057-最悪の予想
その日、ロベルトは朝から夕方までずっと多忙で、昼食すら食べる余裕がないほどだった。
ここ数日のトラブルで滞っていた取引の調整や侵入されたフランブルク商会内の物資確認などに追われ、元々予定していた魔法大学への魔法石搬入確認をキャンセルし、バルツの輸送隊に搬入を任せ切ってしまった。
輸送隊の方から搬入を最後まで行いたいという申し出があったとはいえ、それでも直接客とやり取りしたフランブルク商会が現場に立ち会わないなんて、本来はあってはならない事だった。
一通り仕事が落ち着いてから魔法大学に急いで向かい、ドリー教授に謝罪した上で問題なく搬入が完了した事を確認して、ようやくロベルトにその日初めての自由時間が訪れた。
商会の食堂での夕食までもうすぐだったが、我慢しきれず出店で買ってしまったフライドチキンを齧っていると、ロベルトの額にポタポタと雨粒が当たった。
急いで残りの肉を頬張り、すでに疲労に満ちた身体に鞭打って、商会までの帰路を駆け抜ける。
今の状況で風邪なんて引いてしまったら、動けない間に仕事がさらに積もり積もって周囲に迷惑をかけてしまうのは分かりきっていた。
だからロベルトは本降りになる前に必死に商会に辿り着いた。
事務所の扉を開けると、中ではアリアが書類仕事にあたっていた。
「あら、おかえりなさい、ロベルト。どうしたの? そんなに息を切らして。……ああ、雨が降り始めたのね」
「ただいま。……もういい時間だが、お前まだ仕事してるのか?」
「ええ、あたしもあたしで仕事を溜めちゃってたからね。メルの看病のためにお休みももらってたから」
ロベルトは椅子に腰掛け息を整える。
アリアは会話しながら書類仕事を続けている。
「メリアの看病はいいのか?」
「今は子供たちが看てくれてるわ。まだ動けないみたいだけど、起きてる時はおしゃべり出来るくらいではあるし、あの熱は十五歳の誕生日になれば治まるの」
「珍しい熱病もあるもんだ。お前の家の人間はみんな罹るんだったか?」
「ええ、あたし以外はね」
その答えを聞いてロベルトは自らの失敗に気付いた。
アリアが自分の生家を疎むようになった理由を掘り返してしまったのだ。
二人の間に気まずい沈黙が流れた。
アリアのペンと紙の音、そして屋根を打つ雨の音だけが部屋に響く。
先に沈黙を破ったのはアリアの方だった。
「ねえ。何日か前、ハイスバルツの連中がどうやってあたしたちを捕まえに来るか、予想を話したのを覚えてる?」
「ああ。お前が指揮官だったらどうするか、って話だったな」
「そうそう。情報が集まってもすぐ動くんじゃなくて、少数精鋭の部隊に作戦を練らせるって話ね。あの時は途中でボロボロのザガが帰ってきて、それどころじゃなくなっちゃったけど、その続きを話しておきたいの。……今から、あたしにとって最悪の想像を話すわよ」
「最悪の想像? お前が悲観的な話をするなんて意外だな」
「あたしはむしろいつも悲観的よ? ……悲観的な部分を、楽観的な思考で上塗りして誤魔化してるだけ。でも今回ばかりは悲観的な部分と向き合わないといけないと思うの。……あたしとメルだけじゃなく、貴方やフランブルク商会、もしかしたら魔法大学にまで迷惑がかかるかもしれないから」
「……最悪の想像ってなんだよ。聞かせてくれ」
ロベルトが促すと、アリアはペンを止め、話し始めた。
「ハイスバルツの連中があたしたちを捕らえに来るなら、今がまさにそのタイミングかもしれないわ」
「なんだと?」
「まず、あたしとメルがこのフランブルク商会に居候している事、アリアとメリアって偽名を名乗っている事、ここまでは既にバレてると最悪の仮定をするわ。しかも何ヶ月も前の時点でね。そうなれば、次はいつあたしたちを捕らえにかかるか。この時、ハイスバルツは一つ大きな情報を持っているわ。あたしとメルが容易には逃げられなくなるタイミングを、奴らは知ってる」
「……メリアの誕生日。熱病か」
「そう。あたしと違ってメルは蒼炎の魔法が使えるから、十五歳の熱病があるって奴らも予想するはず。だからきっと、仕掛けてくるなら今のタイミングなのよ」
「……なるほどな」
「仕掛けるタイミングが固まれば、次はどう仕掛けるか。まず一番に考えなくちゃいけないのは、あたしとメルを逃がさない方法よ。そもそもの家出の時、あいつらはあたしの不意をついたのに取り逃がしてるからね」
「そうだったのか?」
「ええ。そういえば、家出で具体的に何があったかは話してなかったわね」
「ああ。でも確か、予定が狂って荷物も足も失ったって言ってたな」
「そうなのよ。おかげであたしとメルは魔法で岩石を浮かせてその上に乗って街を離れて、森のあの小屋に逃げ込むハメになったの。本当だったら馬に乗ってどこかの街の宿に泊まるはずだったのに。……話が逸れちゃったけど、とにかく奴らはあたしを逃した事を反省して、対策を練ってくるはずよ。といっても、ハイスバルツであたしに魔法で勝てる人材はお父様しかいないわ。だから、まず最初の最悪の予想は、お父様がこの街まであたしたちを捕まえに来ることね」
「でも、お前の親父ってハイスバルツの当主で、バルツの街の統治者なんだろ? そんな簡単に街を離れられないんじゃないか」
「その通りよ。あたしもお父様が街にいないタイミングを待つのに何ヶ月も待たされたくらいよ。でも、あり得ない話じゃない。……と言っても本当に確率は低いわ。ハイスバルツの当主っていうのは、バルツの街の最高権力者で、街の最強の防衛戦力でもあるから、やっぱり基本的には街にいた方がいいのよ」
「バルツの街はここ数ヶ月、鉱山を狙った盗掘者が増え、対策に手を焼かされてるって話だ。そこも加味すると、お前の親父がセルリまで来る線はないんじゃないか」
「ま、これは最悪の想像だからね。……逃亡対策の話に戻りましょうか。お父様が来ないにしても、あたしたちを逃がさない為に出来ることは他にもあるわ。あたしたちが逃げられない状況を作ればいいのよ」
「逃げられない状況?」
「ええ。……あたし的にはこれはお父様が来るよりずっと可能性が高そうで、実際やられたらまずい事なんだけど……あたしたちの大事な誰かを人質に取るのよ」
「あぁー……。なるほどな」
「あたしたちがこのフランブルク商会の世話になっている事がバレているのなら、フランブルク商会の人間を人質に取るのが手っ取り早いでしょうね」
「仮に俺が人質にされたら、お前はハイスバルツの要求を飲むのか?」
「当然でしょ? あいつら、殺すと言ったら本当に殺すわよ」
「おとなしく従うのか? 意外だな。まあお前がそう即答してくれて俺は嬉しいよ」
「あたしが貴方を見捨てると思ったの? 心外なんだけど」
「気を悪くしたなら謝るよ」
「……貴方とフランブルク商会は、行く当てのないあたしとメルを拾って衣食住を提供してくれたわ。しかも、あたしたちの事情を知った上で。……その大恩を仇で返すくらいなら、あたしは……」
アリアが思った以上に暗い顔をしてしまったので、ロベルトは慌てて謝った。
「今のは俺が悪かった、すまん! 頼むからそんなしょげた顔しないでくれ」
「……貴方があたしのトラウマほじくり返したんじゃない」
そう言われてロベルトはようやくアリアが想像以上に落ち込んだ理由に気付いた。
彼女は、かつて自分の恩師が自分のせいで罰された状況と重ねて、ロベルトの恩を仇で返す可能性の話にダメージを受けたのだ。
「……ほんとにすまん。無神経だった」
「……いえ、あたしも気にしすぎよね。とにかく、フランブルク商会の人たちの身の安全には気を遣った方がいいかもしれないわ。と言っても、みんな仕事で街中を行き来してるし、なかなか難しいわよね……」
アリアの言う通り、フランブルク商会の従業員数十名全員の安全を確保するのは難しい。
業務を行っているのなら尚更だ。
だったらもう、誰かが人質にされた場合を想定した方がいい。
そう考えたところで、ロベルトは閃いた。
「なあ、今のうちに逃げたらどうだ?」
「は? どういうことよ」
「仮に人質が取られても、連中が要求をしたいお前たちが既にいなければどうしようもないだろ。交渉の舞台を作らせなけりゃいいんだよ」
「そうは言っても……メルを今の状況で動かしたくないわ。あんな体調で馬車になんか乗せられない」
「そうだな……。別に逃げ先は遠くじゃなくてもいいんじゃないか? 要は、連中がお前らを見つけられなければそれでいい」
「なるほどね。メルの状況を見ながら考えてみるわ。まあそもそも、ハイスバルツの精鋭部隊がこの街に来ているかどうかすら、あたしの最悪の予想でしかないんだけどね。ふふっ」
「そりゃそうだ。ははは!」
アリアに釣られてロベルトも笑う。
この時はまさか本当に話していた通りの展開になるなんて、アリアもロベルトも思っていなかったのだ。