075-嵐の帰郷
バルツの街。
セルリの街から大森林を隔てた北西にある鉱山の街で、地域の領主であるハイスバルツ家が支配している。
そのハイスバルツ家の敷地の一角、魔法の修練のための広場の隅で、幼い少女が空を見つめていた。
彼女の名前はマリアネ・ハイスバルツ。
ハイスバルツの富を管理する長老、ザイムの孫にあたる。
マリアネは秋空の雲を見つめながらため息をついた。
三ヶ月前、アルティアとメルティアが家出を決行してから、彼女の生活は激変した。
彼女が物心ついた頃には、すでにアルティアという圧倒的な実力者がいたため、マリアネは次期当主争いなどという言葉とは無縁だった。
しかし、次期当主のアルティアが家出し、更には対立候補であったディランが家出を予見しながらそれを防げなかった失態を追及され、鎮静化したはずだった次期当主争いが再び激しくなった。
アルティアを捕らえ引き続き次期当主としたがる派閥、ディランを次期当主としたがる派閥、その他自身の息のかかった者を次期当主としたがる派閥。
家出事件をきっかけに、もともと一族内に存在していた派閥争いが明確なものとなってしまったのだ。
ハイスバルツの富を管理しているだけあり、元から当主にも意見できるほど立場の強い長老ザイムであったが、今回の派閥争いではついに次期当主の座を掌中に収めにきた。
と言っても、流石に七十近い老体である自身を次期当主に推薦したりはしない。
そこで白羽の矢が立ったのが、孫のマリアネであった。
マリアネの家系は完全に祖父のザイムに支配されている。
ザイムの直系という事もあり、他の一族よりも直接的に立場がザイムに依存しており、ザイムの機嫌一つで生死が左右される。
実際、七年ほど前までマリアネに良くしてくれていた叔父――つまり父の弟にしてザイムの息子は、ザイムの意見に反抗した結果、街のレジスタンスとの最も激しい争いで矢面に立たされ、死んでしまった。
だからマリアネの一族はザイムに逆らう事は出来ない。
まだ十一歳に過ぎないマリアネにもそれは理解できた。
そんなザイムが自分に「当主になれ」と言っているのだ。
そのために努力しなければ、一体どんな目に遭わされるか分からない。
当主になるための努力は過酷だった。
ハイスバルツ家の当主になるためには、一族の誰よりも強くなければならない。
元々魔法の腕前が平凡なマリアネには、それまでの何倍も厳しいトレーニングが課された。
何時間もの間ロクな休憩も挟まず魔法の使用を強いられ、生まれて初めて気絶というものを経験した。
ノルマを達成できない日には『罰』が与えられ、背中には火傷の痕が日に日に増えていった。
マリアネは自分をこんな苦しい目に遭わせる祖父を、ハイスバルツという一族を、そしてこの状況の原因となったアルティアを、憎むようになっていった。
しかし、憎悪の中でふと冷静になる。
いくら憎んだところで、自分には復讐など出来ないのだ。
祖父も、ましてやハイスバルツという一族も、敵に回すには強大すぎる。
アルティアにしても、あれほどの魔法使いに自分が勝てるビジョンが想像できなかった。
自分に出来るのは、自分の意思など持たずに祖父の傀儡としての役割を果たす事だけ。
毎晩のようにその事を考えてしまい、いつしか枕を涙で濡らすのが日課のようになっていた。
最近は、魔法の要領をだいぶ掴めてきて、『罰』を受ける事も少なくなった。
傀儡としての立ち回りも、自分が何を求められているのか分かるようになり、自然にこなせるようになった。
代わりに、すっかり操り人形になりつつある自分がどんどんみじめに思えてきた。
それでも毎日『罰』を受け泣いていた頃よりはマシだと考えている自分がいて、それがますますみじめに思えて、物思いに耽るといつもため息をつくようになった。
「私も家出したかったなあ」
自分以外に誰もいない場所でのみ、マリアネは本音を漏らす事が出来る。
心に多少の余裕が出来た今では、アルティアとそれからメルティアに対しては、憎しみとは別に憧れも抱くようになった。
元々、二人は歳下の親戚であるマリアネをよく可愛がってくれていた。
マリアネにとっても、優しくて優秀な魔法使いである二人は憧れの存在だった。
そして今は、こんな家から飛び出したという事実もまた、憧れる理由となっていた。
アルティアは常々人目を憚らず一族への文句を言っていた。
それはきっと、一族の次期当主という立場が彼女に過剰なストレスを与えていたからだろうと今のマリアネには想像できた。
メルティアもきっと同じだったのだろう。
だから二人は、意を決してこの一族から逃げ出した。
マリアネは、家出など怖くて出来ない。
失敗したら間違いなく恐ろしい『罰』が与えられるし、成功しても一族から飛び出た自分がどう生きていくのか想像できない。
「お姉様たち、元気なのかな」
一応、二人の行方を掴み、ディランたち三名の少数精鋭が密かに二人を連れ戻しに向かったという話はマリアネも聞いた。
しかし、具体的に二人がどこにいて、どう過ごしているかまでは聞き及んでいない。
ただ、「ディラン兵士長は二ヶ月は不在になる」という話を、一ヶ月ほど前に兵士たちが話していた。
つまり、もしかしたら一ヶ月後にはアルティアとメルティアが帰ってくるのかもしれない。
マリアネ個人の願望としては、どうか逃げ切って家出を成功させて欲しかった。
いつか自分が本当にこの家が嫌になった時、家出を成功させた前例として希望となるからだ。
それに、もし仮に本来の次期当主であるアルティアが帰ってきても、ディランが失態を追及され次期当主の座に就けなかったように、アルティアもまた簡単には次期当主の座に戻れないだろう。
そうなれば、マリアネはきっとディランだけでなくアルティアとも次期当主の座を争わされる。
そういう意味でも、この家出騒動はアルティア・メルティアの勝利で終わって欲しかった。
マリアネがふと気付くと、空は夕焼けで赤く染まっていた。
そろそろ部屋に戻り、訓練終わりのこの格好から着替えて夕食に備えなければならない。
そして夕食の後には座学が待っている。
「……もう少しだけ、こうしていたいな。せめて、陽が沈むまで。……あれ?」
ぼんやりと見つめた夕空に、何か光を纏った点が見えた。
最初は一番星かと思われたその点は、こちらに向かって飛んできていた。
飛んできた物体は、マリアネのいる広場の上空辺りまで来ると光を失い、真下に落ちてきた。
それに伴い、上空から男女の悲鳴が聞こえてくる。
「うおおおおぉぉぉぉおおお!!??」
「きゃああぁぁぁあああ!!!??」
「えっ、えっ!?」
マリアネが目前の状況を理解する前に、空から落ちてきた物体は地面にぶつかるスレスレでまた光を纏って速度を緩め、最後はゆっくりと着地した。
その物体――小舟のような乗り物には、三人のハイスバルツの人間が乗っていた。
「あははっ、二人とも良い悲鳴だったわよ。もう少しあたしを信用してくれて良いのに。あたしが二度も墜落するわけないでしょ?」
「そういう問題じゃないよ!!!」
「っ、はぁ、はぁ……。ふざけるなよアルティア……」
「あっはっはっ、ディランがそんなに狼狽してるとこ初めて見たわ。良いもの観れたわね」
「姉さん、今回は私も怒ってるよ……?」
「ふふっ、ごめんなさいね。もうやらないわ。……あら? マリーじゃない!」
呆然としていたマリアネに、三人のうちの一人――アルティアが気付いた。
次いで一緒に乗っていたメルティアとディランもマリアネを見遣る。
「……えっ? えっと、あの……どういう状況ですか?」
マリアネは何も理解できなかった。
いや、あまりに想像の外側の事態が起こったことで混乱していただけで、目の前の状況は至極シンプルだった。
ディランが、家出していたアルティアとメルティアを連れ戻してきたのだ。