054-モラトリアムの終わり
メルティアは気付いていた。
今、自分は夢を見ているのだ。
そうでなければ、彼女がハイスバルツの屋敷の廊下に立っているはずがない。
思い出せる最後の記憶では、フランブルク商会の宿舎で眠りについたのだから。
メルティアはアルティアの部屋の前の扉に立っていた。
かつて屋敷に住んでいた頃に、二人きりで話したい時はいつもこの部屋に集まっていた。
扉を開ければ、きっと中に姉がいる。
そう思って扉を開けたのに、部屋の中にアルティアはいなかった。
代わりに姉のベッドの上に、得体の知れない何かが腰掛けていた。
その何かは人間の少女のようなシルエットをしているが、なぜか像がはっきりせず、ぼやけた姿しか見えない。
メルティアは咄嗟に杖を構えようとしたが、いつも杖を入れている袖の中には何も入っていなかった。
「貴方は不意打ちに弱い一方で、予測できる危機への警戒心は強いですよね。でも、私のことを恐れる必要はありません」
何かが言葉を発する。
その声は、メルティアがつい最近どこかで聞いた覚えのある声だった。
目の前の状況が現実でないと承知しながらも、メルティアは何かとコミュニケーションを取ってみることにした。
「誰、ですか?」
「私は貴方とずっと共にあった者。貴方が生を受け、そして今に至るまで、ね」
「どういうこと?」
「今日は改めて挨拶をしようと思ったのです。……はじめまして、メルティア。私は貴方の『プロメテウス』です」
◆
魔法大学、資材倉庫の前。
ランビケ・フレーはワクワクが抑えきれず、朝早くからそこに立ち続けていた。
今日はついに、フランブルク商会に注文していたバルツの街の魔法石が届く日なのだ。
フランブルク商会と契約を結び、アリアとメリアに出会ったあの日から、ランビケの魔法の車の開発は急速に進み始めた。
彼女よりも魔法の扱いに長ける二人の姉妹は、魔力による車の走行と制御について、的確なアドバイスをもたらしてくれた。
魔法石を使用したエンジンの改良は、魔法石の在庫が少なくなってきて大学側から使用を制限されたため、ある程度のところで止めざるを得なかったものの、エンジン以外の部分では見違える程に進歩していた。
あとはもう、エンジンの制御さえなんとかなれば、馬力でも人力でもなく、魔力によって自由自在に運転できる車が完成するというところまで来ていた。
落ち着きなく門の方を何度も見るランビケに、一人の男性が声をかけた。
「おや、ランビケくん。もう来ていたのかい?」
「ドリー先生! はい、その……待ちきれなくて!!」
ゆっくりと歩いて倉庫にやってきた初老の男性は魔法大学の教授、ドリーだ。
心の高鳴りを抑えきれないランビケの様子を見て、ドリーは頬を緩める。
若者の可能性を育み、夢の成就の手助けをしたい。
それがドリーが魔法大学で積極的に学生を支援する理由だ。
一人の若者が未来に目を輝かせているその景色が微笑ましく、またそんなランビケの様子は、ドリーに高揚を伝播させていた。
二人が待っていると、やがて魔法大学の門の方向から、複数の荷馬車が倉庫に近づいてきた。
魔法大学の倉庫は所属する教授や学生みんなが使っており、ダリアの港をはじめとする各地から荷馬車が来るのはしょっちゅうだ。
だが、今日来る荷馬車はバルツの街から遥々来たものだけである事を、魔法大学の渉外担当であるドリーは把握している。
荷馬車が倉庫の前で止まると、先頭の荷馬車から一人の女性が降りた。
茶髪を伸ばした若い女性だ。
目を細めた笑顔で女性はドリーとランビケに挨拶する。
「はじめまして。バルツ物流のグラファイトと申します。貴方が魔法大学のドリーさんでしょうか?」
「ええ、私がドリー・セルリアンです」
「ああ良かった、ちゃんと会えるか不安だったんです。フランブルク商会から段取りは伺っていたんですが、なにぶん初めての土地で顔を知らない方に会わなくてはならないので……」
「バルツの街の方が直接いらしたんですか? いつもはフランブルク商会の方で一旦受け取られて、それからここに運ばれてくるのですが」
「はい、今回は特別なんですよ。実はですね、ここ数ヶ月、バルツの街はバタバタしていまして……。それで兵力が分散した結果、その隙を突こうと魔法石を狙った盗掘や盗難が増えてしまったんです。なので、これほど大量の魔法石を輸送する時は、こうやって最後までバルツの人間が護送するんです」
「それでわざわざここまで……。厳重なんですね。ご苦労様です」
「いえいえ。……貴方がドリーさんなのだとすると、そちらの貴方は?」
グラファイトと名乗った女性はランビケの方を向き尋ねる。
「あっ、はい! あたし、ランビケ・フレーと申します! 今回の魔法石を使わせていただく、ここの学生です!」
ランビケのその言葉を聞いて、グラファイトはうっすらと目を開けた。
「まあ、貴方が……」
グラファイトのその反応の真意を、ランビケは理解できなかった。
理解できなかったが、自分のような魔法使いらしくない、いかにも下働きをしてそうな人間が魔法大学の学生である、というのが意外に思われてしまったのかもしれないと考え、少し気落ちしてしまった。
「ねえ、ランビケさん。貴方、お肉とお魚、どちらがお好き?」
「えっ?」
グラファイトの脈絡のない問いかけに、ランビケのネガティブな気持ちはどこかへ行ってしまった。
「どちらがお好き?」
「お肉、ですけど」
「まあ、気が合いますね。私もお肉派なんです。バルツの街って立地的に海は遠くて川は小さくて、獲れるお魚もそんなに美味しくなくて……。今度一緒にお食事でもどうでしょう? この街からバルツの街に持ち帰らなくちゃいけないものがあって、しばらく近くの宿に泊まる予定なんです」
彼女の友好的な態度に、ランビケは自身の想像が完全に杞憂だった事を悟った。
「……ぜひ! セルリの街に来たんです、せっかくならお魚も食べませんか?」
「あら、貴方はお肉派なのでしょう?」
「ええ。でも、気になりませんか? 海も川も近い、この辺りの魚料理!」
「まあ、好奇心旺盛なのね。魔法大学からこれだけの魔法石の支援を受けられるのも、きっとその好奇心ゆえのものなのでしょうね」
「ええ、その通りです。彼女の強みが分かるとは、グラファイトさんはお目が高い」
ドリーとグラファイトが談笑し、ランビケもまた笑顔が溢れる。
ランビケはこのグラファイトという女性の事がもっと知りたくなった。
「グラファイトさん! ……その、お名前を伺ってもよろしいですか?」
「ええ、もちろん。私はね、……ポリネー。ポリネー・グラファイトです」