096-七年の想い
港町、ダリア。
外海と内陸を繋ぐ、この地域の交易の最大拠点だ。
そしてここにはフランブルク商会の本部がある。
アルティアとメルティアの二人は、会長のヘイルに挨拶するため、フランブルク商会本部を訪れていた。
この街に滞在する二日間、商会の宿舎を安値で貸してもらうことになっているのだ。
「というわけで、予定通り今日明日の二日間、お世話になるわね。会長」
「構わねえけど、相変わらずアルティアちゃんは敬語が使えねえな。一応、アルティアちゃんを雇っている商会のボスなんだが」
「敬語を使ってほしいなら慕われるような行動をしてほしいわね。具体的には女遊びなんてやめなさい」
「じゃあ敬語なんて使わなくていい」
「はぁ。ロベルトも支部長も、これからも苦労は絶えなそうね」
「すいません、会長さん。短い間ですけど、よろしくお願いします」
「おう、何か困ったことがあれば何でも言ってくれよ、メルティアちゃん。そしてハイスバルツ家でフランブルク商会を贔屓にしてくれ」
ハイスバルツ家の次期当主となったメルティアに積極的に商会との繋がりを勧めてくる以外、ヘイル会長は相変わらずだった。
商会の発展にだけは真剣という意味では、やはり全面的に相変わらずかもしれない。
商会本部の建物を出ると、潮のにおいを纏った風が吹き込んできた。
アルティアにとってもメルティアにとっても、これは初めての経験だった。
なにしろ実物の海を見るのも初めてなのだ。
商会の本部にたどり着く前から、アルティアはもちろんメルティアでさえも、視界の果てまで続く広大な海に興奮を隠せなかった。
「そういえば、プロメテウスはどうしたのよ? 『そんなに海に興奮して、二人とも可愛らしいですね』みたいな事言ってきてもおかしくないのに」
「凄いね姉さん、実際そんな事言ってたよ。でも、どうやら姉さんの前に出てきたくないみたいで」
「えっ、どうして?」
「自分の名前がまだ決まらないみたい」
「うそ、まだ決まってないの? あの約束からもう何ヶ月も経ってるのに?」
「大切なものだから慎重に決めたい、って言ってるよ。でも多分、私たちに気を遣ってるんだと思う。ジェーン先生との再会に水を差したくないんじゃないかな」
「ああ、そういう事。……まあ、ジェーン先生にあの子の事説明するのも大変だし、すべてが終わってからまた三人で話しましょ。って、あの子に伝えておいて」
「ふふっ、大丈夫、聞こえてるよ。あの子も私の中からジェーン先生の教えを受けたんだもの。先生と会ったら、色々話したくなるに決まってるからね」
◆
ランビケにもらった地図を頼りに、姉妹はダリアの街の隅にある小さな建物に辿り着いた。
ここが今のジェーンの家であり、学び舎でもある建物だ。
建物からは、ちょうど小さな子供たちが出てきたところだった。
歳のくらいはカナリアと同じくらいだろう。
「ランさんから聞いてはいたけど、先生、今でも先生なんだね。……姉さん?」
メルティアが横を向くと、アルティアの手は震え、暑さの割にずいぶん汗をかいていた。
「緊張してるの?」
「……正直、人生で一番緊張してるわ。メル、貴方は緊張してないの?」
「してる、けど、流石に姉さんと決闘した時ほどじゃないかなあ」
「……先生に謝りたい。今までずーっとそう考えてきたけど、先生の反応が怖いの。もし、先生が……あたしたちを、あたしを、許さないって……恨んでるって言ったら、あたし」
姉が言葉を言い終える前に、メルティアは姉の手を掴み強く握りしめた。
「ランさんの話、聞いたでしょ? ……先生は姉さんを恨んでなんかいない。大丈夫。……私も一緒に行くから。ね」
メルティアが優しく語りかける。
アルティアはゆっくりと深呼吸し、少しずつ自分の気持ちを落ち着けた。
「ありがとう、メル。もう大丈夫。……この数ヶ月で妹離れ出来たと思ったんだけどなあ」
「『親しい相手に助けてもらうのは必ずしも依存ではありませんよ』ってあの子が慰めてるよ」
「出てきて直接言いなさいよ、もう。でも貴方もありがとうね」
建物の入り口に近づくと、中から二人の女性の話し声が聞こえてきた。
一人は聞き慣れたランビケの声だ。
もう一人は、大人の女性の声だ。
姉妹にとって懐かしい、そして忘れるはずがない、とても大切な声。
「凄いね、ラン。この車椅子、半日使ってみたけど最高の使い心地だよ!」
その声を聞いて二人の姉妹は互いに顔を見合わせる。
二人揃って確信した。
ジェーン先生の声だと。
「良かった……!! あたし、ずっとおばさんにこの車椅子をプレゼントしたくて、……っ、友達と、研究を続けてきたから……!!」
そして涙声になっているランビケの声も聞こえてきた。
足が不自由になってしまった、敬愛するおばのために車椅子を作りたい。
それがランビケが魔力機関を研究し始めた最初の理由だ。
遂に完成した魔力機関を用いた車椅子、それを渡すためにランビケは姉妹より先にジェーンと会っていた。
ランビケの夢は今、叶ったのだ。
「ありがとうねえ、ラン。貴方は私の自慢の姪だよ」
「ぐすっ、ありがとう、おばさん……!!」
ランビケの悲願が叶ったこと、それは姉妹にとっても喜ばしいことだ。
だが。
「どうする? 姉さん。……ちょっと今は入りづらいね」
「で、でも、ここまで来たし。今出直したら、覚悟が鈍るわ……」
「そ、それじゃあ、今行く? 扉、開けちゃうよ?」
メルティアが扉の取っ手に手を近づける。
「ま、待って!! ……もうちょっと、心の準備を」
「ええ~~……」
姉に制止され、メルティアは手を引っ込める。
それなのに、学び舎の扉は勝手に開かれた。
驚いた姉妹二人が扉の方を向くと、車椅子に座った女性と、彼女を先導しようとするランビケがそこにいた。
「あ……」
誰もしゃべらない時間が数秒間流れた。
海風の音だけが聞こえた空間で、最初にしゃべったのは、車椅子の女性だった。
「もしかして、アルとメルかい?」
最後に別れてから七年以上が経っていた。
その間に、アルティアもメルティアも、身長が伸び髪型も変わっていた。
だから、名乗らなければ気付いてもらえないと思っていた。
だけど、何も言わずとも気付いてくれた。
ジェーン・トレアという人は、そういう魅力にあふれた人だ。
実際に姿を見て、その言葉から確信して、二人の姉妹は目の前にジェーンがいるという事実を実感する。
七年間抱え続けた二人のジェーンへの想いは、涙となって溢れだした。
◆
ジェーンとランビケは、新しい車椅子で街へ出かけようとしたところだった。
だが、そこにアルティアとメルティアが訪れたことで、ランビケだけが買い出しに出かけ、残りの三人はジェーンの家でゆっくりと話すことになった。
「ランからお客さんを連れてくるとは聞いていたけど、まさか貴方たちとは思わなかったよ。……二人とも、大きくなったね」
アルティアとメルティアはソファに腰かけ、ジェーンはテーブルを挟んだ向かい側で車椅子に腰かけている。
姉妹の涙はもう落ち着いていたが、二人とも目元が腫れている。
「ジェーン先生、先ほどは取り乱してしまってすいません」
「ごめんなさい、先生。……あたしたち、この七年間ずっと、先生に会いたかったの。……そして、謝りたかった」
「謝る?」
「……七年前、先生はハイスバルツの刺客に襲われて、両足を失った。先生が襲われた理由は、あたしのせいなの。……一族の人間たちの前で、あたしは先生から教わった内容を、全て話してしまった。……その後どうなるかなんて、何も考えず」
「……独裁国家の歴史を教えた頃だったね。あの時は。それが良くなかったのかな?」
「何が問題の核心だったのかは分かりません。でも、私たちが一族の前でその話をした翌日、先生は解雇されたんです」
「あたしの、浅ましい承認欲求のせいで……っ、先生は両足を……、謝って済む話じゃないってことは分かってる、けれどっ」
話しながらアルティアはまたぼろぼろと泣き出してしまった。
メルティアは泣きはしないものの、視線を下げたまま黙って姉の手を握っている。
「……二人とも、こちらへおいで」
ジェーンは優しい声で、二人を呼んだ。
その顔には、怒りの感情は微塵もなく、慈しみのある微笑みを浮かべていた。
アルティアとメルティアは立ち上がり、ジェーンのもとに歩み寄る。
「うん。……二人とも、本当に大きくなったね。ちょっとかがんでくれる?」
ジェーンに言われるまま、ジェーンの車椅子のもとで二人がかがむと、ジェーンは両手で二人の頭を撫で、そのまま胸元に抱き寄せた。
「えっ、先生……」
「七年間、ずっとその事を気に病んでたんだね。……私は大丈夫だよ。今もこうして元気に過ごしてる。だから貴方たちも、もう気にしなくていいんだよ」
「……許して、くれるの?」
「ふふっ。そもそも貴方たちは謝る必要なんかないよ。私は貴方たちに怒ってなんかいないし、恨んでもいないんだから。むしろ、私は今とても嬉しいんだ。あの小さな子供たちが、優しい心を持ってこんなに立派に成長したんだ。教師にとって、これ以上に嬉しいことはないんだよ。……私にこんな幸せを届けてくれてありがとう、アル、メル。二人とも、私の自慢の教え子だよ」
実際に出会ったジェーンはどんな顔をして、どんな言葉をかけてくれるのか。
ランビケから悪い話は聞いていないが、顔を合わせたら先生も心の奥の恨みつらみをぶつけたくなるんじゃないか。
アルティアはもちろん、平気そうな顔をしていたメルティアも、そのことが不安でたまらなかった。
現にジェーンは両足を失って車椅子生活になり、不自由な生活を強いられた。
そのことに負の感情を抱かなかったわけがない。
それなのに、ジェーンは二人を許し慰めるばかりか、自慢の教え子とまで言ってくれた。
ジェーンの優しさと暖かさが、姉妹の心に深く刻まれた傷を癒す。
アルティアもメルティアも感極まり、もうすでにたくさん泣いているのに、また涙があふれ出してきた。
「っ、ジェーン先生……!!」
「先生……先生……!!」
七年分の傷が癒えるだけの涙を流し終えるまで、アルティアとメルティアはジェーンの胸で泣き続けた。
ジェーンは優しくそれを受け入れてくれた。