夜桜リボン
お久しぶりです
あれは、まだ五歳のときだったと思う。
誕生日に親と喧嘩して、家を飛び出した。
原因は──プレゼントが違ったこと。
「最新のカードパックを一箱」頼んだはずなのに、渡されたのは「一つ前の型」だった。
六歳になる子どもがカードパックを箱で欲しがるのもどうかとは思うけれど、当時の僕にとってはそれだけが世界のすべてだった。
すぐに台所へ向かい、楽しみにしていた証拠のチラシを突きつける。赤丸までつけてあったのに。
親はチラシとプレゼントを見比べて「ごめん、間違っちゃった」「今回はそれで我慢して」と、へらへらと笑って言った。
その態度に、僕は怒り、夜の街へ飛び出した。
外は真っ暗だった。満月の光だけがわずかな救いだった。
右も左も分からずただ真っすぐに走った。
春とはいえ、夜の冷気は幼い体にしみる。手足の感覚がどんどん薄れていった。
どれくらい走っただろう。気がつけば、知らない場所にいた。
散歩でも行かない、買い物でも通らない、保育園の送り迎えでも来たことのない道だ。
でも、僕は止まらなかった。体力が尽きて歩き始めてからも、小さな足で一歩ずつ進んだ。
そのときだった。
少し先に、淡いピンクの光が見えた。
それがどうしても気になって、気づけばまた走り出していた。
着いた先には、神社。そして、神社の中央には、大きな桜の木が満開に咲いていた。
しかも、ライトアップまでされている。
ただひとつ、不思議だったのは──誰もいないこと。
こんなに綺麗で立派な桜を、誰も見ていない。
きっと、時間が遅いからだろう。
「綺麗……」
寒さも痛みも忘れ、ただ桜を見上げていた。
「──あれ?」
ふと、視線を感じて振り向いた。
ベンチの端っこに、誰かが座っている。
髪の長い、僕と同じくらいの年頃の女の子だった。
気づかなかった。いや、たしかに、さっきまでは誰もいなかったはずだ。
でも、怖さはなかった。
ただ、少し驚いた。
その子はじっと桜を見上げたまま、僕の方を見ようとはしなかった。
ピンクの着物、白いリボンで結ばれた黒髪。膝の上できちんと揃えられた手。
月明かりと桜の灯りをまとって、まるで絵本の中の登場人物みたいだった。
「……こんばんは」
思わず声をかけた。
返事はなかった。でも、ほんの少しだけ彼女の視線がこちらへ動いた気がした。
僕はそっと彼女の隣に座った。ベンチの端と端。
気まずさを紛らわせるように、桜の花びらを見上げる。
「きれいだね、この桜」
また返事はなかった。けれど、今度はうなずいたように見えた。
その静かなうなずきが、なぜかとても嬉しかった。
親とも喧嘩して、寒くて、泣きそうだったはずなのに。
彼女と一緒に桜を見ていると、不思議と心が落ち着いた。
どれくらいそうしていただろう。
やがて、彼女がぽつりと口を開いた。
「──きみ、なんで泣いてるの?」
「……え?」
思わず、手で目をこすった。
気づかないうちに、涙がこぼれていた。
寒さのせいだと思っていたのに、そうじゃなかったみたいだ。
「……泣いて、ないよ」
嘘だった。
でも、彼女は何も言わず、ふっと笑った。
「……嘘、つくの下手だね」
また、ふっと笑う。
その笑い方は、責めるようでも、慰めるようでもなくて、ただ風のようにやさしかった。
僕は何も言えなかった。
何を言えばいいのか、わからなかった。
沈黙。
でも、いやな沈黙じゃなかった。
風が枝を揺らして、花びらがさらさらと降ってくる。
その音だけが、僕たちの間に流れていた。
「ここ、昔から好きなの」
ようやく、彼女がぽつりと言った。
視線はまだ桜のまま。
「一人で来るの、いつも」
「……そうなんだ」
「でも、今日はちょっと変だね」
「なにが?」
「一人じゃないから」
そう言って、彼女ははじめて、僕の方を見た。
月明かりの中で、その瞳は少しだけ潤んでいるように見えた。
胸の奥が、ちくりとした。
僕は、なにか言いたくて、でも何も言えなかった。
「……あのさ」
ようやく、言葉が出た。
「名前、聞いてもいい?」
彼女は少しだけ考えるように視線を落とし、
それから、首を横に振った。
「……名前、忘れちゃったの」
「え?」
「だから……今日は、知らないままでいようよ」
意味がわからなかった。
でも、無理に聞いちゃいけない気がした。
「……うん。じゃあ、僕も名乗らない」
彼女は、またふっと笑った。
その笑顔を見ていたら、少しだけ胸があたたかくなった。
知らない子と、名前も知らないまま、桜の下で並んで座ってる。
それがなんだか、とても不思議で、でも大事なことのように思えた。
彼女の笑顔に、僕はなぜだか、懐かしさみたいなものを感じた。
それは、遠い昔に見た夢のようで、確かにどこかで会ったような、そんな気がした。
「……そろそろ、行かなきゃ」
不意に、彼女が立ち上がる。
風が吹いて、桜の枝が揺れた。
はらはらと、花びらが彼女の髪にかかる。
「どこへ?」
僕の問いに、彼女は答えなかった。
ただ、微笑んで――少し、悲しそうに。
「きみは、帰れる?」
「……うん、たぶん」
「よかった」
それだけを言って、彼女は石段の方へと歩き出した。
追いかけたい気持ちと、動けない気持ちがせめぎ合う。
「……また、会える?」
思わず声をかけた。
でも、彼女は振り返らなかった。
そのまま、境内の奥、鳥居の向こうに消えていった。
――気がつくと、辺りはうっすら明るくなり始めていた。
夜が、終わろうとしていた。
僕はひとり、桜の木の下に残されていた。
夢だったのかもしれない。
けれど、確かにそこに、彼女はいた。
誰にも知られず、名前も知らず、でも確かに――そこに。
ポケットに手を入れると、何かが指に触れた。
出してみると、それは白いリボンだった。
彼女の髪を結んでいたものだ。
僕はそれを、そっと握りしめた。
家に戻ると、母はもう起きていて、食卓にはトーストと目玉焼きが並んでいた。
けれど僕は、何も言わず、何も食べずに自分の部屋に引きこもった。
鞄の中に、白いリボンをそっとしまう。
まるで、壊れものでも扱うように。
あの子は誰だったのか。
本当にいたのか。
それとも、僕の心が勝手に見せた幻だったのか。
それを確かめる術は、どこにもなかった。
でも、あの目の前で感じた風や、声や、匂いは、嘘じゃない。
リボンの感触も、今でも手のひらに残っている。
午後になって、僕はもう一度、あの神社へ行ってみた。
昼間の神社は、まるで別の場所みたいに明るくて、人の気配すらあった。
境内には数人の子どもが遊びに来ていて、母親らしい人が遠くから声をかけている。
昨夜の静けさも、桜の不気味なまでの満開も――すべてが嘘だったかのようだ。
でも。
桜の木の下に立ったとき、僕は確かに見た。
幹の低いところに、白いリボンがもう一つ、枝に結ばれていた。
それは僕が持っているものと、まったく同じ。
風が吹くたびに、ひらひらと踊っていた。
――やっぱり、あれは夢なんかじゃない。
それから、僕は毎日この公園に来るようになった。
彼女と会える気がして。桜の花びらが散り、風が冷たくなる日も、リボンを握りしめて木の下に立った。ある夕暮れ、いつものようにベンチに座っていると、風が急にやんで、桜の枝がそっと揺れた。誰もいない公園に、ふと、遠くで誰かの笑い声が聞こえた気がした。彼女だったのか、ただの風だったのか。わからない。でも、僕は立ち上がって、笑顔で家に帰った。桜が散る前に、また来よう。きっと、彼女もそれを望んでいる気がしたから。
また気が向いたら書きます