風読みの才女
英明市・市街地エリア。
ミーティングを終えて学校を後にすると、市街地エリアはすでに夕暮れが遠い。
五月特有の少し湿った夜気が、私とルカの間を通り抜けていった。
あの後の浅桜さんとのミーティングは、いつにも増して内容が濃いものだった。
その甲斐あって、膨大なデータの分析作業があって家で作業をしなきゃいけないんだけど……。
「ふわぁ……」
大きな欠伸が出てしまう。
ここ数日寝不足なこともあって、思考はいつもより鈍くなっていた。
「ふぃ、今日も疲れましたなぁ」
「そうだね。なんだか今日は一日が長く感じたよ……って言っても、やらなきゃいけないことはあるんだけど」
グッと体を伸ばすルカに、私も肩で息を吐き出しながら返答した。
腕時計を確認すると、すでに時刻は十九時半を回っている。
「それにしても市街地の方は慌ただしいなぁ。うちの制服の人もちらほらいるし」
「週末には市街地エリアはレースに来た人たち向けに露店とか出すらしいし、その準備じゃない?」
「なるへそなぁ。お祭りは楽しそうだけど、人が多いのはマジ勘弁や」
運動不足のため、私とルカは歩いて帰宅することにしていた。
市街地エリアは私たちと同じ英明の生徒に加えて、近隣に住む人たちで賑わいを見せている。
様々な誘惑があるけど、寮の門限は特別な時を除いて八時だし、それまでには帰らないといけない。
英明学園生に自由は少ないのだ。
空を見上げると月が、私を見下ろしていた。
夜空を彩るはずの星は、街の灯りによって数えるほどしか見えないのが残念だ。
「ねぇ、あとでリコちの部屋に行っていい?」
「今日? この後に来るってこと?」
途中に立ち寄ったカフェで買ったアイスモカを飲んでいたルカが、そんな質問をしてくる。
普段は自分の部屋に直行する彼女の言葉に、私は少し驚きながら返答した。
ルカはコクンと首を縦に振る。
「うん。まだ空力装甲の修正が終わりきってないんよ。自分の部屋だと誘惑が多すぎて集中できなくてさぁ……」
「それは全然大丈夫なんだけど……珍しいね、ルカが課題残してるって。普段だったら放課後のミーティングまでには終わらせてるのに」
基本は寮の敷地内であれば、同性同士であれば部屋の行き来とかは許されていた。
それに、寮にはトレーニングルームやアナリストルームが常時開放されていて、私も自分の部屋で集中できなかった時に使ったことがあるから、怒られることがないことは知ってる。
だから私が驚いたのは、ルカが学校を出るまでに課題を終わらせ切っていないことだった。
彼女は仕事が早いことで有名(というよりも、家でゴロゴロしたいから無理やり終わらせているらしい)だから、それに驚いてしまった。
私の返事にルカは少し苦い表情を浮かべる。
「それが、セリナちのデータ更新が思ったよりも多くってさぁ。データの修正案を今日中に欲しいってシステム科に言われてしまいまして……チクショウっ、うちは残業なんてしたくないのにさぁ!」
「あはは、それはしょうがないね」
涙目になりながら恨み節を放つルカに、私は乾いた笑いを浮かべる。
「ってことなんで、後でリコちの部屋で残業ホームパーティを開催するからな! 覚悟したまえ!」
「覚悟って……まあ、私もやらなきゃいけないことあるし、私の部屋に来るのは全然大丈夫だよ」
ビシッと私へ宣言するルカに、苦笑いを浮かべて了承する。
そのまま私たちは、真っ直ぐ寮の部屋に戻った。
それぞれの部屋に戻り、準備が出来次第私の部屋に集合ということになった。
部屋に帰り、少し片付けをして待つこと十分ほどして、部屋のインターホンを鳴った。
思ったよりも早い到着だと、少し慌てながら扉の方へと向かう。
「はいはい、どうぞ」
「お、メガネリコちじゃん。いやはや、お邪魔されますぅ」
「ルカはいつから迎え入れる側になったの?」
扉を開けると、制服からジャージに着替えたルカがいた。
とてとてと、そんな効果音が似合う足取りで私の部屋に入ってくると、そのままリビングに置いているローテーブルへ。
慣れた手つきで自分のタブレット端末とノートパソコンを広げ始めた。
私は来客用の紅茶を用意しながら、カタカタとキーボードを叩くルカへ声をかける。
「夜ご飯はどうするの? 何か食べてきた?」
「ううん、なんも食べてないよ」
「もし食べるなら、何か作ろうか? どうせルカのことだから、夜はカップラーメンとかで済ませちゃうんでしょ?」
私の言葉に、ルカはパッと顔を輝かせる。
「え、いいの⁉︎ そしたら今日は最愛の嫁ちご飯を頂いちゃおうかしら?」
「誰が嫁じゃ。まあ二人分作る方が楽だから、ご馳走するよ」
苦笑いを浮かべながら、私は紅茶をルカの方に持っていく。
砂糖とミルク多めが一番脳みそが働くんだとか。
「はい、どうぞ」
「おっ、流石はリコちだぜ。気が利くぅ! サンキューなぁ!」
きゃっきゃと子供のように喜ぶルカに「どういたしまして」と言いながら、私は部屋の隅にある机の方に移動した。
椅子に腰をかけて、ルカと同じようにパソコンの電源を立ち上げる。
クラスのチャットルームを確認すると、鬼のような数のチャットが届いていた。
「よし、やるか」
覚悟を決めて中身を確認すると、想像通りとんでもない量のデータの量だった。
やばい、ちょっと頭痛がしてきた。
一旦データを確認してみる。
うーん、思った通りエアロパーツの調整案はまだ上がっていないみたい。
私は椅子をぐるっと回して、ルカの方へ視線を向けた。
「ねぇ、ルカ。今大丈夫? おーい、ルカさーん?」
「……へいへーい? どったのー?」
ぶんぶんと手を振る私の呼びかけに、ルカはワンテンポ遅れてイヤホンを取りながら返事をする。
「浅桜さんの機体の空力装甲のデータって、いつ頃上がりそう?」
「セリナちの? それならさっき終わって、データ上げてるところよぉ。もちっとしたら共有フォルダに入ると思う」
「え、もう終わってたの?」
驚きの声を上げる私に、ルカはVサインを作る。
「おもちのロンよ」
「流石ルカだ……おっけ、そしたら共有フォルダ確認してみるよ」
ルカは「良いってことよ」と返事しながらイヤホンを耳に突っ込んだ。私も集中するためにヘッドフォンで耳を覆い、自分の世界に入っていく。
共有フォルダを確認すると、ルカ含めて開発科と戦略科のクラスメイトのデータ群が並んでいた。
私は中身をざっと確認しながら、必要な情報を洗い出していく。
欲しかったのは調整されたエアロパーツのコーナリング時の空力性能、そして物理ブレーキの損耗率の変化値。
それ以外にも必要なデータを収集していく。
それらを分析ソフトに入れて、演算を開始する。
待ち時間となり手持ち無沙汰となってしまったため、私はルカが作成したデータを再度確認することにした。
(大枠の変更はない。それはそうか、時間が足りないもんね。修正したのは関節部分装甲の取り付け位置の変更と、NDCSの関節限界値の変更を加味した反射連動機構部分の関節装甲を変更か……)
私は中身を確認しながら、大きく息を吐き出した。
(毎度のことだけど、ルカはスゴいなぁ……)
短時間かつ、最低限の作業で最大限の効果が発揮できる調整だった。
加えてフレームとリアクターの調整も考慮した設計をする発想は、人間離れしていると言っても過言ではない。
「ふぅ」
一年八組には天才がいる。
それは何を隠そう、空力装甲開発科の試験で史上三人目となる満点合格を果たした天才少女・東雲 流華だ。
エアロパーツの設計と調整を制するものがグライドフォーミュラーを制する。
もちろんドライバーの操縦技術や、その他の調整も大切なのは大前提としても、エアロパーツの調整というのはそれくらい重要な要素なのだ。
そんな自他共に認める空力学の天才はこうも呼ばれていた。
風読みの才女、と。
だけど、そんなルカにも弱点はある。
それは極度の面倒臭がり屋ということと、天才であるために一般人に理解できるところまで噛み砕くといったことが出来ないということだった。
その面が仇となり、面接などで最低評価を貰っていたはず。
だからこうして、凡人である私と同じクラスになっているのだ。
「うげぇ、めんどっちかったぁ。もう二度と残業なんてしたくないよぉ……はぁ、紅茶うまあじ過ぎん? 神すぎるるるぅ……」
ヘッドフォンを外すと、データの修正を終えていたルカは疲れた目をしながら紅茶を飲んでいた。
連日の疲れで日本語が壊れ始めている様子に少し申し訳なさを感じながらも、私は声をかける。
「ルカさーん、データ確認した子からチャット入ってるよ。えーっと……『データに関しては問題ないけど、修正点の計算式の過程がすっ飛ばされすぎてるからわかりやすくしたバージョンの共有お願い』だってさ」
「え、めっちゃ詳しく書いたのに⁉︎ あれでもダメなの……?」
「ルカにとっては詳しく書いたつもりでも、普通の人からしたら足りない部分もあるんじゃない? 私も目を通したけど、エアロパーツへの干渉に関する部分はもう少し注釈と説明が欲しいなって思ったよ」
「うぐぐ……これが天才ゆえの孤独と苦悩ってやつかッ」
ルカは恨めしそうな目をしながらも、再びタブレット端末の操作を再開した。
私はその様子を見ながら再度ヘッドフォンを付け直す。
一息も兼ねてミルクティーで喉を潤して、パソコンの画面へ意識を戻した。
必要な情報は出揃っている。
そうなれば、ここからは私の仕事だ。
今回の『エイメイ・サーキット』は、十八のコーナーを有するサーキットとなっている。
長いストレート区間はホームとバックの二つしかなく、中・高速域でのレース展開が予想されていた。
他のクラスの戦略分析科の生徒とも意見交換をしたけど、私の見解と大きくは変わらない。
その中でも浅桜さんマシンは、中速域でのダウンフォース量を減らすこととなっている。
彼女の姿勢制御の上手さでカバーする算段だ。
中速域を姿勢制御によって速度を出せるようになったということは、それだけで戦略的優位がある。それは姿勢の制御次第で速度を出すことも、逆に抑えることもできるからだ。
今回のシミュレーションはリタイアとなってしまったけど、それでも最高順位は五位。
最初から感じていたことだけど、浅桜さんの実力は上位のチームにも見劣りしないレベルだと言える。
そうなれば、あとはどれだけ裏方が彼女をサポートできるかだ。
浅桜さんが走りやすい作戦かつ、事故などの不確定要素を加味した作戦にするべく、私は画面に向き合っていく。
私は気合いを入れ直すために、ぐっと体を伸ばした。
(修正するのはアクセルワークとブレーキングかな)
これまでのデータではダウンフォースがあることが前提となったコーナリングを、アクセルとブレーキで加減をする必要がある。
まずはその修正を行なっていった。
彼女は端的に言えば『荒いタイプ』のドライバーだ。
リスク上等でカーブに進入するため、ストップアンドゴーに近い操縦をする。
典型的な短距離走行が得意なタイプ。
私は分析ソフトの計算結果から、自分なりの最適を導き出していく。
レコードラインの更新と……レイトブレーキに関しては考慮しなくても大丈夫かな。
あと気になるところは、コーナリングでミスをしたときに腕部の物理ブレーキを使うところか。
なんだろ、咄嗟に腕が出たのかな?
他のドライバーは脚部の制御でバランスを立て直すことが多いし、多分癖なんだろう。
大きな問題ではないし、この部分は外して考えよう。
そんな風に情報の取捨選択をしながら、私は時間を忘れて作業を進めていく。
「ねぇリコち、終わった?」
どれくらい集中していただろう。ヘッドフォン越しにルカの声が聞こえて、私は作業の手を止めた。
区切りが良いと言うこともあって、私は肩で息を吐き出しながらヘッドフォンを外した。
「うん、大体終わったよ。あとは最終確認して、みんなに共有って感じかな。ビデオミーティングまでには間に合いそうではあるね」
「おつー。リコちが終わったなら――」
――ぐうぅ。
と、そこでルカのお腹の虫が鳴る。私はハッとして時計を見ると二十二時半過ぎを指していた。
集中していたから、時間の感覚が曖昧になってしまっていた。
「もうこんな時間……ごめん、すっかり時間の感覚が無くなってたよ」
「……こちらこそお恥ずかしいものを聞かせました」
ルカは恥ずかしそうに顔を伏せる。いつものルカなら「腹の虫もリコちのご飯を期待して待ってるぜ。早く作ってケロぉ」とか言うかと思ったけど、恥ずかしがるなんて珍しい。
「そしたら作り置き冷凍してあるから、すぐに用意するね」
「かたじけない……うぅ、こんなに恥ずかしいのは武士の恥だ。腹切って死にます……」
「いつから士族になったの?」
笑いながら席から立ち上がり、私はキッチンの方へ。
ルカもお皿を出したりテーブルの上を片付けたりと手伝ってくれるのを見ながら、冷凍庫から作り置きしていたものを電子レンジの中へ入れていく。
今日はマカロニサラダと肉じゃが、あとはお味噌汁とご飯だ。
「めちゃ美味そう!」
「作り置きのものだし、ルカの口に合えばいいんだけど」
「リコちの手料理ってだけで、うちの口は幸せいっぱいになるから問題ねぇっす!」
はしゃぐルカに、私は思わず口元が緩むのを感じた。
自分が作ったものを喜んでくれるのは、どんな時でも心地がいい。
そのまま二人でいただきますをして、夜ご飯を食べ始める。
こうして私たちの夜は更けていくのだった。