失ったもの
その日も、空はやけに青かった。昼休み、紫乃はいつものように僕の席に来て、
「今日、放課後ちょっと寄り道しようよ」
と、笑って言った。
特別なことではなかった。ただ、一緒にアイスを食べて、駅まで歩いて、他愛もない話をして帰る――それだけの約束。けれど、それが僕にはたまらなく嬉しかった。
放課後、部活の音が校舎に響いていた。紫乃は先に帰ると言って、鞄を肩にかけて手を振った。
「じゃあ、駅前で!」
その笑顔が、校門の向こうで光の中に溶けていった。
……それが、僕が最後に見た紫乃の笑顔だった。
教室でプリントをまとめていると、外がざわつき始めた。誰かが叫んでいる。遠くで車の急ブレーキの音。胸の奥が、理由もなくざわついた。
気づけば、体が勝手に動いていた。校門を出て、交差点の方へ走る。人だかりの向こう、地面に散らばった鞄、見覚えのあるキーホルダー――それを見た瞬間、息が止まった。
「紫乃……!」
名前を叫んでも、声は空気に吸い込まれていった。制服の袖が血に濡れて、彼女の髪が風に揺れていた。誰かが救急車を呼んでいる。周りの声も、車のクラクションも、全部遠くに感じた。僕はただ、紫乃の手を握った。冷たい。だけど、かすかに指が動いた。
「……玲央、くん……」
「紫乃! 喋らないで!」
「大丈夫……生きてる……よ。」
紫乃は、微笑もうとした。その笑顔は震えていて、それでも確かに彼女だった。
「約束……覚えてる? 一人で……抱えないで、って。」
「うん……! だからもう、離さない。絶対に!」
サイレンの音が近づく。紫乃の目が、薄く閉じかけていく。その瞬間、世界から色が消えた。
気づけば、雨が降っていた。夕立だったのか、それとも、さっきから降っていたのか。僕には、もうわからなかった。紫乃を乗せた救急車の赤いランプが、遠ざかっていく。その光が見えなくなった瞬間、体の力が抜けた。足が震えて、アスファルトに膝をついた。周りの声も、車の音も、全部遠くにぼやけていた。
――なんで、僕じゃなかったんだろう。
頭の中で何度もその言葉が響く。紫乃が倒れて、僕が立っている。それだけの事実が、どうしても受け入れられなかった。
僕がもっと早く行っていれば。あの交差点で待ち合わせなんてしなければ。僕が手を引いて歩いていれば。「もしも」が、無限に浮かんでは消えていった。そのたびに胸の奥が痛くなって、息が詰まった。
あの時、紫乃が言っていた。 “逃げることは、生きるために必要だよ”って。でも、僕はもう逃げることすらできない。紫乃がいない世界で、どう息をすればいいのか分からなかった。
病院の廊下は、白すぎて、現実感がなかった。消毒液の匂いが鼻を刺して、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。あの赤い光が遠ざかってから、どれだけ時間が経ったのかも分からなかった。気づいたら、僕はここにいた。紫乃の眠る病室の前に。
ドアの向こうから、機械の小さな電子音が聞こえる。規則的で、冷たい音。それだけが、この場所の時間を動かしていた。
恐る恐るドアを開けると、そこに紫乃がいた。静かに、眠るように。顔には小さな傷があって、包帯が頬を隠していた。それでも、あの優しい表情は変わらなかった。まるで、いつもの帰り道で笑っている時のまま。
「……紫乃。」
呼びかけても、返事はなかった。代わりに、心電図の音がひとつ、静かに鳴った。僕はベッドの横に座り、彼女の手を握った。冷たくて、でも確かに生きている温度があった。
「僕のせいだよね。」
声が震えた。
「一緒に帰ってなければ、こんなことにならなかったのに。あの時、もっとちゃんと手を握っていれば。僕が守るって言ったのに……何もできなかった。」
涙が一粒、紫乃の手の甲に落ちた。それを拭うように親指を動かす。けれど、紫乃は何も言わない。ただ、静かに眠っていた。カーテンの隙間から夕日が差し込んで、白いシーツを橙色に染めた。まるで時間が止まってしまったみたいに、何も動かなかった。
紫乃の寝顔を見つめながら、僕は小さく呟いた。
「……紫乃、起きてよ。」
それは懇願でもなく、ただ心の奥の一番深いところから出た声だった。
「まだ話したいこと、たくさんあるんだ。笑いたいことも、ちゃんと伝えたい“好き”も、まだ言ってない。」
でも、紫乃は何も答えなかった。ただ、静かに息をしているだけだった。時計の秒針が、やけにうるさく響く。一分が永遠みたいに長かった。病室の外では誰かが話している声がしたけど、遠くの世界みたいだった。
――神様、どうか。このまま、彼女の時間を止めないで。僕から、紫乃だけは奪わないで。それだけを、何度も心の中で繰り返した。
紫乃が眠ってから、もう何日経ったのか分からない。カレンダーはめくっているのに、時間が進んでいる気がしなかった。病室の窓から見える景色も、いつも同じ。白い雲、灰色の空、そして、静かな雨の名残。
学校には行っている。でも、授業中も心はここに置き去りのままだ。誰かに話しかけられても上の空で、放課後になるとすぐに走って病院に来る。紫乃のいる、この場所に。
「……やぁ、今日も来たよ。」
そう言って椅子に座り、紫乃の手を握るのが、毎日の習慣になった。温度はある。命の証。でもその手は、やっぱり何も動かない。
「授業でね、数学の小テスト返ってきた。あの公式、紫乃に教えてもらったやつ、ちゃんとできたよ。」
自分でも笑えるくらい、どうでもいい話ばかりしてしまう。紫乃が聞いたら、きっと「玲央くん、真面目~」って笑うんだろうなって。その笑顔を思い出すたびに、胸が痛くなる。
紫乃の机の上には、小さな白い花を置いている。最初の頃は毎日替えてたけど、最近は二日に一度になった。
花屋のおばさんが、僕の顔を覚えちゃって、何も言わずに白い花を包んでくれる。その優しさが、逆に胸にしみた。
「紫乃、もうすぐ夏だよ。海とか、花火とか、行きたかったな。」
声に出して言ってみるけど、紫乃は眠ったまま。その静けさが、答えみたいに響く。
夜になると、病室の灯りが少しだけ落ちる。機械の音が、かすかに響く。その音を聞きながら、僕は紫乃の手を握ったまま、ノートに言葉を書いていた。紫乃が目を覚ました時に、全部読んでもらえるように。
「今日もちゃんと来たよ。」
「夢の中でもいいから、会いたいな。」
「紫乃、起きたら、またあのベンチ行こうね。」
ページが増えるたび、日付が進んでいく。でも、紫乃の時間は止まったまま。世界の方が、紫乃を置き去りにしていくみたいだった。
「ねえ、紫乃。僕さ、やっと気づいたんだ。」
小さく呟いた。
「生きる理由って、誰かのために“生きたい”って思えることなんだね。紫乃が眠ってる今も、僕は生きたいって思ってる。だって、紫乃が目を覚ますとこ、見たいから。」
外では、また雨が降り始めていた。屋根を叩く雨音が、まるで子守唄のように優しかった。僕はその音を聞きながら、紫乃の手を包み込む。
「……待ってるからね、紫乃。」
その言葉に返事はなかった。でも、ほんの一瞬だけ――紫乃の指先が、小さく震えた気がした。
「……紫乃?」
息が止まる。錯覚かもしれない。けれど確かに、僕の手を、ぎゅっと――ほんの一瞬、握り返した。
「紫乃! 聞こえる? 僕だよ、玲央だよ!」
返事は、ない。だけど、指先がもう一度、かすかに動いた。小さな奇跡。僕は泣きそうになりながら、その手を胸に当てた。
「ありがとう……生きててくれて、ありがとう……」
その時、ドアが開いた。小さく、落ち着いた声が聞こえる。
「玲央くん……?」
振り向くと、そこに紫乃の母が立っていた。疲れた表情の中にも、どこか優しい光があった。
「こんにちは。今日も来てくれてるのね。」
「はい……。紫乃、今、少しだけ動いたんです。指が……」
僕の言葉に、母さんは驚いたように目を見開いた。そしてすぐに、紫乃の手を包み込んだ。
「……ほんとね。ありがとう、玲央くん。あなたが毎日来てくれるから、この子、頑張れてるのかもしれない。」
「僕なんか、何もできてないです。紫乃を守るって言ったのに……」
「いいのよ。」
紫乃の母は、ゆっくり首を振った。
「守るっていうのはね、何かを防ぐことだけじゃないの。この子が笑ってた時間を作ってくれたこと、それだけで充分守ってくれたのよ。」
僕は何も言えなかった。涙がこぼれそうになって、下を向いた。紫乃の母は、窓の外を見ながら続けた。
「……あの子ね、小さい頃から弱いのよ。人の痛みを全部、自分のことみたいに感じちゃう子だった。友達が泣けば、自分も泣く。誰かが笑えば、全力で笑う。だから、いつも心がすり減ってたの。でも、玲央くんと一緒にいるときだけは、穏やかだったわ。」
「……そんなこと、言ってくれてたんですか?」
「ええ。“玲央くんはね、心が静かで優しいんだよ”って。“この人と一緒なら、生きていたいって思える”って言ってたの。」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。僕が紫乃に支えられてたのと同じように、紫乃も僕の中に生きる理由を見つけてくれていたんだ。窓から風が入り、カーテンが静かに揺れた。外では、夏の始まりを告げる蝉の声が、遠くで鳴き始めていた。
紫乃の母は、そっと僕の肩に手を置いた。
「もうすぐ、きっと目を覚ますわ。あの子、あなたに“また会いたい”って思ってるはずだから。」
僕は紫乃の手を握り直した。
「紫乃、待ってるからね。僕、ここにいるから。」
その瞬間、まぶたが、ゆっくりと震えた。
光を確かめるように、細い目が少しずつ開いていく。僕の呼吸が止まった。
「紫乃……!」
紫乃の瞳が、僕の方を向く。けれど、その視線はどこか遠かった。焦点が合わない。まるで、見知らぬ世界を見ているようだった。
「……ここ、どこ……?」
かすれた声。それでも、僕には宝物みたいに聞こえた。
「病院だよ。……僕だよ、玲央だよ。」
紫乃は少し首をかしげた。眉を寄せて、考えるように僕を見つめる。
「れお……くん?」
その響きが、痛いほど胸に刺さった。名前を口にしてくれたのに、そこに“思い出”がなかった。紫乃の表情は、どこか怯えていた。
「……ごめんなさい。私、あなたのこと……」




