あなたのおかげで
風が少し冷たくなってきた。
公園の木々の影が長く伸びて、足元に夕陽の線が落ちていた。子どもたちの笑い声が遠ざかり、代わりに虫の声が近くなってくる。
紫乃と僕は、並んでベンチに座っていた。どちらも、しばらく何も言わなかった。風が髪を揺らし、葉の音がさざめく。その音だけが、時間をゆっくりと進ませていた。
「……もうすぐ、日が沈むね。」
「うん。今日、長かったな。」
「でも、あっという間でもあった気がする。」
「たしかに。」
紫乃が空を見上げた。茜色がだんだんと群青に変わっていく。その横顔は、どこか穏やかで、もう“死”を思う影がなかった。
「ねえ、玲央くん。」
「うん?」
「私ね、玲央くんと会って、生き返った気がする。」
「……どういうこと?」
「奏乃ちゃんが死んでから、もう生きたくないって死ぬことばっか考えてた。でも、玲央くんに会って、生きる理由が見つかった気がするの。」
「うん、わかる気がする。今の紫乃は生きることが楽しそうだよ。」
紫乃はどこか照れてて恥ずかしそうに微笑んだ。
「玲央くんは?」
「僕?」
「玲央くんにとって、生きる理由って、なに?」
「……前までは、何もなかった。ただ、死ねなかったから今生きてるみたいな……。生きてる意味なんて考えるだけ無駄だって思ってた。でも、今は……紫乃がいる。」
紫乃がゆっくりこちらを見る。沈みかけた夕陽の光が、彼女の瞳の中で小さく揺れた。
「紫乃が生きてる。それだけで、僕も生きていたいって思える。」
紫乃は一瞬、何かをこらえるように目を伏せた。
そして、少し震える声で言った。
「……それ、ずるいよ。」
「え?」
「そんなこと言われたら、もう玲央くんなしじゃ生きられなくなるじゃん。」
「じゃあ、僕もずるいんだ。紫乃がいなきゃ、生きられないから。」
ふたりで、ふっと笑った。泣いているのか、笑っているのか、自分でも分からなかった。
「ねえ、玲央くん。」
「なに?」
「……好きだよ。」
声が小さくて、風に消えそうだった。でも確かに、僕の心の奥に届いた。
「僕も、紫乃が好き。紫乃がいないと生きられない。もし、良かったら付き合ってください。」
その瞬間、世界が少しだけ静かになった気がした。まるで時間が、ふたりのこの言葉を刻むために止まってくれたみたいに。
「もちろん、私でよければお願いします!」
二人で、見つめあってふっと笑った。もう2人の間には、負の感情なんかない。希望で満ち溢れている気がした。
「ねえ、玲央くん。」
「うん?」
「生きる理由ってさ、きっと変わっていくんだと思う。でも、今は……玲央くんが理由。」
「僕も同じ。紫乃がいるから、生きていたい。」
「どっちかが死んだら、もう片方は生きられないね。」
「……。そんなことなんないように、他にも理由みつけようよ。きっと見つかるから。」
「……そうだね。玲央くんとなら、見つかる。」
ふたりの影が重なり、ひとつになって夜の中へ溶けていく。もう約束なんていらなかった。
ただ、今日を生きている――そのことが、何よりも確かな希望だった。
目が覚めた瞬間、昨夜のことが夢みたいに思えた。紫乃と並んで見た夕焼け。「好きだよ」って、震えながら言ってくれた声。そして、僕の告白に頷いてくれたあの笑顔。あれが現実なのか、まだ信じられなかった。でも、スマホの画面には紫乃からのメッセージが届いていた。
おはよう☀️
ちゃんと起きれた? 今日も学校行こうね。
その一文だけで、胸がじんわりと温かくなる。生きる理由なんて、そんなに遠くにあるものじゃなかったのかもしれない。こんな小さなことでも、心が暖かくなるんなら、生きることは意外と難しくないのかも。
制服に袖を通して、鏡を見る。昨日までと同じはずなのに、少しだけ顔が違って見えた。これは、紫乃と付き合えて浮かれているのか、生きるのが楽しくなったのか――。分からないけど、その二択はすごく幸せだと思う。
校門の前で、紫乃が待っていた。少しだけ髪をまとめていて、いつもより綺麗だった。
「おはよう。」
「おはよう、玲央くん。」
その呼び方に、一瞬ドキッとする。昨日までクラスメイトだったのに、今は恋人。たった一晩で、世界の色が変わるんだ。
「ちゃんと眠れた?」
「うん。……ちょっと、ずっと考えてたけど。」
「なにを?」
「昨日のこと。」
「……私も。」
ふたりで顔を見合わせて、思わず笑ってしまう。照れくさくて、でも嬉しくて。
校舎の中に入ると、クラスのざわめきが耳に入ってきた。いつも通りの朝。でも、紫乃の隣に座るだけで、心の中に小さな光が灯る。
紫乃のおかげで、世界が変わった。比喩とかそんなんじゃなくて、本当に――。紫乃にとって、僕はそんな存在になれているのか。一瞬考えたけど、紫乃の表情を見てたら、疑わなくていい気がした。
放課後の教室に、夕陽が差し込んでいた。窓際のカーテンが風に揺れて、光と影が机の上で踊っている。授業が終わっても帰る気になれず、僕はぼんやりと外を眺めていた。紫乃は隣で、ノートを閉じながら静かに息を吐いた。
「ねえ、玲央くん。」
「ん?」
「今日さ……、クラスの子がね、私に言ったの。最近、明るくなったねって。」
「いいことじゃん。実際そうだと思うよ。」
「うん、嬉しかった。でも……ちょっと怖くもあった。」
紫乃は机に視線を落とした。風がカーテンを揺らし、光が彼女の頬を照らす。
「明るくなった自分が、嘘みたいで。本当の私はこんなに元気な人じゃないって、どこかで思っちゃうの。」
その言葉に、僕は胸の奥を掴まれるような感覚がした。僕も、同じだったからだ。笑っていても、どこかでこれは仮面だって思ってしまう。
「わかるよ。」
「……え?」
「僕もそうだったから。いや、今もそうかも。
笑ってても、どこかで昔の自分を思い出して、怖くなるんだ。あの頃の気持ちが、また戻ってくるんじゃないかって。」
紫乃は少し驚いたように僕を見て、そしてゆっくり頷いた。
「……玲央くんでも、そう思うんだ。」
「うん。僕たちって、たぶん死にたいって気持ちを完全に消せないんだと思う。でもさ、それを隠さなくてもいいんじゃないかな。ありのままの紫乃を好きになってくれる人はきっと僕以外にもいるよ。」
「……やさしいね。」
「やさしくないよ。僕も、自分に言い聞かせてるだけ。」
少し沈黙が流れた。窓の外で、部活帰りの生徒たちの声が聞こえる。日常の音が、まぶしくて、少し遠かった。
「ねえ、玲央くん。」
「うん?」
「もし、また死にたくなったら、どうする?」
その質問は、あまりにも真っ直ぐだった。冗談でも軽い話でもなくて、ほんの少しの震えを伴っていた。
「……そのときは、どうしよう。紫乃と付き合えたのが幸せすぎてそんなこと考えてなかった。」
「ふふ。そっか、考えなくてもいいんだね。」
「うん。紫乃がいるのに、死にたいなんて考えられなくなった。」
「ずるいよ。玲央くんずるい。」
紫乃は、嬉しそうに言った。幸せなこの瞬間がいつまでも続く気があの時はした――。




