079-被害者
アルティアとメルティアは、両親と鉢合わせないように気をつけながら、数ヶ月ぶりに実家の自室へと帰った。
数ヶ月ぶりの、それも予定外の急な帰還だったというのに、部屋はよく手入れされていた。
おかげで二人は、メルティアとディランの決闘から始まった長い一日を快適なベッドで終える事が出来た。
翌朝、早起きしたメルティアは小間使いに頼み、二人分の朝食をアルティアの部屋に運んでもらった。
普通に朝食をして両親と顔を合わせるのは、今はまだ気まずいからだ。
アルティアはいつも通りなかなかベッドから出ようとしなかったが、部屋の中に朝食の匂いが漂い始めるとようやく起き上がった。
「あ〜……ほんの数ヶ月なのにもう懐かしいわね。この朝食の匂い……というよりお茶の香り?」
ハイスバルツ家の朝食では必ず茶が付いてくる。
フランブルク商会の朝食での飲み物はただの水で、茶の類は来客やパーティーなど何かのイベントでないと飲む機会はなかった。
「姉さん、もしかして家出の意志揺らいでる?」
「まさか! たまにはこういう懐かしいのも良いってだけよ。あたしはとっととセルリに戻ってランの研究を見届けたいし、いずれは海の向こうにだって行きたいって気持ちは変わらないわ。……もちろん、ジェーン先生に会いに行くのもね」
事実、アルティアの家出を継続するという気持ちは変わっていない。
ただ、家出を始める前よりも、自分がハイスバルツ家から受けてきた恩恵が分かるようになっていた。
だから、母親に「家に恩義は感じないのか」と問われた時、冷静に返答できなかった。
そしてこの家の恩恵を受けてきたからこそ、より一層この家の悪しき点が許せなかった。
朝食を終え、出かける準備を済ませた二人は屋敷を出て、ディランと待ち合わせる予定の門まで向かっていた。
その道中、横を通りがかった修練場で、誰かが魔法の稽古を受けていた。
「あら、こんな朝早くから熱心ね。誰かしら?」
「九時半が早いと思ってるの姉さんだけだよ。ディラン兄様を待たせてるし急ごう?」
そう言ってアルティアを急かすメルティアだったが、稽古を受けている人物を見てメルティアもアルティアと共に足を止めてしまった。
「えっ、マリー?」
稽古を受けていたのはマリアネだった。
だが、マリアネが稽古を受けている事自体はおかしな事ではない。
問題は受けている稽古だ。
マリアネは今、指導役に加えて三人の兵士に囲まれている。
そして三人の兵士はマリアネに魔弾銃を向けていた。
これは蒼炎の防壁を扱う為の稽古だ。
周囲から不規則なタイミングで何度も放たれる魔弾を、無詠唱の蒼炎による防壁で防ぐ。
今では防壁を使いこなしているメルティアだが、この稽古には嫌な思い出があった。
一度でも防壁のタイミングが狂ったり、あるいは防壁の強度が足りずに被弾すると、次の防壁が上手く作れなくなり、続々と魔弾が身体に命中する。
被弾すると単純に痛いし、胸の辺りに連続で当たると肺が圧迫され呼吸が出来なくなるし、腹に何発も当たると胃の中身が逆流する。
ただでさえ痛いのに、周りに何人もいる中でそんな無様を晒すのは、精神的にも苦痛だった。
加えて、蒼炎の魔法が使えないのに指導役の嫌がらせで同じ稽古を受けさせられた姉が、防壁がなくとも全ての魔弾をぴったり相殺するという離れ技で涼しい顔をして乗り切ってしまうのもまた、メルティアの劣等感を刺激した。
この稽古は実際難易度が高く、ポリネーは十六歳の頃この稽古をこなせる様になったとメルティアは聞いている。
アルティアには敵わないものの才能に恵まれたメルティアも、失敗せず稽古を完遂出来たのは十三歳になってからだ。
姉妹二人の記憶では、マリアネは特別才能がある魔法使いではない。
それなのに、まだ十一歳に過ぎない彼女がこの稽古を受けているのは明らかに異常だった。
何の前触れもなく、突然兵士の一人が魔弾を撃つ。
それを合図に、三人は乱射を始めた。
無数の魔弾に合わせ、マリアネは一つ一つ蒼炎の防壁を展開する。
それらの防壁は的確に魔弾を防いだ。
「まあ、マリーも上達したじゃない」
その様子を見てアルティアは微笑んだが、メルティアの表情は険しかった。
確かに数ヶ月前とは見違えるほどにマリアネは成長している。
しかし、この稽古は終わるまで防ぎ続ける必要がある。
序盤を凌ぎ切るのは稽古完遂の前提条件でしかない。
やがて弾幕は激しくなり、マリアネはたまらず自分の周囲全体に防壁を張る。
「マリー、それはダメ……!」
メルティアがそう呟いた瞬間、蒼炎の防壁が大きく燃え上がり、その後に防壁が存在しない時間が発生した。
それはほんの数秒だったが、その数秒で無数の魔弾がマリアネを襲った。
周囲全体を覆う防壁は一時的な強度は高いものの、消耗が大きく連続発動し続けるのは困難だ。
この連続で襲われ続ける稽古では、ディランのように無尽蔵のスタミナがない限り、絶対に使ってはいけない。
何発も被弾してしまったマリアネはその場にうずくまり、周囲からは完全に防壁が消え去る。
それを見て兵士たちは銃を下ろそうとした。
「何をやっている、まだやめろとは言っていないぞ!!」
指導役の男が兵士を叱る。
言われるがまま兵士たちは再び銃をマリアネに向ける。
だが、今のマリアネに身を守る手段はない。
先ほど被弾した折に、杖を手放してしまったのだ。
杖は今、彼女から二メートルほど離れた位置に転がっている。
それを知ってか知らずか、兵士たちの銃から魔弾が放たれる。
未だ立ち上がれないマリアネは恐怖に駆られ、思わず目を閉じた。
しかし、魔弾はマリアネには到達しなかった。
アルティアがマリアネに駆け寄りながら、迫り来る全ての魔弾を相殺してしまったのだ。
「……アルティア様。稽古の邪魔をしないでいただきたい」
「貴方の目は節穴なの? 杖がマリーの手から離れてるじゃない。この状況で撃って何の稽古になるって言うの?」
「杖を離したのはマリアネ様の過失。戦場で杖を手放すのが如何に危険な事か、稽古の時から身をもって学ぶ必要があります」
「そんなの別に痛い目見なくても魔法使いなら誰だって知ってるわよ。それともまさか座学で教えそびれたのかしら? それこそ問題よね」
アルティアが引き下がる気がない事を理解し、指導役は問答をやめた。
そしてアルティアを睨みつけた後、何も言わずに兵士たちを連れてその場を立ち去っていった。
メルティアもマリアネの元まで駆け寄り、マリアネを介抱する。
「大丈夫? マリー」
「う……メルお姉様、それにアルお姉様……?」
「どうして貴方がこんな稽古やってるのよ? 蒼炎の魔法に十分習熟してからやる稽古でしょ、これ。はい、杖」
そう言ってアルティアは拾ったマリアネの杖を彼女に手渡す。
「あ、ありがとうございます……。お恥ずかしいところを見せてしまいました」
マリアネはアルティアの顔を見ずに杖を受け取り、立ち上がって砂に塗れた服をはたいた。
「お二人はなぜこちらに?」
「ちょっと街まで買い物に行こうと思ってね。偶然通りすがったの」
いつも通り、明るい調子でそう言うアルティアに、マリアネは冷たい視線を向ける。
アルティアは自分がマリアネに懐かれていると思っていたので、そんな視線を向けられて驚いた。
「……私、この後座学を受けなくちゃいけないんです。失礼します」
マリアネは二人に一礼し、そのまま足早にその場を去ろうとする。
「ちょ、ちょっとマリー!」
アルティアが呼びかけてもマリアネは足を止めず、そのまま彼女の屋敷の方へ去ってしまった。
アルティアは彼女の冷たい態度の理由が分からず、さらに彼女にそんな態度を取られたことがショックで、その場で立ち尽くしてしまった。
「あ……あたし、何かまずいことしちゃった!? ねえ、メル!!」
「わ、分からない……。庇ったのが良くなかったとか?」
姉妹があれやこれやとマリアネを怒らせた理由を考えていると、二人の後ろから声がした。
「マリアネはいわば貴様らの家出の最大の被害者だろうな」
「ディラン兄様」
「貴様ら、こんなところで何をしている? 九時半には門に来いと言っただろう」
なかなか待ち合わせ場所に現れない姉妹を待ちかねて、ディランが二人を探しにきたのだ。
ディランの小言は無視して、アルティアはディランの言葉の意味を確かめることにした。
「被害者ってどういうことよ」
「次期当主のはずの貴様が家出した事で、ハイスバルツ家では次期当主の座を巡って派閥争いが激しくなった。そこまでは昨日話したな?」
「ええ。そういうとこほんと最悪な一族よね」
「貴様の感想などどうでもいい。その派閥争いで、ザイム殿が次期当主として推しているのがマリアネだ。あの子はザイム殿の孫だからな」
「……ねえ、まさか」
「察したか? そうだ。次期当主として育てられた貴様なら分かるだろう。マリアネはあの日から突然、次期当主になるための教育を受けさせられる事になった」
「…………あ〜〜っ、もう。どうしてよ……」
次期当主になるための教育の辛さは、身に染みてよく知っている。
アルティアが家出する前と後で、マリアネの生活が激変してしまった事は、想像に難くなかった。
自分が家出する事で、ハイスバルツ家に混乱が訪れる事は想像していた。
それでハイスバルツの人間がどんなに困ろうと構わない。
だが、アルティアが想像する“ハイスバルツの人間”は大人たちの事で、マリアネのような子供にまで影響が行くとは思ってなかったのだ。
「ディ、ディラン!! そもそもどうして貴方が次期当主になってないのよ!? あたしもメルもいないなら、普通貴方になるでしょ!?」
「貴様らを取り逃がした失態をザイム殿が追及してきてな。俺も立場が弱くなり、汚名返上のために貴様らを連れ戻さねばならなくなった」
「な、なによ……。それじゃあ完全に……」
あたしの浅慮のせいで、また人を不幸にしてしまった。
そう続くはずの言葉を、アルティアは声にする事が出来なかった。