放課後の静寂
放課後になり、教室は夕暮れと心地よい静けさに包まれていた。
「……なぁ、リコち。本当にあんな勝負をしてよかったの? あれじゃあ、セリナちに手を抜いてくださいって言ってるようなもんじゃね?」
明後日の合同シミュレーションに向けた作戦を立てるため、私とルカは教室に残って作業を進めていた。
と言っても、実際に作業をしているのは私だけで、既に自分の分の課題を終わらせているルカは、私の目の前で携帯ゲームをしていた。
不安そうな表情を見せながら聞いてくるルカに、私は笑みを浮かべる。
「大丈夫だよ。私は自分の作戦に自信を持ってる。一応大澤さんに確認をしたら『それは君たちの問題だから好きにしなよ』って言ってくれたし。それに多分だけどあの子は手を抜かない……と言うよりも、抜けないと思うからさ」
「ふーん……まあ、リコちが良いなら問題ないんだけどね」
そう言うと、ルカは再びゲームの方へ視線を落とした。
私もそれを視界の端で確認して、自分の作業の方へ意識を向ける。
合同シミュレーション。
一年生全体で行われる合同のシミュレーションであり、全八クラスからドライバー十六名が参加して仮想空間でレースを行う。
週末に控えている『一年生レース』の調整を目的としていて、結果よりもデータの取得を目的としている側面が大きい。
それはブレーキがソフト・ミディアム・ハードの三種類のうち、一番安定感のあるミディアムブレーキの使用が義務付けられており、加えて二十周と言う本来の周回数の三分の一(本番はサーキットを六十周もする長期戦だ)しか行わないことも関係している。
何よりも従来のサーキットレースと同じで、長期戦の中をどれだけ耐え抜けるかも大事な要素だ。
一位を走っていたけど、リタイアしてしまいましたなんて愚の骨頂ともいえる。
だから、私はなるべく今回のシミュレーションでデータを収集して、彼女が何を得意としていて、逆に何が出来るのかを知りたいと思っていた。
最後まで走っていた者にのみ勝利への権利が与えられる。
だけどそれは、あくまで『ドライバー以外の人間』の視点だ。
浅桜さん含め、ドライバーという生き物はどうしたって『レースに出るからには一番を狙わなければ意味がない』と思ってるらしい。
シミュレーションであれ、結果を出すと言うことは自信にも繋がるし、一位を目指さなくなった段階で『ドライバーとして終わり』だと、同じクラスのドライバーである古谷くんも言っていた。
私はもう何度目になるか分からないため息を吐き出した。
「まぁ、とは言え……だよね」
「ん? なんか言った?」
「ううん、何でもない」
私は首を横に振って、ルカに返事をしながら思考を切り替える。
私が今回立てている作戦は、序盤にある程度の順位まで上がり、中盤はその順位をキープ。終盤で機を見計らって勝負に出るといったもの。
浅桜さんの相手が行うブロックを物ともしないステップワークと勝負勘は、他のドライバーと一線を画する能力を持っていた。
しかし、それゆえに安定性に欠けてしまう部分もある。
今回私が考えている作戦はその部分を活かしつつ、レースで熱くなってしまうことによって生じるリスクによって起こる自発的な事故などを起こさないようにしなければいけない。
安全なコース取りを徹底した安全型な作戦だ。
何より今回のシミュレーションはデータ収集が主だし、今から手の内を全て晒すのは得策じゃない。
ただそんな安全型の作戦でも今回のスタート位置では、レース開始直後の混戦状態で前へ抜け出すことが前提となっている。
唯一ここが事故のリスクがあるけど、それはどのチームだってそうだ。
だから、この部分はリスク管理の部分から外して考えている。
恐らく浅桜さんとしては、中盤に極力勝負をしないことが不満に感じているのだろう。
ドライバーとしての腕に自信があるから、自分の腕だけで順位を上げたいんだ。
まあ、それでも私がやることに変わりはない。
今回は私の作戦で走ってもらう、ただそれだけだ。
私にできることは、ドライバーの腕だけでは解決できないものを作戦でカバーすることだけ。
ピットインのタイミングで相手より優位に立つピット戦略や、相手の戦略分析科の傾向を読んだ対策など、盤内に転がってる要素を上手く繋ぎ合わせることだ。
『――ねぇ、何でお兄ちゃんはそんなに速いの?』
『うーん、リコは難しい質問をするなぁ……まぁでも一個分かってるのは、自分の身の丈以上の報酬を得るためには、時に高い代償を払わなきゃいけないって言うのを知ってるからかな』
『知ってる! ハイリスク・ハイリターンだよね?』
遠い記憶の中の、まだドライバーだったころの兄は、笑みを浮かべながら私にそう言った。
まだ小学生に上がる前のお兄ちゃんの背中は大きくて、逞しくて――そして暖かかった。
『そう! だから兄ちゃんはどんなに分の悪い賭けだとしても、得られるリターンが多いなら勝負を必ずするって決めてるんだ――』
――それ故に起きた悲劇は、小さい頃だったけど未だに鮮明に覚えている。
『もうお兄ちゃんはね、レースが出来ないらしいんだ』
脳内を反芻するお父さんの言葉。
同時に蘇る光景――夕暮れに染まる病室、無機質な消毒の匂いと、ベッドで深く眠る兄の痛々しい姿……そして、目覚めた兄の慟哭。
私がレースディレクターである限り、あんなことをドライバーに経験させたくない。
例え嫌われ役になったとしても、この心情だけは曲げることはできないんだ。
「よし、もうひと頑張りしますか。もし帰りたかったら、先にルカは帰っても大丈夫だけど……どうする?」
「まだデイリークエスト終わってないし、リコちと一緒に帰りたいから待っとくー」
ルカの返事に私は「おっけー」と言いながら作業に戻った。
私たちに残された時間は短いから。