると『集中力が跳ね上がる』そうだ。アスリートのゾーン状態に近いらしい」

「へえ、変わった病気ですね……」

 少女は怪訝な表情を浮かべた。なぜ脅威なのかが、釈然としないのだろう。

 しかし、ここに盲点がある。

「没頭する感覚が問題なんだよ。理性とか、人間としての最低限のブレーキが無視されていくんだ」

 夢中になっていると時間を忘れるように、気づけば人を殺している。

 彼女の顔が真面目なものに変わった。

「ようするに、お父さんは自らの正義感に没頭するあまり――暴走へと繋がった?」

「ああ。心地の良いゾーン状態は一種の中毒。自力による制御は、ほぼ不可能だ」

「ストレスが原因っていうのも……」

「現実から逃避したくて、ゲームをしているのと同じ。親父にとっては完全な悪循環だった」

 結果に納得できず、何度も己を責める。ストレスを解消しようと、また無茶な正義に挑戦していく。まさに、身を滅ぼすギャンブラー。

 江野は考え込みながら、ぼそりとつぶやいた。

「やっぱり、一つの概念に五感が集中する『共感覚』に似てる……」

「江野?」

「あっ、た、ただの独り言です! ところで先輩、ウチ――『お兄ちゃん』が欲しくなってきました」

「おい、急にどうした」

「貞乃センパイは意地悪だし、同世代は物足りないし、頼りになる年上の人と身を固めたいんです。シロウ先輩さえよければ――――」

「お断りします」

 不安に押し潰されそうになる心を、じゃれ合いの中に埋没させていく。

 あからさまに話を逸らした江野を問い詰めることもしなかった。



                    7



 そろそろ、他のクラスが道場を利用する時間だ。

 ちょうどトレーニングも終わり、銀四郎たちはジャージ中年の元に集合した。

「今日はここまで。みんな熱心で、こっちもいろいろと助かったよ。教祖に会えるチャンスは平等に与えられている。ぜひとも頑張ってほしい」

 うさんくさい笑顔とともに締めくくられ、解散となった。

 タオルやスポーツドリンクを持って、道場を後にする。

 とりあえず、風呂だ。気分をリフレッシュしたい。

 日はすでに沈んでいる。ここからは就寝まで完全な自由時間。

 食堂へ向かう前に、汗を流しておくことにした。



『ふれあいの楽園』の浴室は、本館と宿泊棟の中間にある。

 内部は銭湯のように広く、もちろん男湯と女湯に分かれていた。

 しかし、暖簾(のれん)で仕切られた入り口の中央に……三つ目の区域が存在する。

『混浴』

 紫色の毒々しい暖簾に堂々と、その二文字が記してあった。

 銀四郎はいったん部屋に戻り、着替えと必要なセットを持ち――そこをくぐる。

 脱衣所に入ると予想の通り、誰もいない。

 やはり、女子はおろか男子もゼロ。人の寄りつかない浴室があって助かった。

 男子の場合、女子が使うわけがないと諦めているのだろう。

 自分の体には『紅桜』が浮き上がっていた。他の人も利用する男湯でこんなものを見られたら、大騒ぎになってしまう。

 公共プールとかに入ってはいけない人になっている……不自由な現実に肩を落としつつも裸になり、湿布も剥いでタオルを手にした。

 ところが浴場へ足を踏み入れた途端、予想外の光景に目を丸くする。

「あれ?」

 温泉、それも露天風呂だ。

 手前にイスと桶、蛇口にシャワーヘッドが並び、ボディソープとシャンプーも完備。

 小ぢんまりとした空間だが、ライトアップで見栄えのいい雰囲気を演出している。

「まあ、いいか」

 男湯と女湯――浴室の建物二つに挟まれているものの、おなじみの壁がきちんと仕切っていた。覗きの心配もいらない。

 体をしっかり洗ってから、ゆっくりと温泉に身を沈める。

「ふう……」

 疲れ切っていた心と体が、癒されていく。夜の涼しい風も心地よい。

 ようやく一人になれた。銀四郎は右腕の紅桜にそっと触れる。

 ――――病院で悪化した時、すぐに先生が診てくれたが原因は判明しなかった。

 引き金は八咫烏との一件なのか。

 仮にそうだとしてもアリスたちは、銀四郎に対して当然の行動を起こしただけである。

 責めるのは違う。

 とにかく謎が多すぎる。ピースも足りない。諦めて、思考を中断した時だった。

 ガラガラガラ、と横滑りの引き戸が開く音。

「ん?」

 銀四郎も通った、脱衣所と温泉をつなぐ扉である。

 続いてペタペタと、何者かが裸足で入って来た。

 まずい、物好きがいた。とっさに体の向きを調整し、紅桜の右腕を隠す。

 だが、その必要はなかった。

「あ、アリス⁉」

「……シロウか」

 八咫烏のエージェント。真紅のツインテール少女だったからだ。

 これなら問題ない――――わけなかった。

「お、女のお前がなんでここにいるんだよ⁉」

「なんでと言われてもな……ここは『混浴』だろう」

 アリスは男の銀四郎を目にしようと動揺せず、無表情のまま首を傾げた。

 髪をアップにし、一糸まとわぬ全身をバスタオルに包んでいる。

 思わず背を向けた。くっきりと強調されたボディラインがまぶしすぎるのだ。

「た、たしかに混浴だ。でも理由がない!」

「一人でゆっくりしたくてな。誰も利用しないだろうと、踏んでいたんだ」

 シャワーの水音が聞こえてくる。タオルを外して、体を洗っているのだろう。

 考えるだけでのぼせそうになる。気を紛らわすために声を張った。

「だ、だけど、男がいる可能性だってあったじゃないか! 現に俺がいたし、恥ずかしくないのか⁉」

「恥ずかしくないし、男の裸など見慣れている」

 まさかの言葉にぎょっとする。

「え、そ、それって――――」

「死体の解剖に、致命傷の分析、どれも必須の科目だった。おかげで、すっかり目が適応してしまったよ」

「うわ、そいつは災難……いや待て、俺の裸も死体と変わらないってこと⁉」

「さて、そろそろ湯に浸かろう」

 文句はあっさりスルーされ、シャワーの水音が止まる。

 そして、ちゃぷんと温泉に入る音。

「んんっ! はあ……極楽……」

 なんだか、反応まで色っぽかった。

 さすがにくらくらしてくる。自分を保ちたくて、適当な話題を振った。

「アリス、八咫(そし)()のことをどう思ってる?」

「ずいぶん急だな……私にとっては『職場』とか『居場所』としか言いようがない。正しくても、間違っていても、ついていくのみだ」

「すると、拾われた孤児ってヤツか」

「少し違う――――私の家族は、組織に殺された」

「は?」

 温まっていた体の芯が、あっという間に冷えていく。

「こ、殺された?」

「私の家は、海外マフィアのファミリーなんだ。調子に乗って、日本へ来たのが運の尽き。壊滅させられ、生き残った私は彼らに拾われた」

「……恨んでないのか?」

「ああ。もともと血みどろの抗争とろくでもないビジネスを繰り返す、死んで当然の連中だった。金があっても、愛はなかったのだ」

 アリスによると、似たような境遇のエージェントが他にもたくさんいるらしい。

 しかも、彼らはそろって仇であるはずの八咫烏を憎んでいないという。

「家がマフィアの時点で、普通の人生を歩めない。暴力の世界に生きることを余儀なく運命づけられる」

 拾われて、エージェントになろうと、逃れられない。

 同じ世界の延長線上に過ぎないのだ。ただ、抗争から暗殺へと暴力の方向が変わるだけ。

「そもそも、今の日本は少子高齢化社会。身寄りのない子供すら不足している」

「だから、殺して――――奪う?」

 まさに、おぞましい所業だった。カルト教団が可愛く見えてくるレベルの、怪物。

「い、いったい何なんだよ? 八咫烏(おまえら)は」

「私も末端の一人でしかない。だが、組織は大昔から活動していると教わった」

 アリスはいくつかの内容を話してくれた。

 たとえば、明治の日本を騒がせた……超能力の有無を確かめる実験。

 八咫烏はエージェントに大事な器具を盗ませ、世論の非難も煽り、追い詰めていった。

「これは徐々に信用を失わせていく、社会的な工作だ」

「組織が、超能力を恐れたってことか?」

「いや、非科学的な存在は――科学的な発展を妨げかねない。そういう身勝手な理由だった」

「自分たちの都合に合わせて、歴史を操作してるのかよ……」

 マフィアと大差ないやり方に辟易させられる。

「さらに江戸時代。当時の組織は『三羽烏(さんばからす)』と名乗っていた」

 最高位の『金鵄』が三人いることが、由来になったのだろう。

「彼らは幕府の最高職――『老中』の懐刀として暗躍。政策に反対する者を片っ端から消していった。しかし、その凶刃を唯一はねのけた者がいる」

「そんな奴が?」

「老中が特に敵視した奉行だ。信任が厚く、権力では潰せなかった。そこで三羽烏に白羽の矢が立ったのだが……」

 彼は名奉行としての実力も備えており、何度も返り討ちにされてしまう。

 結局――彼とともに抵抗していた、もう一人の奉行を罠に嵌める。

 見せしめに利用し、警告をしつつ圧力もかけてきた。

「それでも、彼は引かずに抵抗を続けたらしい。何者かは知らされていないが、とんでもない男だ」

「……おいおい」

 明らかに聞き覚えのある話。

 老中に逆らった名奉行、思い浮かぶのはただ一人。

 驚きのあまりに、ばしゃっ! と勢いよく立ち上がる。そして、少女の方に振り向いた。

「アリス、そいつはきっと――――」

 この時……銀四郎は、決定的なミスをした。

 自分の腰にタオルを巻いていなかったのである。

「あ」

「…………」

 彼女はソレを目の当たりにした途端、ぼふんっ! とオーバーヒート。

 クールな無表情はどこへやら顔まで真っ赤に染め、瞳にメラメラと憤怒の炎を宿し、まっすぐ睨みつけてきた。

「キサマ……」

 少女が、ゆっくりと立つ。

 怒らせてはいけない人を怒らせた。すぐに両手を上げ、なだめようとする。

 冷汗が止まらない。最強の猛獣を相手にしている気分だった。

「ま、待つんだ! おちつ――――」

 必殺の拳が飛んでくる。

 発勁(はっけい)。腰の振りと前足の捻りを活かした強烈な打撃。

 八極拳による右ストレート。止めるのも避けるのも至難の業。

 なら、逸らす(リダイレクト)。両手を上げた状態から、クラヴマガのインサイドディフェンスへ移行。

 左手でアリスの右腕を押しつつ、体もパンチの外側に逃れる。

 だが彼女の右足も動きだす。腿法(たいほう)の一つ、狙いはがら空きの股間。

 読めていた。すかさず銀四郎も左足を上げる。

 こちらの狙いは右の脛。踏みつけるように蹴り、アクションに入る前の右足を止めた。

 ストップキック。後の先を取る、難易度の高いディフェンスである。

「男の裸くらい、平気じゃなかったのか?」

「……すまない。生きる人間は、違っていた」

 互いに拮抗した状態で、少女は頬を赤らめ、恥ずかしげに目をそらす。

 すでに怒りを収めていた。とはいえ、自分にも非がある。

「いや、俺もごめん……タオルはきちんと巻かないとな」

 二人はただちに均衡を解き、背を向け合う。

 銀四郎が腰にタオルを巻くと、アリスが温泉から上がった。

 振り返り、その後ろ姿に話しかける。

「出るのか?」

「気にするな、お前のせいではない」

 といっても、彼女の両耳は赤いまま。

 言葉が見つからず、立ち尽くしている間に行ってしまう。

 しかし、アリスは引き戸の前で足を止め……ぽつりとつぶやく。

「無茶はするなよ。冷たくなったお前なんて、見たくない」

「え?」

 それだけを言い残し、少女は脱衣所の向こうへ消えた。



                    8



 温泉でぼんやりと、一人の時間を過ごした。

 他に『混浴』へ来る者はいなかった。アリスも今後は女湯を使うだろう。

「……出るか」

 そろそろ動かなければならない。

 胸にくすぶる寂しさを振り払って、温泉を上がった。次は人の多い食堂で情報を集める。



 夕食もあっという間に終わり、消灯の時が訪れた。

 警備の巡回は……午前の二時まで。しばらく仮眠を取ってから、銀四郎は部屋を抜けだす。

 服装は上下ともに青ジャージ、床に埋められた照明が並ぶ、薄暗い廊下を歩いていく。

 カルト教団も犯罪組織。拠点に防犯カメラなんて置くわけがない。

 後ろめたい秘密を録画しかねないのだ。スマホの没収はもちろん、携帯ゲーム機の持ち込みすら禁じている。

 誰ともすれ違うことなく、たどり着いた場所は――――闇に覆われた体育館。

 窓がわずかに開いており、夜のひんやりとした風が吹きこんでくる。

 セキュリティはがら空きだった。教団にとって重要な地点ではないのだろう。

 しかし、食堂に集まった学生たちの間で……奇妙なうわさが流れていた。

『教団はいつも新しい体育着セットを支給してくれる。けれど、目当ては女子が引き換えに渡す――履いたブルマっぽい。男だらけだし、挙動がいろいろと怪しい』

『体育館の舞台に下りたままのスクリーン。その裏に信者がこっそり入るのを見た』

 銀四郎は『体育着の行方』に目を付けた。厳重な拠点の裏とは別に、大量の衣服を管理した倉庫があると睨んだ。

 まずはスクリーンを調べる。扉が隠れているかもしれない。

 守りが手薄の可能性も高い。ピッキングくらいならできる。

 最新のゲートや金庫と向き合うよりマシ。そう判断して、裏側に身を滑り込ませる。

 見つけた、と同時に落胆する。鉄製のドアが硬く閉ざされていたからだ。

 しかも、顔認証の液晶パネルまで取り付けてある。

 さすがにこれは無理……がっくりと肩を落とし、仕方なく戻ろうとした途端――ピコンッ! と軽快な電子音。

 セキュリティの逆鱗に触れたわけではなさそうだった。

「ん?」

 液晶パネルが光っている。近づくと、数字が表示されていた。

 パネルの四隅にそれぞれ1、2、3、4……気づけば、目で順番通りに追っていた。

 何かを感知したのか、画面が切り替わる。

 なんだろう……今度は立体的な球が三つ。手前、真ん中、奥と配置されていた。

 どれか一つが信号のように、ぱっと光っては消える。

 またしても無意識だった。点灯した球にピントを合わせつつ、視線を移していく。

 正解のファンファーレはないまま、再び画面が切り替わる。

 次は大きめの円が出現、1から12までの数字が時計回りに入れてあった。

 中央には星のマーク。そこに両目の視点を、固定する。

 いきなり数字の『5』が、ぱっと点灯。

 すでに『周辺視野』で認識していた。目は迷わずに、光る『5』へ到達。

 その後も数字を捉えていくうちに、とうとう『UNLOCKED(ロック解除)』の文字が浮き上がった。

「……マジかよ」

 ガチャリと、ロックが外れる。道具なしで解除してしまった。

 ふと、液晶パネルの側面にある――妙なロゴが気になった。大手セキュリティ会社のマークだ。それで得心がいく。

 最近……こういう遊び心を持った、システムが流行っている。

 高齢者の家を狙う強盗が増える昨今、防犯はもちろん老化まで予防できる。

 自分のせいで改善の必要が出てきたわけだが。

 せめて技術の発展に役立ててほしいと願いながら、銀四郎は中に踏みこむ。

――――誰もいない。暗くて、狭い部屋。目が闇に慣れてくると、体育館倉庫だとわかった。

 跳び箱にボールの入ったカゴ、体操用のマットなど、おなじみの物が置いてある。

 銀四郎は棚へ近づく。収納スペースを占める段ボール箱に、体育着が詰め込まれていた。

 仕分けされている。それぞれの箱に『新品』、『商品』とラベルが貼ってあった。

『新品』は未使用の体育着セット。そして『商品』は回収した体育着セット。

 なぜ『商品』なのか。一つを手に取ってみた時、ぎょっとする。

 どういうことだ。『新品』も『商品』も、セットは透明なビニールで包んである。

 しかし『商品』には写真が付いていた。それもすべて、イベント中の女子を撮ったもの。

 男子はない。そもそも、ブルマのセットしかなかった。

「…………」

 ぼかしが入っており、顔は判然としない。けれど合宿メンバーの一員だと確信できる。

 午前のイベントを思い出す。カメラを持った信者があちこちにいた。

 きっと、アリスたちも――――

「うっ」

 カルト教団の下劣な本性を目の当たりにし、耐えがたい吐き気がこみ上げてくる。

 逃げるようにドアへ向かい、開け放つ。走ろうとして足がもたつき――転んだ。

 なんとか立ち上がり、よろよろとスクリーンの裏側を出た。

 まずい……ストレスが……今度は、異常な熱が全身を蝕んでくる。

『紅桜』だ。痛いほどに疼く右腕を押さえつけ、呼吸を必死に整えた。

「はあっ! はあっ!」

 殺さない掃除屋として戦う間、裏社会の醜さを何度も見てきた。

 しかし、慣れることはできなかった。どうしても嫌悪を抑えられない。



 ……どれくらい、苦しんでいただろうか。

 やっと発作が収まり、ふらふらとした足取りで舞台から降りる。

 かいた汗が気持ち悪い。たしか……浴室のシャワーは二十四時間、使えたはず。

 すべて、流してしまいたい。だがフローリングの床に立った瞬間――――意識が、警戒モードに入る。

 体育館の中央に誰かがいた。黒いフード付きパーカーに身を包み、顔は隠れている。

 ズボンやスカートを履かずに、パーカーの長い裾から真っ白な美脚をさらしていた。

 女子、だろうか。合宿メンバーの一員である可能性が高い。

 おそらく相手も戸惑っている。とりあえず落ち着かせようと、両手を上げた時だった。

 ぬるりと、脱力しきったフットワークで距離を詰められる。

「っ⁉」

 右の拳が飛んできた。手首の絶妙な角度により、肘から反力を逃したストライク。

 銀四郎は左手を伸ばし、相手の前腕を逸らす(リダイレクト)。カウンターの右パンチを顔面に打ちこむ。

 しかし、ダメージの感触がない。首、肩、腰を緩め、全身で流したのだ。

「あ」

 カウンターへのカウンターとばかりに、左のストライクが腹部にめり込んだ。

 ――――ロシアン武術システマ。達人の拳は、巨漢を一発で沈めるという。

 ストライクとは、非破壊の打撃術。

「うっ」

 非破壊といっても、最小限の破壊による無力化もコンセプトの一つ。

 吐き気を覚えたばかりの体が、そんな無駄のない拳を食らったらどうなるか。

「うげえええっ!」

 吐いた。床にびちゃびちゃとぶちまけてしまった。

 終わってからも腹を押さえ、ゴホゴホと咳きこみながら膝をつく。

 黒パーカーのシステマ使いは追撃してこない。ギリギリ見える口元をニヤニヤさせるのみ。

 やばい……ストライクの衝撃で意識が失われていく。

 耳は遠のき、視界も狭まり、呼吸まで困難になる。

 そうはさせない。銀四郎は鼻から吸って口から吐く、ブリージングを小刻みに繰り返す。

「フッ、フッ、フッ――――」

 バーストブリージング。レスリングで組み伏された時にも使用する。

 通常のブリージングではケアしきれない負担を解消できるのだ。

 傍観していた黒パーカーが――ひゅう、と楽しげに口笛を吹く。

「クラヴマガだけじゃねえんだな。クソ親父の英才教育ってヤツ?」

 乱暴な口調だが、声は少女のものだった。

「……黙れドS野郎。システマくらい、かじってる」

「おもしれえ、そうこなくちゃなあ!」

 銀四郎の呼吸が安定すると、謎の少女は容赦なく踏みこんできた。

 ――――ブリージングはシステマの呼吸法。

 ストライクを打ち合う練習でも、受けた後の『回復』に用いる。

 こいつはそれを逆手にとって、遊んでいる。

 銀四郎はストライクを受けるたびに、ケアをしなければならない。

 少女は立て直すまで待機し、再び襲いかかってくる。

 認めざるをえなかった。徒手空拳においては彼女の方が上だと。

「くそっ!」

 舞台は本館の二階に移った。茂木が言っていた『模造品(レプリカ)だらけの展示室』に追い込まれる。

 室内のセンサーが反応し、自動的にぱっと明かりがつく。

 ガラス張りのショーケースを置いたカウンターが並ぶ、白一色の空間だった。

 このままだとやられる。ケアは永続じゃない、いずれ限界がやってくる。

「まだ終わらねえよなあ?」

 息一つ乱れていない、システマ使いが近づいてきた。

 銀四郎は会話で引き延ばしを試みる。

「お前、いったい何者なんだよ?」

「あたしと朝を迎えてくれたら、教えてやるよ」

「情熱的で結構」

 展示品から扱えそうなものを探す。古い武具のレプリカも保管してあった。

 ふと、その中に気になる物を発見した。

 それを握れ、振るえ、と本能的な何かがささやいてくる。

 彼女が勢いよく肉薄してきた。

 銀四郎は取り合わずに、横へと転がる。

「逃げんのかよ⁉」

 文句を無視し、目的のショーケースにたどりつく。

 ガラスは軽かった。左手で持ち上げ、隙間に右手を差し入れる。

 抜き出したそれを見た少女は……ひゅう、とまたしても口笛を吹く。

「お次は――――『十手(じって)』か。もともとお前、奉行の一族だもんな」

「クソ親父のせいで、本家に合わせる顔はないけど……」

 十手とは時代劇でおなじみ、鉤つきのほっそりした鉄の棒。

 主に、刀への対処に用いられる。鉤で白刃を受け止めるのだ。

「それで? あたしはジャパニーズソードを持ってねえし、あの細さも棒術と合わねえぞ」

「そいつはどうかな?」

「あん?」

 銀四郎は迷わず前に踏みこんだ。

 たしかに棒術の要領で振るうには細すぎる。

 ただし、普通の十手だった場合の話である。

「ちっ、そういうことかよ!」

 彼女もようやく気づいた。

 銀四郎が握ったのは『半棒(はんぼう)十手(じって)』だ。名の通り『半棒』に『十手』の鉤がついた武器。

 打ちこんでくることはない。その先入観に囚われた、システマ使いの反応が遅れる。

 この機会を逃す手はない。右の肘を内側に入れ、腰とともに手首も右にひねり、相手のこめかみを狙う。

 続けて左にひねり、反対側も打つ。扇状の二連打『アバニコ』だ。

 しかし……少女は両手を上げ、強引にガードしていた。

「なめんな!」

 構わない。再び手首を返し、固定したまま――水平に右、左、と二連打へつなげる。

『アバニコ』で空いた脇腹に『ハポス』を打ちこむ。二つを合わせて四連打。

 バシンッ! と最後の一打が少女を押しのけた。

「があっ⁉」

 彼女は受けた脇腹を押さえつつ、俊敏な獣のように後ろへ跳ぶ。

 ――――フィリピン武術アーニス。これも父、鉄矢から教わった。

 手首のスナップを利かせ、棒を剣のごとく振るう。

 いける。茂木がここについて助言した理由がわかってきた。

 おそらく、展示室の模造品(レプリカ)はすべて……頑丈に作られている。

 武器として使うためだろう。銀四郎の『半棒十手』もその一つだった。

 銃火器の持ち込みが難しい、日本の犯罪組織ならではの発想。

 やっと攻撃の手ごたえを掴めた。そう思った時――ぐらり、と視界が揺れ始める。

「あ、れ?」

 体が熱い、紅桜の発作か。足元すらおぼつかない。

 ばたり、と気づけば倒れていた。半棒も手から離れ、カランカランと空虚な音を響かせる。

 最後に、黒パーカーの少女が慌てて駆け寄ってくるのが見えた。

「おい、こんなところで倒れんなよ! 勝負もまだついてねえじゃねえか!」

「わる、い」

 謝ることしかできず、銀四郎の意識は強制的にブラックアウトしていった。



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