第8話 王城の朝は歩きやすくなる
第8話 王城の朝は歩きやすくなる
朝の王城は、夜とはまるで別の場所みたいに明るかった。
噴水の水面が柔らかく光って、庭の草の先に朝露が載っている。
石畳は冷たくて、歩くたびに足の裏が目を覚ます。
晩餐の夜は静かに終わって、城の針は抜けた。
あの薄い嘘も、小さな勇気でほどけた。
だからだろうか、今朝の空気は驚くほど軽くて、息を吸うのが楽だった。
俺は数珠の留め具に指を軽く乗せて、胸の奥の呼吸をひとつ整える。
ゆっくり、確実に。
いつもの合図だ。
「ユウマ、おはよう!」マリアが勢いよく駆けてきて、目の前でくるりと一回転した。
金色の髪が陽にきらめいて、彼女の笑顔は朝の光より眩しい。
「今日ね、城下の市場に新しい布が入るんだって!一緒に見に行こうよ」
「朝から元気だな」と笑う。
セリアは少し遅れて歩いてきて、灰色の瞳を細めた。
「市場の人出は多い。
昨夜、針が消えたなら、今日の呼吸はきっと揃うはず。
確認にもなる」
リリィは控えめに隣に並んだ。
「私も行く。
人混みで何かあったら、すぐ動けるように」ケイルは片手で杖を肩に乗せ、あくびを噛み殺して「パン食った直後に市場、悪くないじゃないか」と笑って肩を叩いてきた。
相変わらず力加減がうまい。
城門を出ると、朝の風がいきなり甘くなった。
市場の匂いだ。
焼きたてのパン、果物の香り、干し草、人の笑い声。
城下の通りはもう賑わっていて、露店の布が色を放っている。
マリアは一気に速くなる。
リリィが苦笑しながらその腰の帯をちょんとつまんで速度を合わせ、ケイルはその様子を見てニヤニヤしている。
セリアは歩幅を一定に保ち、俺はみんなの歩幅を頭の中で重ねながら、ゆっくり進む。
焦らないで進めば、落ちない。
市場の真ん中まで来ると、広場の端に人だかりができていた。
何事かと近づくと、古いバルコニーの板を修理するという見世物じみた作業を、街の職人が朝の客寄せにしているらしい。
脚立が二本、板が三枚、手際の良さを見せるためにあえて客の前でやっている。
面白くはあるが、危なっかしい。
俺の肩の奥で小さな嫌な音がした。
人の集まる場所のこういう見栄えは、たまに場の呼吸を乱す。
「すごい!」マリアが素直に手を叩く。
リリィは眉をわずかに寄せた。
「ちょっと……危ないかも」セリアは視線だけで脚立の足元に目を落とし、「下に油」と低く言った。
ケイルは表情を真面目に戻し、「こりゃ派手に落ちるな」と肩を回した。
俺は一歩前に出る。
騒がない。
慌てない。
落とさない。
脚立の足元には、昨日こぼれたであろう油の薄い膜が広がっていた。
見栄えのために近くに置いた果物の光沢が、その油に光を足している。
職人は気づいていない。
客の視線は、手さばきにばかり集まっている。
板はまだ固定されていない。
もし一枚目を持ち上げた瞬間、脚立が滑ったら——誰かが怪我をする。
朝の市場に血は似合わない。
「ユウマ」とリリィが目だけで合図する。
俺は頷いて、手袋の下の手のひらに意識を落とした。
目立たないように、足元に近づく。
派手な光も、叫び声もいらない。
ただ、場の空気に布をそっと敷くように、こっそりと支える。
「すみません」と職人の横に立つ。
「板、持つ前に、足元をひとつだけ見てもらえますか」職人は客の視線に忙しくて、最初は聞き流しかける。
だが、声は落ち着いていて、怒っていない。
怒っていない声は、思わず耳に入る。
職人は俺の指の先を見て、油を見つけて顔色を変えた。
「おわっ、危ない!おい、水、持ってこい!」
客がざわっとした。
嫌な笑いは起きない。
むしろ安堵が広がった。
水を持ってきた少年が慌てて足元にかけ、布で拭く。
俺はそこに目立たないように「安定」の気配を薄く置いてやる。
誰にも見えない。
感じるといえば、足を置いたときに少しだけ安心するくらいだ。
職人の足は、その安心を正直に拾う。
「ありがとよ、兄ちゃん!」職人が笑って、板を持ち上げる。
手の動きは滑らかだ。
客は手際の良さに拍手を送る。
油の不安は消えた。
朝の市場に、危ない角はない方がいい。
「ユウマ、やっぱりすごい」マリアが肩を叩いて笑った。
セリアは「場が整った。
昨日の布が効いてる」といつもの調子で言って、リリィは「今の、私にはできない。
あなたの仕事だね」と短くうなずく。
ケイルは横で「こういうの、数字にならないんだよな。
けど一番効く」と不器用に褒める。
俺はただ笑った。
褒められるのは嫌いじゃない。
市場の奥には布屋が並んでいて、色の洪水みたいだった。
マリアは「この藍、夜の色だ」とうっとりし、セリアは「その白は朝露」と冷静に評する。
リリィは「この黒、剣の影に似てる」と指に触れ、ケイルは「俺は赤。
炎」と単純明快なことを言って笑った。
俺は布を触りながら、眠りの紋と呼吸の紋のことを思い出して、もう少しだけ朝の調律を市場の広場に広げようかどうか、感覚で決める。
やりすぎない。
足りなくしない。
いつもの合図だ。
そのとき、人混みの中から少しだけ高い声が上がった。
誰かが荷車に躓いたらしい。
振り向くと、小さな女の子が果物の籠を抱えたまま、駆け足で人並みに飲み込まれていく。
籠の底が緩んでいて、表面のリンゴが一斉にこぼれそうだ。
「危ない!」マリアが走り出す。
彼女は足が速い。
でも、速すぎるのは、時々危ない。
リリィがすぐに追い、ケイルは反対側から人を払って道を開ける。
セリアは人の流れを見抜いて、最短で女の子が出られる隙間を指で示した。
「こっち」と俺に目だけで合図を出す。
俺は頷いて、女の子の腰に届く距離を保ちながら、人の肩にもぶつからずに進む。
女の子は籠を抱え直そうとして、手を滑らせた。
リンゴが一斉に転がる未来が見えた。
俺はその未来に布を敷く。
手を伸ばして、籠の底にそっと指を差し込む。
持ち上げない。
押さえない。
ただ、重さの方から落ち着いてもらう。
今の一瞬だけ、少しだけ、重さの場所をずらす。
リンゴは転がらない。
女の子は驚いて俺の顔を見た。
目は大きく、涙はまだ落ちていない。
「大丈夫、持ち直せるよ」俺が言うと、女の子は頷いて、両手でしっかり籠を抱え直した。
マリアがしゃがんで目線を合わせ、「よかったね」と笑う。
リリィは後ろに立って人を押しとどめ、ケイルは「危ないぞ、慌てるな」と明るい声で人の流れを落ち着かせる。
セリアは果物の匂いの層を確認して、「甘さが手前に戻った」と満足げに頷いた。
よし。
場が整った。
「ありがと!」女の子はぱっと笑って、籠を抱えて走っていった。
誰かの朝が、落ちないで済んだ。
こういう細い仕事は、派手じゃない。
だけど、それで十分だ。
俺は数珠の留め具を指で撫でて、胸の奥に小さな呼吸を置いた。
市場の中心で、町の役人が簡単な告知を始めた。
「王城の紋章庫の件、昨夜、城から知らせが降りました。
城下の夜の巡回は少し柔らかくなります。
針は刺さない。
布を敷く。
……て、なんだそれは、分かりやすいんだか分かりにくいんだか」役人は照れ笑いしながら読んで、周りの人々がくすりと笑った。
言葉の意味が伝わるかどうかじゃない。
空気の意味が伝わるかどうかだ。
笑いに刺がないのなら、伝わっている。
そのすぐ脇で、薄い男がそっと腰を低くしていた。
肩の力が抜けているのに、目だけが落ち着いていない。
たぶん、悪さをしに来たわけじゃない。
仕事がうまくいかなくて、誰かに文句を言いたくて、この人混みに紛れて、言う相手を探している。
でも、言う相手が見つからないから、影に寄りかかる。
影は濃くなる。
濃くなった影は、場の角を尖らせる。
俺は彼のそばへさりげなく歩いていった。
「朝、うまくいかなかった?」と小さく訊く。
男はびくっとして俺を見た。
「……見てたのか?」
「見てない。
ただ、匂いが少しだけ重かった。
果物の匂いが重くなると、人の心の端が重くなる。
重くなると、文句を言いたくなる。
悪いことじゃない。
ただ、今それをここで言うと、角が尖る」
男は肩を落とした。
「城の税のことで……納得できないことが、ある。
でも、言いに行くと怒鳴られそうで。
ここで愚痴って、誰かが同調してくれたらって思った」
「じゃあ、俺に愚痴ればいい」俺は笑った。
「怒鳴らないし、聞くだけしかできない。
数字は王城の仕事だ。
橋は俺の仕事だ。
橋を渡ってから、数字を見ればいい」
男は黙って俺の顔を見て、やがて短く笑った。
「……ありがと。
聞いてくれたから、少し楽になった。
王城に行く。
本当に言いたいことを、言う」
「怖かったら、怖いって言えばいい。
並ぶって言う人もいる」俺が指で背中を示すと、リリィがさりげなく頷いて一歩前へ出てきた。
男は目を見開いて、深く頭を下げた。
セリアは役人と短く二言三言言葉を交わし、ケイルは「連れていこうか?」と肩を叩いた。
男は「一人で行ける」と笑った。
布がひとつ広がった。
市場の喧騒は高くならない。
人は笑って、物を買って、子供は走り、犬は吠える。
俺は色の洪水の中で、自分の呼吸を何度も整えた。
焦らない。
急がない。
落とさない。
マリアは布屋で藍の端切れを買って、それを首に巻いて得意げに見せる。
「似合う?」と訊かれて、「似合う」と答えるのは簡単だ。
本当に似合っていたから。
セリアは朝の色を三つ指差して、「この白、この藍、この薄い灰。
王城の今朝の空気と同じ」とまとめる。
リリィは剣の影みたいな黒い布を手にして、「これで軽い羽織を作れば、夜の巡回で役に立つ」と冷静に言う。
ケイルは「俺もマント新調していい?」と子供みたいに訊く。
マリアが「派手すぎないなら」と即答して笑った。
昼に近づくにつれて、市場の奥から少しだけ強い声が聞こえた。
男が屋台を蹴っていた。
金を払ったのに物が違う、と怒鳴っている。
屋台の女は泣きそうだ。
人は集まる。
角が尖る。
俺は視線を落として、呼吸をひとつ整えた。
布を敷くか、ここは誰かの仕事に任せるか。
セリアが目だけで合図する。
「少しだけ」
俺は屋台に近づいて、男と女の間に立たず、横に立った。
正面に立つと刃が見える。
横に立てば、布の端が見える。
「物が違う?」と男に訊く。
男は俺を睨んだが、怒鳴らなかった。
「色が違う。
注文した青じゃない」
「なるほど。
青はたくさんある。
あなたが欲しい青は、どれ?」俺が布屋の方向を指すと、マリアが走ってきて、三種類の青を抱えてきた。
藍、浅葱、水色。
どれも少しずつ違う。
「どれ?」と差し出すと、男は目を細めて藍を指差した。
「これだ。
これが、欲しかった」
女が涙目で「ごめんなさい」と言って、浅葱を藍に替えた。
男は舌打ちせずに頷いた。
角は尖らない。
人は解決に安心する。
マリアは「青はね、心の呼吸に似てる」と小さく言い、セリアは「色の調律、完了」と冗談みたいにまとめた。
ケイルは「青でも燃えるの?」と意味の分からないことを言って、リリィに肘で突かれて笑った。
市場の騒ぎが落ち着いた頃、王城の方から若い騎士が走ってきた。
「支援魔法使い殿!」息を切らして、俺の前で止まり、礼をする。
「王より伝言。
城下の空気、歩きやすいと多くの報告あり。
あなたの働き、王城にて感謝とのこと。
それから——次の依頼。
午後、城の工房で小さな爆薬の事故が起きた。
被害は少ないが、匂いが重くなっている。
整えてほしい」
俺たちは顔を見合わせる。
マリアが「爆薬の匂い、きついよね」と眉を下げ、セリアは「匂いの層が乱れる。
人が落ち着かなくなる」と冷静に言う。
リリィは「午後、行こう」と短く決め、ケイルは「爆発は俺の出番か?」と半分嬉しそうに肩を回す。
俺は数珠の留め具を撫でて、息を整えた。
ゆっくり、確実に。
いつも通りだ。
昼前に市場を離れる準備をしていると、家令が息を整えながら市場に現れた。
昨夜の針の家令だ。
彼は俺たちを見ると、軽く頭を下げた。
「城下で布を広げてくれて、ありがとう。
王城からも伝言。
数字はあとからついてくる、だって」
ケイルが「だよな」と笑い、リリィは「ついてくる」と真面目に復唱し、セリアは「そうだね」と頷く。
マリアは家令の袖を引いて、「今度、市場の布の色、王城でも使って」と無邪気に言う。
家令は少しだけ目を潤ませ、「……やってみる」と言った。
城へ戻る前に、パン屋に寄った。
焼きたての香りは魔法みたいで、表面の薄い塩が朝の汗を笑いに変える。
マリアは「今日のパン、昨日より美味しい」と言って目を閉じた。
セリアは二つ目を手にして、「昨日よりも歩きやすいから、味がよく分かる」と真面目な推論をする。
リリィは「この時間、好き」と短く言い、ケイルは「パンは数字にできる。
百」とふざけた。
俺は笑って、「数字はあとだ。
今は橋を渡ったご褒美だ」と言った。
午後、王城の工房へ向かう道は、朝より少し熱くなっていた。
日差しが強く、匂いが濃い。
工房の扉を開けると、爆薬の焦げた匂いが喉の奥に薄く刺さった。
大きな事故ではない。
机の上で小さな火が走って、粉が焦げただけと見える。
だが、匂いは強い。
強い匂いは、呼吸を尖らせる。
「ユウマ」とセリア。
彼女は匂いの層を見る目を持っている。
「甘さが奥に沈みすぎてる。
苦さが前に出てる。
前に苦さがあると、落ち着かない」
「分かった」俺は工房の中央に立って、手のひらの紋に指を座らせた。
大げさにやらない。
派手にやらない。
匂いの層をほんの少しだけ、やさしく前後に揺らして、位置を戻していく。
甘さを少し手前へ、苦さを少し奥へ。
油断すると、無理に押し込んでしまう。
それはよくない。
匂いは押し込まれたくない。
自分で場所を見つけたい。
だから、手を貸すだけだ。
工房の職人が不安そうに近づいてきた。
「城の人、怒らない?」と小声で訊く。
「怒らないよ」と俺は笑った。
「怒ったら、布で包む。
針は刺さない。
城は今、それで動いてる」
職人は目を丸くして、それから少しだけ笑った。
「……助かる」リリィが横で頷き、ケイルは扉の枠に肩を預けて「匂い、落ち着いてきたな」と鼻を鳴らした。
セリアは「層、整った。
これで工房の人は息がしやすい」と満足げに言う。
マリアは「爆薬、怖いけど、匂いが柔らかくなると、怖さも柔らかくなるね」と言った。
そう、その通りだ。
工房を出ると、王城の廊下の空気は朝よりさらに軽い。
人が歩く音が揃っていて、誰も足を引っかけない。
昨日より今日、今日より明日。
歩きやすい城は、ゆっくりできあがる。
数字はあとからついてくる。
俺は数珠の留め具を指で撫でて、胸の奥でその言葉をもう一度繰り返した。
中庭に戻った頃、太陽は少し傾いていた。
影は濃くなるが、怖くない。
濃い影は、光が強い証拠だ。
ベンチに腰掛けると、マリアがすぐ隣に座って肩に頭を乗せる。
「ユウマ。
今日も、歩きやすかったね」
「そうだな」
セリアは噴水の音を聞きながら目を閉じる。
「拍は一定。
城は呼吸している」
リリィは立ったまま空を見上げ、「次も、並ぶ」と簡単に約束した。
ケイルは「撃つ場所、今日も間違えなかった」と冗談めかして言い、俺の肩を叩いた。
叩き方は上手い。
叩かれて嫌な気持ちにならない。
こういう技術は、戦い以外でも役に立つ。
俺は深呼吸をひとつして、静かに言った。
「今さら戻れと言われても遅いんだが」誰に言ったのか、自分でも分からない。
王城に、昔の仲間に、自分の過去に、そして少しだけ、自分の心に。
マリアが笑い、セリアが頷き、リリィが目を閉じ、ケイルが肩をすくめた。
王城の朝は、また歩きやすくなった。
明日も、歩きやすくなる。
ゆっくり、確実に。
俺は落とさない。
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