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小さなすれ違い

その日も、紫乃と一緒に帰っていた。風が強く、雨が降り続ける、梅雨の時期。校門の向こうで誰かが名前を呼んだ。

「……玲央?」

 そこには、中学の時の同級生、香原(こうはら)がいた。

 もう思い出すはずがないと思っていた記憶が蘇ってくる。教科書や上靴を隠された。川に捨てられたこともあった。机に悪口を書かれた。最初はシャーペンだったから消したけど、油性ペンで書かれるようになって、消すのは諦めた。僕の席は、気づけば真っ黒になっていた。暴力を振られたこともあった。大人数対1人なんて、どう考えてもおかしいのに。あの頃は身体中にあざができてた。家では、隠そうといつも必死だった。

 香原は、いじめの主犯格だった。みんなに命令して、僕をいじめてた。

「香原。どうしたの。」

「元気そうじゃん。彼女?」

 香原はヘラヘラしていた。まだ、僕をからかっている。それが伝わってきて、心がとっても冷たくなった。

「関係ないでしょ。何しに来たの。帰ってよ。」

「そんな冷たくしないでよ。友達だったじゃん。近くに来たから寄ってみただけ。」

「は?友達って何?」

 紫乃が香原のことを睨みながら言った。

「彼女さん、落ち着いてよ。中学生の時、俺玲央と仲良かったの。」

「んなわけないでしょ。玲央くんのこといじめてたんでしょ。」

「へぇ、知ってるんだ、怜央は話してないと思ってた。」

 悪びれることなく言った。まだ、反省してない。ただ、からかう為だけに会いに来たんだ。

「帰ってってば。」

「はいはい、わかったよ。いちゃいちゃタイム、奪ってごめんね?」

 香原は最後まで、最低だった。


「……玲央くん。」

「僕は、大丈夫だよ。」

「大丈夫じゃないよ。声、震えてる。」

「大丈夫。もう吹っ切ったから。」

「ねえ、吹っ切れてないよ。嘘つかないで。」

「嘘じゃない。もういいんだ。」

「嘘つかないでってば!どうして、話してくれないの?私のこと信用してないの?」

「違うよ。」

「違くない。嘘ついてるのわかるもん。強がらないでよ。私、玲央くんに信頼されてると思ってた。でも、違ったね。勘違いだったみたい。玲央くん何も変わってないよ。昔と一緒。傷つきたくなくて、本心隠すとこ。」

 紫乃は、傘も開かずに一人で歩き出した。涙で濡れていた顔は、すぐ雨に上書きされていった。僕は、紫乃のことを追いかけれなかった。追いかけても、何も言えないから。雨の中で立ち尽くす僕は、傘を差す気力もなくて、孤独の中に一人でいるような虚しさだった。


 家に帰っても、そのことばかり考えた。雨が止まずに降り続けていて、部屋の窓を打つ音が、心の中まで響いた。

 紫乃を傷つけてしまった。もうしないと誓ったのに。僕は、何も変われてなかった。紫乃と過ごして、幸せで気づかなかった。でも、香原に会ったら、逃げてしまった。強がった。あの頃と何も変わってない。自分の心の弱さが嫌になる。

 紫乃の泣いた顔が、何度も心に浮かぶ。僕のせいで。また、泣かせてしまった。目の前に、紫乃とのトーク画面が光っている。幸せな会話だけの。謝らなきゃってわかってるけど、指は動かなかった。なんて言ったらいいのか分からなかった。やっぱり僕は、逃げるんだなって、心のどこかで感じた。

 もう逃げない。そう決めるまでに、時間がかかった。僕は、覚悟を決めて紫乃の家に向かった。外は雨が止んでいて、雨の匂いだけ残っていた。


 チャイムを押すと、ドアが開いた。

「……玲央くん?」

 紫乃の目の周りは、赤く腫れていた。

「話したいことがあるんだ。」


 あの公園に向かうまで、沈黙が続いた。それは、二人の心の距離だった。


「紫乃、ごめん。僕、変わってなかった。」

「うん。」

「向き合うのが怖かった。全然吹っ切れてなかった。思い出したら、逃げたくなった。一人で抱え込んじゃった。」

「うん、玲央くんらしいよ。」

「え?」

「優しいから、周りに迷惑かけたくなくて抱え込んじゃうんだよね。私もごめん、言いすぎた。もっと、玲央くんの気持ち考えれば良かった。」

「優しい……?」

「うん、奏乃ちゃんと似てる。奏乃ちゃんも、一人で抱え込んで自殺しちゃったから――。」

「……ごめん。」

「いいよ。でも、次からもっと頼ってよ。私何も出来ないけど話聞くことはできるから。一人で抱えないで欲しいな。」

「うん、約束する。」

 一呼吸おいてから、紫乃は言った。

「この前ね、奏乃ちゃんの家行ってきたの。奏乃ちゃんのお母さんが言ってくれたの、逃げることも生きるためには必要よって。私ね、ずっと罪悪感あったの。奏乃ちゃんの笑顔がだんだん暗くなってたのに、何も言えなかったのが。奏乃ちゃんに言えたら、一人で抱え込まずに相談してくれたかなって。私あの時逃げたんだよ。何も言わない楽な方選んだ。奏乃ちゃんのお母さんがね、逃げてなかったらあなたまで死んでたよって。確かにそうだなって思っちゃった。それでもね、奏乃ちゃんのお母さんは私が生きてること喜んでくれた。辛いはずなのにね。だから、逃げることは悪いことじゃないよ。でも、抱え込まないでね。」

「うん、わかった。」

 水たまりが、街灯に照らされて、きらきらと輝いていた。



  目が覚めた瞬間、昨日の雨の匂いがまだ部屋に残っていた。カーテンの隙間から、やわらかい朝の光が差し込んでくる。

 紫乃と話したあの夜――

 あの言葉たちが、まだ胸の中で静かに響いていた。


 “逃げることも、生きるためには必要よ。”

 “でも、一人で抱えないでね。”


 紫乃の声が、昨日の雨音と混ざって思い出される。

 あのあと、帰り際に紫乃は小さく笑って「また明日ね」と言った。

 その笑顔が、眠っている間も頭から離れなかった。


 制服に袖を通し、鏡を見た。顔色は少しだけ良くなっている。たぶん、ちゃんと“生きよう”と思えたからだ。

外に出ると、空は澄んだ青だった。あんなに降っていた雨が嘘みたいだ。


 校門の前で、紫乃が立っていた。昨日と同じ制服なのに、なぜか少し違って見える。目が合うと、紫乃がそっと微笑んだ。


「おはよう、玲央くん。」

「……おはよう、紫乃。」


 たったそれだけの言葉なのに、それだけで涙が出そうだった。


「ちゃんと眠れた?」

「うん。久しぶりに、ぐっすり。」

「よかった。」


 紫乃の声が、昨日よりも少しだけ柔らかい。僕の心の奥まで届くような、そんな響き方だった。


 教室に入ると、いつも通りの朝のざわめき。机を並べる音、笑い声、窓の外の風。でも、昨日までとはまるで違う世界みたいに感じた。


 隣の席の紫乃が、ふとノートを開きながら小声で言った。

「ねえ玲央くん。」

「ん?」

「私ね、昨日思ったの。……“強くなる”って、ひとりで我慢することじゃないんだなって。」

「うん。」

「だから、これからもちゃんと話してね。嬉しいことも、悲しいことも。」

「もちろん。紫乃も、ちゃんと話してよ。」

「うん、約束。」


 小さな笑顔が返ってくる。それだけで、教室の空気が少し明るくなった気がした。


 昼休み、窓際の席で風を感じながら、紫乃が言った。

「ねえ玲央くん。雨、止んでよかったね。」

「うん。……昨日の夜も、止んでたよ。」

「うん、知ってる。玲央くんが来てくれた時、空、泣き止んでた。」


 そのとき、窓の外を一羽の鳥が横切った。白い羽をきらめかせながら、青空の中へ飛んでいった。


 紫乃がそれを見上げながら、小さく言った。

「ねえ、玲央くん。」

「なに?」

「私たち、ちゃんと前に進めてるよね。」

「うん。少しずつだけど。」

「少しずつでいいよね。」

「うん。少しずつで、いい。」


 紫乃が笑った。

 その笑顔は、雨の翌日の空みたいに澄んでいて、どこまでも広がっていくようだった。

 

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