086-一歩
メルティアのウォーミングアップに付き合い、彼女の動きを見たマリアネは確信していた。
今の自分では、メルティアには歯が立たないと。
簡単な攻撃しか試していないが、メルティアの動きにはあまりにも余裕があった。
マリアネは自分が同じような余裕を持って同じ事が出来るところを全く想像できなかった。
今の自分とメルティアの間に、どれほど力量差があるか痛感するにはそれで十分だった。
しかし無力さを痛感した一方で、メルティアへの怒りは彼女の話を聞くほどに燃え上がった。
彼女の勝手と恵まれた境遇が許せなかった。
人をこんな酷い目に遭わせておいて、善人ヅラで一族を変えるだなんて宣って、だというのに協力者まで既にいて。
どうして自分と彼女にはこんなに差があるのか、それを考えると怒りと妬みの感情が抑えきれなくなった。
だからマリアネは、蒼炎という形でメルティアに自分の負の感情を全て吐き出した。
実力差があっても防がれないように、ゼロ距離で、不意を突いて。
たとえ自分も燃えてしまっても構わないという覚悟で、あるいは自暴自棄の気持ちで。
それなのに。
二人を包み込んだはずの蒼炎は、次の瞬間にはもう消えてしまっていた。
どうしてそうなってしまったのか、マリアネは理解が追いつかなかった。
確かに自分は無詠唱で蒼炎の魔法を行使したはず、なんなら今だっていつも通りに蒼炎の魔法を使おうとしている。
なのに蒼炎の魔法が発動しない。
こんな事は初めてだった。
マリアネが戸惑っていると、逃がさないようにしがみついていたメルティアが、逆にマリアネの事をぎゅっと抱きしめた。
しかしそれは逃がさないための締め付けではなく、暖かく包み込むような抱擁だった。
「ごめん……ごめんね、マリー」
そうつぶやくメルティアの声は震えていた。
泣いている。
顔は見えないが、メルティアは泣いているのだとマリアネは気付いた。
「……私は自分勝手だよ。自分の意見ばかり通そうとして、貴方の怒りを受け止め切る事も出来ない。貴方が苦しんでいるのは私たち……ううん、私のせいなのに。貴方を今の苦境から救う事も、私には出来ない。ごめん、ごめんね……っ」
メルティアの声からは、心の底からの詫びる気持ちが籠っているようにマリアネは感じた。
今までマリアネにとって、メルティアは一族の優れたお姉様の一人で、こんな風に弱っているところなんて見た事がなかった。
「……私が悪いのに、貴方には今の苦境をなんとか耐えてもらうしかない。貴方には私を責める権利がある。でも、それでも……どうか、私に夢を追わせて。この一族を変えたいの。もう、こんな苦しいのは、私も嫌だから……!!」
その言葉で、マリアネはメルティアが泣いている理由を理解した。
マリアネが一族の束縛で虐待同然の教育を受ける原因に自分がなったという罪悪感。
そして全ての元凶であるこの一族への怒り。
しかし一族の在り方をすぐには変えられないという無力感。
メルティアは、マリアネと同じだ。
マリアネと同じように、現状を理想通りには変えられない無力感に苦しんでいる。
ただ一つ違うのは、一族の在り方を変えるという壮大な夢を前にして、無力感に絶望するのではなく、一歩ずつでも踏み出そうとしているところだ。
メルティアは本気で現状に苦しみ、だからこそ本気で現状を変えようとしているのだ。
そして同時に、マリアネは自分の怒りと妬みの本当の根源を理解した。
能力があるから、境遇が恵まれているから、といっても、メルティアの語る一族の在り方を変えるなんていう壮大な夢の前ではどれだけあっても足りていない。
足りていないのに一歩を踏み出せるという、マリアネにはない勇気をメルティアが持っている事が、怒りと妬みの本当の根源だった。
「……決闘で、一族の皆様を認めさせる。メル姉様はそう言いましたよね」
「……うん。言った。一族の人たちにも、姉さんにも、認めさせる」
「……私もです」
「えっ?」
「私も、認めさせてください。……メル姉様を認められなかったら、私が当主になってみせます」
「……っ! うん……!!」
それはマリアネにとって、メルティアへの許しであり、そしてメルティアへの祈りだった。
ひとまず、メルティアの決闘の邪魔はしない。
でも、まだメルティアを完全に信じたわけではない。
だからどうか、決闘で信じさせてほしい。
そしていつかは証明してほしい。
たとえ今は届かない大きな夢でも、一歩ずつ踏み出していけば、そのうち手が届くのだと。
◆
アルティアとメルティアの決闘は粛々と準備が進められていた。
今回は当主の要望で、可能な限り多くの一族の人間が観戦出来るようスケジュールが調整された。
ただの決闘でこのような措置が取られる事はまずないため、この決闘には何かを一族の者たちに知らしめる意図があるのだと多くの者が予想した。
しかし、その意図が当主から明言される事はなく、それが情報を持たない多くの者の不安を煽った。
何か自分たちに不都合な事を発表するのではないか、と。
一方、何のための決闘なのか、知っている者たちは違った。
姉妹の決闘に向けて、各々の目的のために備えていた。
一族の長老、ザイムもその一人だった。
孫娘のマリアネが得た情報を共有した事で、ザイムもこの決闘の意図を知ったのだ。
メルティアが一族の者たちの前で本気のアルティアに勝つことで、正式に次期当主の座を受け継ぐ。
マリアネがメルティアから話を聞きだす現場を、ザイムの部下が盗み聞いていなければ、マリアネが嘘をついているとザイムは疑っただろう。
しかし、ザイムの部下の事をマリアネは認知していない。
口裏を合わせられるわけもなく、その二人が同時に突拍子のない報告をしたという事は、その報告に偽りはないのだろう。
メルティアがアルティアに勝利する、そんな場面をザイムは想像できなかった。
ただ、もしもそんな事が実現してしまえば、それはザイムにとって不都合極まりなかった。
せっかく次期当主の座が不安定なものとなり、掌中に収めるチャンスが生まれたというのに、メルティアが次期当主の座を掴みとってしまえばそのチャンスは露と消える。
メルティアはアルティアと共に家出したものの、そもそもその家出計画を漏洩させディランに阻止を依頼したのがメルティアというのは、一族の多くの者が知るところだ。
そして今回の姉妹の帰還についても、メルティアの協力があったとディランから報告が上がっている。
それゆえ、家出騒動の件ではメルティアの立場はアルティアほど揺らいでいない。
さらにアルティアと異なり、メルティアは蒼炎の魔法を使いこなしている。
同世代の一般的な魔法使いと比較して極めて優秀な練度で、だ。
現当主の直接の子供という血筋も申し分ない。
ありえない事だとは思いながらも、もしもメルティアがアルティア以上の力を得ていた場合、次期当主争いは完全に決着してしまうだろう。
だから、ザイムはメルティアが決闘に勝たないための工作を仕組んでいた。
メルティアが決闘に勝たなければ、何も変わることはない。
ただ、工作するといっても、今回は当主が直々に関わっている決闘だ。
決して工作が発覚してはいけないし、発覚した時のリスクは大きい。
ザイムはリスクを嫌う。
自分に責任が及ばないと確信できない限り、大それた事はしない。
仕掛ける工作は本当に些細なものだ。
決闘を監視するために決闘場の上空を飛行する鳥形ゴーレム。
ザイムは部下に指示し、それに細工をした。
大した細工ではないが、メルティアを勝たせないためにはそれで十分なはずだ。
仮にメルティアに勝算があるとしても、それは薄氷を履むが如し困難な勝算であるだろうから。
◆
マリアネはメルティアの決闘を認めた一方で、メルティアから得た情報をザイムに共有した。
これは別にメルティアに対して裏切りを働いたわけではない。
まず、あの状況はザイムの部下に見張られていた事をマリアネは自覚していた。
マリアネが報告していなくても、同じ話が部下からザイムへ伝えられていたはずだ。
それなら、マリアネもザイムに報告し、ザイムからの信用を得た方が得だと考えたのだ。
そしてあわよくば、ザイムが企むであろう妨害にマリアネ自身も食い込み、その妨害が決闘に影響を及ぼさないよう制御するつもりだ。
メルティアとの対話で、マリアネは自分が持つべきものに気付いたのだ。
たとえ力が足りないと思っても、一歩を踏み出す勇気。
今まで自分が持てなかったそれを、少しずつでも身に付けたいと思ったのだ。
マリアネに現状を変えられるほどの力はまだない。
それでも、一から十まで祖父の言いなりの操り人形を続ける気はもうなかった。