過去を乗り越えて
目を開けると、白い天井が見えた。蛍光灯の光がやけに冷たくて、まぶたの裏まで焼きつくようだった。
体を動かそうとしたけど、腕がだるくて、指先が自分のものじゃないみたいだった。消毒液のにおいが鼻をつく。ここ、病院か……。
「……玲央くん?」
小さな声がした。振り向くと、椅子に座った紫乃がいた。目の下に濃いクマができて、手にはぐしゃぐしゃになったティッシュを握っていた。
「目、覚めた……。よかった……!」
泣き笑いの顔ってこういうのを言うんだと思った。何を言えばいいか分からなくて、ただ息を吸う。喉が焼けるように痛い。
「……ごめん。心配かけた。」
「ごめんって言わないでよ。私のせいだから。」
「違うよ。僕が勝手に……」
言いかけて、やめた。そんなこと言ったら、紫乃を傷つけてしまうと思ったから。沈黙のあと、紫乃がぽつりとつぶやく。
「……怖かった。玲央くんが、もう戻ってこないかと思った。救急車呼んで、何も考えられなくて……。私、また誰かを失うのかって。」
その言葉で、やっと理解した。紫乃は泣いてるのに、僕の手を握って離さない。震えていたのは手じゃなくて、声の方だった。
「誰か、って……?」
紫乃は少しだけ目を伏せて、呼吸を整えるみたいに言葉を探した。
「奏乃ちゃん。私の幼なじみなんだけどね。幼稚園から中学まで一緒だったんだ。いつも一緒にいて、なんでもないことで笑えて、すごい楽しかったの。もう私の一部ってぐらい。それで、同じ高校目指したんだけど、私だけ落ちちゃって。それでね、奏乃ちゃんは高校でいじめられて自殺したの。奏乃ちゃんのお母さんから聞いた時、信じられなかった。あの明るくて可愛い奏乃ちゃんがって。信じたくなかった。高校生になってからもね、たまに遊びに行ったりしてたの。だから、もしかしたら気づけたんじゃないかって。もし私が気づけたら奏乃ちゃんを救えたのかなって。だから、死にたくなった。奏乃ちゃんを死なせたこの世界なんて、大嫌い。こんなとこにいたくない。奏乃ちゃんのとこに行かなきゃって。気づいてあげられなくてごめんって言わなきゃいけない気がしたの。もちろん、1番悪い人はいじめた人たちなんだろうけど、私とか周りの人とか、そんな環境にも原因はあるんだよ。復讐することも考えたんだ、いじめた人たちに。でも、私にはできなかった。お葬式で会った時にね、その人たちすごく反省してたの。初めて会った私でもわかるくらいに。嘘ついてるようには見えなかったんだよね。根っからの悪人だったら殺せたのに。奏乃ちゃんが死んでも、笑ってヘラヘラしてる人なら間違いなく殺した。でも、私は反省している人たちを殺すことなんてできなかったの。反省したって罪が消えるわけでも奏乃ちゃんが戻ってくるわけでもないのに。それでも、無理だった。奏乃ちゃんは優しいから、あの人たちを許してあげてって言う気がして。だから、私が死ぬことにしたの。奏乃ちゃんは悲しむと思ったけど、それでも私は死にたかった。奏乃ちゃんに嫌われても、それでも良かった。とにかく、この世から消えたかった。」
「紫乃……。ごめん、紫乃の目の前で死ぬべきじゃなかった。」
「いいよ、もう。玲央くんが死ななくて良かった。」
「ありがと、紫乃。」
「次は玲央くんの番だよ。」
「……?何が?」
「私だけ話したらずるいでしょ。玲央くんのことも話してよ。普通の人は睡眠薬なんて持ち歩いてないからね?」
「そっか、そうだね……。僕は、中学生の時にいじめにあっていた。最初は、教科書隠すとか机に悪口書かれるとかちょっとしたことだったんだよ。でも、だんだんエスカレートして……。学校に行きたくなかった。でも、親に心配かけたくなかったから毎日行ったんだよ。今思うとね、親に心配かけてもいいから休めば良かったなって。でも、その時はそんなこと考えれなかった。学校行かなかったらあの人たちに負けちゃう、もっと惨めな気持ちになるって思ってた。それで、もう自殺しようって。それで、親の睡眠薬盗んだんだよね。これをいっぱい飲んだら地獄から開放されると思って。でも、出来なかった。今がとても辛くて苦しいのに、それでも、あの世が怖かった。死ぬことが怖かった。3年生なって、クラス替えしてね、いじめが収まった。一輝のおかげで。だから、僕は今いじめた人たちを憎んでない。許したとかそういう感じじゃないけど、もう他人だから。その時は辛かったけど、今はもう関係ないって割り切れてるんだよね。たぶん、心のどっかが壊れてるから、僕。だから、感情こもってないって言われるんだよ。それでね、いじめが終わっても睡眠薬を手放せなかった。捨ててしまったら、ただでさえ壊れかけな心までどこかに置いてしまいそうで。それで、いっつもポケットに入れてたんだ。」
「……。ありがとう、話してくれて。今は大丈夫?辛くない……?」
「うん、紫乃に話したら、少し心が軽くなった気がする。」
「そっか……。」
窓の外には青々とした葉の生い茂った街路樹が並んでいた。紫乃と僕であんな道を作りたい――ふとそう思っていた。
退院の日、空はやけに眩しかった。病院の玄関を出た瞬間、風の匂いが違って感じた。ずっと止まっていた時計が、ようやく動き出すような音がした。
「退院、おめでと。」
紫乃が笑って言った。その笑顔には、少しだけ疲れの色が残っていたけれど、どこか穏やかだった。
「ありがとう。心配かけてごめん。」
「また“ごめん”って言った。」
「……癖になってるのかも。」
紫乃が少し笑って、肩をすくめた。
病院の駐車場から少し歩いたところに、小さな公園があった。子どもたちの声が遠くで響いていて、木漏れ日が地面に揺れていた。僕たちはベンチに並んで座った。風が吹くたび、街路樹の葉がざわめく。
「ねえ、玲央くん。」
「ん?」
「人ってさ、生きてるだけで、誰かを救ってるのかもね。」
「どういう意味?」
「だって、玲央くんが生きててくれたから、私、まだここにいられる。死ななくてよかったって、今思えてるから。」
言葉が胸の奥に落ちて、静かに響いた。うまく返せなかった。ただ、「ありがとう」と呟くことしかできなかった。ふと、ポケットに手を入れた。いつものように、あの小瓶が触れた。僕には、もう必要の無いもののような気がした。まだ残っているけど、いらない。
「玲央くん!?また、飲むの!?」
「違うよ、もう捨てようと思って。」
「いいの?」
「うん、もう僕には必要ないから。」
「そうだね、うん。私もそう思う!」
紫乃は、僕に対して笑った。そこには、演技している紫乃はいなかった。心の底から嬉しそうな、紫乃の笑顔だった。
「ねえ、玲央くん。」
「うん?どうしたの?」
「1ヶ月だけって言ってたの覚えてる?」
「うん、忘れてないよ。」
僕は一瞬身構えた。もし、紫乃がまだ生きる理由を見つけてなかったら――。今の僕には、紫乃を説得されられない気がした。
でも、そんな心配は杞憂だった。
「あれ、もういいかも。」
「え?」
「玲央くんに会ってね、私救われた。玲央くんがいたら、生きれる気がする。」
「……ほんとに?」
「うん、もう嘘はつかないって決めたから。玲央くんの意識が戻るまでにね、いろいろ考えた。誰かを傷つけることがあるんなら、自分や相手に嘘ついちゃいけないって。だから、本当の自分を見せることにする。驚かれるかもしれないけど、その方が誠実な生き方だと思った。」
「変わったね、紫乃。」
「うん、ありがと。玲央くんが変えてくれたんだよ。」
「僕、なんかしたかな……。紫乃に迷惑かけてばっかだった。」
「謙遜しないでよ。間違いなく、玲央くんのおかげだから。」
「うん、わかった、僕も変われるように頑張るね。」
「うん、2人で頑張ろう。」
紫乃の気持ちが変わって良かった。――いや、僕の気持ちも変わったのかもしれない。お互いがお互いを救ったって、そんな感じがする。そんな物語みたいなことがあるのかって信じられないけど、紫乃となら、そんなこともあるのかなって思った。




