たった一つの活路
――セリナの視界の先で、タイガのマシンが奇妙な動作と共に横転。
一瞬でそれがポーパシングによるものだと理解できたが、しかし『それだけ』のことしか理解できなかった。
「なッ⁉」
ホームストレートの終わり際、コーナーへの侵入口手前。
DRSでのオーバーテイクを諦め、次の勝負のタイミングで仕掛けようとしていた矢先での出来事に、セリナは思わず声を上げた。
それはアウトコースへと振っていたセリナのマシンの方へ、水色の物体が迫って来たからだった。
しかし、セリナの目からはそう見えているだけであり、傍から見ればセリナの方がマシンに突っ込んでいるように見えるだろう。
思考が刹那で加速する。
引き延ばされた時間の中で、セリナの視界は鮮明な光景を映し出していた。
飛び散るエアロパーツの破片と、地面との摩擦によって舞う火花、そして自分の進路を塞ぐようにして転がってくるタイガのマシン。
「ッ!」
刹那の事象への反射。考えるよりも先に、マシンを動かした。
それは十年間、シミュレーション含めてほぼ毎日欠かさずレースに人生を費やしてきた人間が魅せる、卓越した反射神経とマシンコントロールの極地。
減速のために踏んでいたブレーキを緩め、同時にアクセルを思い切り踏み抜いたことで、セリナはまるでハードル走の要領で文字通り『跳んだ』。
通常、グライド・フォーミュラーのマシンはダウンフォースなどの空力学を利用して『地面を速く走ること』に特化したマシンであり、飛んだり跳ねたりといった芸当は不得手とされていた。
右脚を振り上げ姿勢はなるべく低空を維持したまま、刹那の跳躍。
さながらそれは、ハードル走を行う陸上選手のような動きだった。
「ッ!」
彼女の好判断により目の前から迫ってくるマシンを、皮一枚のところで回避――同時にマシン頭部に衝撃が走った。
「ぅぐ……ッ⁉」
ダンッ、と短い浮遊時間が終わり、体勢を維持しながら何とか着地をする。
着地の衝撃が思ったよりもあり、腹の底から酸っぱいものがせり上がってくるのを、喉元を締め上げることで何とか我慢しながら、セリナは再び走り出す。
走り出す直前、セリナは一瞬だけタイガの方へ視線を向けた。
安全機構が働き、リアクターの回転が止まったマシンが、サーキットから外れてグラベルを転がっていく。
タイガの状況が心配になるが、コクピットは年々安全性を増しているため、あの状況であれば最悪は軽い怪我で済むレベルだ。
命に別状があるような事故ではないだろう。
「今回は……引き分けにしといてあげる」
セリナの小さな呟きは、轟音に紛れて届くことはなかった。
ヘッドホン越しに、観客の熱狂的な声が聞こえてくる。
『――神がかり的な回避です! 浅桜ドライバーがハードル走のように、横転したマシンを飛び越えていきました!』
『これは言葉を失ってしまいますね……私もレースシーンに長く携わっていますが、普通であれば激突して、再びレースが止まってるところですよ』
実況は困惑しながらも、セリナが起こした奇跡的瞬間についてお互いの感想を言い合っていた。
そんな彼らの熱の籠った実況を聞いて、観客席ではスタンディングオベーション状態となっている。
「せ、セリナ――大丈夫⁉」
彼女の安否を確認するため、私は焦りながら無線を繋いだ。
先ほどまで映し出されていた光景。
九万瀬さんのマシンの事故に対してセリナが神がかり的な回避をした。
ぶつかる――と思った瞬間に脳裏を過ったのは、兄が事故に遭った時の光景。
その時も同じような『巻き込まれ事故』の形だったため、嫌でもその光景がフラッシュバックする。
ただ、その時のようにはならなかった。
私は驚きと安堵で数秒間動けなかったけど、そこから何とか立ち直って無線のボタンを押していた。
少しの間があって、セリナからの返事が返ってくる。
『うん、こっちは大丈夫。マシンも今のところは問題ないし、継続して走れるよ。今はフルコースイエローが出てるから、速度を落としてるところ』
「そ、そっか……よかったぁ」
無線の向こう側からは、セリナの冷静な返事が聞こえてくる。
彼女の声を聞いて、強張っていた肩の力が抜けていった。
頬を伝っていた冷たい汗を拭いながら、私は言葉を続ける。
「とりあえずは、セリナの神回避で事故にならなくて安心したよ。セーフティーマシンが出るってっぽいから、ブレーキの温度管理をしながら走ってね」
『了解』
私はそのまま無線を切って、モニターに更新されていく情報へ意識を向ける。
九万瀬さんのリタイアによって、一旦イエローフラッグが出ている状況だった。
追い越しが禁止されることで、徐々に隊列が形成され始めている。
現在の周回数は四十八周目。
このまま事故などがなければ、セリナの五位以内はほぼ確実と言える状況だ。
あとは私の強みでもあるセーフティーな作戦でいけば――
『――リコ、どうしようっ!』
「どうしたのセリナ? 何かあった?」
これからの作戦について考えていると、セリナから突然焦ったような無線が入った。
切迫した彼女の声に、自然と私にも緊張感が戻ってくる。
『マシンのカメラが故障したみたい……っ! 右目の方は見えてるけど、左目が完全に潰れちゃってる! 多分さっき避けた時にエアロパーツに当たったのが原因かも……』
「マシントラブル……ッ!」
突然の彼女の報告に、私は驚きの声を上げる。
急いで彼女のマシンデータが記載されているモニターへ視線を向けると、セリナの言っていた通りマシンの左目側のカメラにノイズが走っていた。
この状態で走ることはできるが、両目の時に比べて視界が狭まることでのデュエル力の低下に加えて空間把握を行うことが難しくなるため、コーナリング時のターンインに支障をきたしてしまう。
今のところはセーフティーマシンが導入された影響で、レースのペースも落ちているから問題ないけど、レースが再開されればペースダウンの影響は免れないだろう。
『どうしよう、どうしよう……どうしよう、リコ!』
「まだイエローフラッグでレースは動いてない。こっちで何かできるか確認してくるから、セリナは事故を起こさないようにペースを維持して」
『う、うん、分かった』
無線を切ると、私は急いで整備科や開発科のクラスメイトがいる無線のチャンネルへ。
『はいよー、ルカちゃんと愉快な仲間たちチャンネルだよー』
「みんな、セリナのマシンでトラブルが発生したみたい。モニタリングしてる人たちは状況が分かってると思うけど、左目カメラが故障したみたい。何か対策はあるかな?」
ルカの返答に、私は努めて冷静に状況を伝えていく。
『うむうむ、無線聞いてっから事情は把握できてるよー。今システム科の人たちもサブカメラに切り替えられないか試してるけど……左目側の回路ごと完全に死んじゃってるみたいだから、直すためには一回バラさないといけないっぽいや』
「それ以外は無理、ってことだよね?」
打てる手は現状無いんだよねと言外に言う私に、ルカは淡々と言葉を続ける。
『うん。ピットインするにしても、ブレーキの交換みたいに簡単なことじゃないっぽいからねぇ。力になれなくてすまんの』
「ううん、それだけでも大丈夫。ありがとう」
私はそう言って無線を切った。思わぬ事態に脳みそが付いてきてない。
一旦大きく深呼吸を行うけど、ぐちゃぐちゃになった思考は乱雑としたまま纏まることはなかった。
モニターの向こうでは、デブリの除去に手こずっているようで、再開されるまでもうしばらくかかりそうだった。
まるで歯が噛み合っていない歯車の様に、思考が歪に回転する。
ただ心臓の音だけはうるさくて、耳の奥で鈍痛の様に響いていた。
どうすればいいか分からない、そんな言葉だけが回る思考を途切れさせるように、肩口にポンと衝撃が走る――
「——聞こえてるかな、巴月くん?」
「あ……は、はいっ! すみません、考えごとしてて……」
視線を隣に向けると、穏やかな表情を浮かべる大澤さんがいた。
「焦るのも分かるよ。うん、これはマズいことになったからね」
「……これはリタイアの判断になりますかよね?」
判断を委ねるように聞いた私に、大澤さんは険しい表情を崩さないままで、こちらに視線を向けてくる。
「チームの代表者としての判断を下すなら『リタイア』を君に薦めるだろうね。レースが再開された時には残り五周……いや、撤去のペースから考えて残り四周かな。それでもトラブルが起きてるマシンのまま走るのは、危険すぎる」
「そう、ですよね……」
だけど、と大澤さんは言葉を続ける。
「僕に判断を仰ぐってことは、巴月くんはまだ諦めていないんじゃないかい?」
「え……っ」
思いがけない彼の言葉に、私は驚きの声を上げた。
その様子に「気が付いていなかったのかい?」と大澤さんは口元を緩める。
「今僕に判断を仰いだ時の目は、まだ闘志に溢れていたように思えた。それでも戦略分析科として危険なレースを避けたいという気持ちとせめぎ合っていた――だから、最終的な判断を僕に委ねた。違うかい?」
「私は……」
どうなんだろう。大澤さんに言われて、自分の気持ちが一瞬で分からなくなってしまう。
「私は、それでも……」
ただそれでも一つだけ確かなことがあった。
それは、セリナが走っているところをまだ見ていたいという私の願望だった。
それに気づいた瞬間、湧きあがってくるのは胸を焦がすような激情。
まだセリナは負けてない。
まだ私は諦めたくない。
まだ――私たちのレースは終わってない!
そんな私の脳内を反芻するのは、ヒカリくんの言葉だった。
『自分の事を勝たせようとしない戦略分析科を、セリナちゃんは心から信用することが出来るかな?』
私がセリナの事を勝たせようとしてない?
ふざけんな……ッ!
「っ――」
彼女が無事に走り切れるようにこれまで努力を積み重ねてきて、その結果がリタイアなんて、そんなの嫌に決まってる!
ならば私にできることはなんだ――彼女が最後まで走れるようにサポートすることだ。
そんな私の脳裏を過ったのはハイリスクな戦略だった。
それは私の戦略分析科としての能力と、セリナのドライバーとしての腕が試される『文字通りたった一つしかない活路』。
ハイリスク・ハイリターンな作戦。
普段であればリスクとリターンが見合ってないと、気にも留めないレベルのものだったが、それでも迷っている暇はない。
同時に湧き上がってくるのは、お兄ちゃんに起きた悲劇だった。
一瞬止まりかける思考を、私は頭を横に振って振り解く。
『巴月さんの作戦で、アタシは勝ちたい』
屋上でのセリナの言葉が、私の弱い心を静かに燃やしていく。
そうだよねセリナ、分かってるよ。
友達じゃない、クラスメイトでもチームメイトでもない。
私は、セリナの相棒だから。
彼女を勝たせるために、私はここにいるんだ。
「――だから、私を信じてくれたセリナに勝ってほしい」
同時に脳みそが凄まじい速度で回っていった。
他人に説明できるレベルに考えがまとまったところで、私は視線を持ち上げて大澤さんの方を見る。
「一つだけ、今の状況を打開できるかもしれない作戦があります――」




