狩人と姫
リコの指示でプッシュを仕掛けるセリナは、違和感を覚えていた。
(前のドライバー、三位だった奴だ)
先ほど走っていたマシンのカラーリングは赤がベースだったが、今前を走っているマシンは水色をベースにしたものに変わっていた。
自分が五位の時は、四位との間はだいぶ開いていたはず。何かしらのトラブルだろうか。
そこまで考えてセリナは頭を振った。
考える必要のないことは、レースにおいて雑念でしかない。
切り替えろ、目の前のレースに集中するんだと自分を鼓舞する。
(誰が相手でも関係ない――目の前のヤツを抜く)
先ほど抜かされた分を取り返さないといけない。
セリナは呼吸を整えると、オーバーテイクをするためにマシンを更に加速させた。
周回数は十三周目に突入。
残り七周では、順位は一つかうまく行っても二つが限界だろう。
しかしそれは、レースを諦める理由にはなり得ない。
セリナは操作稈を握り直す。
しっかりと前を見据え、追い抜くべき相手の挙動を加速した思考で捉え続けた。
このままのペースでいけば、ピッタリと後ろに張り付くことができるだろう。
その後のことは、その時に考えればいい。
「ッ!」
第三コーナーを抜け、姿勢を持ち上げたセリナは思わず驚きの声を上げる。
それは、少し前を走っていたはずの相手のマシンが、まるでセリナを待っていたようにペースを緩めていたからだ。
この合同シミュレーションはあくまでシミュレーションと割り切っている生徒もいる。
ドライバー科の中でも、そうした考えになる生徒がいても不思議ではない。
思考の隅でそんなことを考えるセリナに、前のマシンが肩越しに一瞬振り返ると――
――勝負してやるぜ、エゴ女。
ゾワっと、背中に嫌な感覚が走る。
忘れもしない、入学試験で感じた人の神経を鑢で削ってくるような重圧。
セリナをそんな感覚に陥れる人物は一人しかいない。
「タイガ……っ!」
自然と奥歯に力が入る。
同時に沸き起こった気炎に突き動かされるように、セリナはシフトアップを行って距離を詰めていく。
そんなセリナの様子に満足したのか、前のマシンも加速を行う。
セリナに前は譲らないと言わんばかりの、荒々しくも勢いのある走りだった。
その爆発的な加速に、セリナは一瞬呆気を取られてしまう。
『浅桜さん、まずはDRS圏内まで行こう。相手は直線での立ち上がりが速いから、コーナー前でフェイントを仕掛けながらギャップを縮めていこうね。マンツー・ブロックを好む傾向があるから、オーバーテイクの時は相手のアームブロックに注意して』
「了解」
リコからの無線を切りながら、セリナはアクセルを踏み込んだ。
彼女の言う通り、まずは追いつかなくてはオーバーテイクはできない。
リコの指示通り、タイム差をコーナーで縮めるために、アウト・イン・アウトの要領で曲がっていく。
ホロディスプレイの表示を見ると、先ほどの周回よりもタイム自体は縮んでいるようだった。
(でも……)
前との距離は縮まってはいなかった。
セリナの上げたペースと同じくらい、相手もペースを上げていることになる。
シケインを抜け、ホームストレートへ。
レースは十四周目に突入し、残された時間がどんどん少なくなっていく。
湧き出てくる焦りを、理性で奥底に沈めた。
「なっ……!」
次のコーナーが勝負だ――そう思っていた瞬間、セリナのそんな思考が崩される。
(わざと速度を上げてない……⁉︎)
ホームストレートに入った瞬間に彼女の目に飛び込んできたのは、自分が予想していたよりも手前で走っているマシンの姿だった。
立ち上がりにミスをしたのだろうか。
そんな楽観的な思考を、もう一人の自分が否定する。
わざとセリナにDRSが使用できるところまで『待っていた』のだ。
(ふざけやがってッ!)
セリナの中で、何かが切れる。
『浅桜さん、DRSが使えるよ!』
「っ!」
耳を打つリコの言葉に、セリナは反射的にDRSのボタンを押す。
同時に背中側のエアロパーツが変形し、空気抵抗の少ないものへと変わっていった。
通常の加速に加えて、空気抵抗が軽減されることによってさらなる加速をする。
時速は三百三十六キロにまで到達。
目の前とのマシンの距離は見る見る内に縮まっていき、ホームストレートの終わり際で並走する形になった。
セリナが外、相手が内側。
このまま行けば、セリナが圧倒的有利な状況でコーナーを曲がることができる。
しかし、同時にセリナは悟った。この状況が相手の策略であったことに。
「ッ⁉︎」
レイトブレーキ。
察知したはいいが、すでに行動できるだけの余地は残っていなかった。
セリナのマシンはコーナーを曲がるために急減速を行う。腕をいつもより広げ、空気の抵抗を少しでも減速の力へと変換していった。
グン、と急激な減速による擬似振動が体を襲う。
――もらったぜ、エゴ女。
ゾワっと、セリナの背筋に再び嫌な感覚が走った。
イン側に機体を振ろうとするセリナを阻止するように、遅くブレーキを踏んだ相手側のマシンが進行方向を左腕を使ってアームブロックしてくる。
この状況で相手に接触すれば、恐らく自分がペナルティを受ける。
そう判断したセリナは、反射的にアウト側へマシンを振った。
刹那、異音が耳を穿つ。
「ッ⁉︎」
ガコン、と奇妙な音と共にセリナの視界が反転。
加速する思考で状況を把握しようとする前に、体を振動が貫く。
同時に襲いかかるのは砂場を滑る音と、舞い上がる砂塵。
何が起こった、砂煙、クラッシュはしてないはず。
いや滑った、転んだのか、すぐに戻らないとだめだ……セリナの思考が、焦燥と動揺で空回る。
ただ、そんな思考とは裏腹に感覚では理解していた。
コースアウトだ。
これまでのレースで培われた経験では、コースアウトなんてしない操縦の筈だった。
何が起こっているのか理解できずに、数秒の時間が流れていく。
『あ、浅桜さん⁉! 大丈夫⁉︎』
「……ッ! 内部骨格固定した!」
リコの無線に、セリナは怒号に似た声を上げながら応えた。
急減速により、物理ブレーキの摩擦係数を超えてしまい滑ってしまうことがある。
旧来のモータースポーツのホイールロックに因んで、そう呼ばれている現象だ。
しかし、立ち止まってはいられない。セリナはマシンを立ち上がらせて、なんとかサーキットの方へと戻ろうとする。
まだだ、まだ自分は走れるんだと言うことを伝えなくては。
「まだ走れる……っ! すぐにサーキットに戻って――」
『浅桜さん、こっちでは左側のエアロパーツの破損が確認できてる。フレームも衝撃で曲がっちゃってるみたいだし、これ以上の走行は不可能みたい』
「ッ!」
リコの言葉に、セリナは言葉を詰まらせる。
「でも、まだアタシは……っ!」
『ううん、リタイアするしかない……これがシミュレーションでよかったね』
キッパリと告げてくるリコに、セリナは自然と拳を握っていた。
しかし反論できる余地はない。全て自分のミスなのだから。
「……分かった」
『リタイアの申請はこっちでやっておくね。シミュレーションのマシンからは降りても大丈夫だから、司令室の方に戻ってきてから反省とかをしよう』
「……」
無線が切れて、静寂が訪れる。
どれくらいそうしていただろうか、永遠にも感じられる一瞬の中で、セリナは何とかその事実を受け入れようとしていた。
しかし――
「――クソッ!」
ガンッ、とセリナはシミュレーションマシンの側面を殴った。
じわっと熱を帯びる右手の側面の煩わしさも、目尻に浮かんだ熱も今は遠い感覚だった。
たかがシミュレーション。そう言われてしまえばそうなのだが、どんな状況でも勝ちを狙っているセリナにとっては『リタイアした』と言う事実は、到底受け入れられるものではない。
最後まで戦えず、自分は負けたのだ。
「っくしょう……ッ」
コースを過ぎ去っていく他のマシンの音だけが、セリナの耳に嫌に残る。
その音を聞きながら呟いた彼女の言葉は、誰にも届くことはなかった。
「浅桜くんはリタイア、か……」
「はい。流石にあの状態で走らせるわけにはいかないので……それでも、必要なデータは取れてるので、リタイアでも問題ないと判断しています」
大澤さんの言葉に、私はリタイアの申請をしながら返事をした。
浅桜さんはコースアウト時の転倒で、左腕部のフレームとエアロパーツが損傷。
継続不可能と判断してリタイア……と申請フォームに必要事項を記載していく。
正直なところ、今回はシミュレーションだ。
大澤さんに説明した通り、リタイアになったとしても必要な情報は収集できてるし、このミスについても本番で起こらないようにすればいいだけだ。
結果としては残念だけど、私が引きずっててもしょうがない。
それよりも、やらなきゃいけないことに時間を使う方が良いに決まってる。
「それで、この場合は君たちの勝負はどうなるのかな?」
「あ……」
「考えていなかったって感じだね」
大澤さんに言われて、確かにリタイアすることを想定していなかったことに思い至った。
この場合私の作戦で走っていたから、私が負けになるのかな?
そう言う細かいことも、浅桜さんが来てからじゃないと始まらないし、一旦保留ということにしよう。
「お、そんな事を話していたら浅桜くんが戻ってきたみたいだ」
と、そんなことを考えていると、シミュレーションルームから出てくる浅桜さんの姿が見える。
出てくる直前に受け取ったハンドタオルで汗を拭いながら、真っ直ぐこちらの方へ歩いてきた。
彼女は私の前で立ち止まると、真っ直ぐな瞳を向けてくる。
「ごめん、今回はアタシのミスだ」
「あっ、え……?」
思わぬ謝罪の言葉に、私は困惑した表情を浮かべてしまう。
よりにもよって浅桜さんが私に謝ってくるなんて思ってもいなかったからだ。
そんな返答に困っている私を気にした風もなく、浅桜さんは言葉を続ける。
「だから、勝負はアタシの負けでいい。一年生レースはアンタの作戦に従うよ」
「それは……えっと、浅桜さんはそれでいいの?」
聞き返すと、浅桜さんはコクンと頷いた。
「うん、問題ない。話はそれだけだから、着替えてくる」
「わ、分かった。いってらっしゃい」
それだけ言い残すと、浅桜さんはくるっと身を翻して更衣室の方へと向かう。
その背中は何だか小さくて、少し心配になってしまうものだった。
「浅桜さん……」
本当にこれでよかったんだろうか。
そんな心の疑問への解答を、私は持ち合わせていなかった。