024-ジェーン先生
「ジェーン先生が家庭教師としてハイスバルツ家にやってきたのは、私が六歳、姉さんが八歳の時です」
話が長くなるため、改めてランビケのための茶を淹れながら、メリアはジェーンとハイスバルツ家の過去を話し始めた。
「ハイスバルツ家では一族の大人の誰かが子供の教育係を務めるのですが、当時のバルツの街はハイスバルツ家の支配に反抗する勢力の活動が活発で、ハイスバルツ家の人間はその反抗勢力への対応に追われていました。私たちの教育係を務めていた親戚も現場に駆られ、代わりに外部から家庭教師を招く事になったんです。家庭教師に求められる条件は二つ。貴族の娘に物を教えられるような優秀な人材であること。そして、バルツの街とそれまで関わりを持ってないこと。つまりは反抗勢力の可能性が無い人間を探していたんです」
「それで、ジェーンおばさんがバルツの街に……」
ランビケは淹れられた茶に口を近付けるが、すぐさま口を離した。
どうやら猫舌のようだ。
「当時の私と姉さんにとって、ジェーン先生は初めて話したハイスバルツの外の人間でした。ハイスバルツでない人間は召使いくらいしか接した事がありませんでしたから、ジェーン先生のことも下に見ていて、私も姉さんも今思うとだいぶ生意気な態度を取っていました。そんな私たちに、ジェーン先生は腰の低い態度を保ったまま、勝負を挑んできたんです」
「勝負? ……まさか魔法ですか?」
「いえ、違いますよ。先生は私たちを言葉で上手く誘導して、いつの間にか知恵比べが始まっていたんです。そこで私と姉さんは、先生にボコボコに負けました。自分たちがどれだけ物を知らないのか、そして目の前にいる先生がどれだけ優秀なのか、思い知らされたんです。だけど、先生に対して不思議と嫌な感情はありませんでした。きっと、先生の纏う雰囲気がそうさせたんでしょうね。……思えば、ランビケさんも似たような雰囲気をしています。言われるまで、まさかご親戚だとは思いもしませんでしたが」
ランビケの事を色眼鏡で見なくなった今のメリアには、姉がすぐランビケと打ち解けた理由が理解できた。
友好的で積極的ながら、相手が望まない至近距離までは決して踏み込まないバランス感覚。
ジェーンとランビケが共通して持っている感覚だ。
外見という意味でも、ジェーンはランビケと同じように輝かしい金色の髪をしていた。
もっとも、伸ばした髪を束ねているランビケとは対照的に、ジェーンは自身の髪を肩くらいの長さで切り揃えていたが。
「……実は最初の頃は、私はなかなか先生との距離を詰められなかったんです。なのに、姉さんはどんどん先生と仲良くなっていって。姉さんが取られた気がして、先生に嫉妬していました」
メリアは話していて、六歳の自分がジェーンへ向けていたのと同じ感情をランビケにも向けていた事実に気付き、一人で気恥ずかしくなった。
「でも先生は、姉さんにも私にも、それぞれに適した速さで距離を縮めてくれました。姉さんとは対照的になかなか打ち解けようとしない私とは、授業を進める中でじっくりと仲良くなるきっかけを待っていました。無理に近づこうという感じがなかったからか、私も少しずつほだされていって、先生が家庭教師になって一ヶ月も経つ頃には、私も姉さんもジェーン先生の事が大好きでした」
「……お二人とも、ジェーンおばさんと仲良かったんですか? それなら、どうして……」
ランビケのその疑問に、メリアは表情を曇らせた。
少しの沈黙の後、メリアがその疑問に答える。
「……先生は、私たちにたくさんの事を教えてくれました。算術に化学、地理、文化、思想、歴史……。先生の授業の効果を測るために、私と姉さんは月に一度、一族の前で学習成果を発表させられました。一族の人たちも、私たちの成長から、ジェーン先生を高く評価していました。でも……先生が来てから一年近くが経った頃の事です。その日の成果発表では、姉さんは……学んだ歴史についての話を、しました。……っ、す、すいません」
言葉を詰まらせたメリアの目から涙が零れ落ちる。
彼女はハンカチを取り出し、目元を拭う。
「一体、何があったんですか?」
「……姉さんが発表した歴史は、国や都市の政治体制の歴史でした。特に……独裁体制の。姉さんは独裁制の欠点や危険性、過去の独裁制の崩壊や失敗例の話をしました。……ジェーン先生が選ばれたのは、街の中の反抗勢力と繋がりがないからだと、先ほど言いましたよね。この成果発表と近い時期、反抗勢力の破壊工作で、ハイスバルツ家に犠牲者が出ていました。一族は、ハイスバルツ家の支配を崩そうとする動きに過敏になっていたんです。そんなタイミングで姉さんは、まるでハイスバルツ家の独裁制を批判するような内容を、先生から教わったと伝えてしまったのです」
「……まさか」
青ざめたランビケのつぶやきに、メリアは黙って首肯する。
「それから、先生がハイスバルツ家の屋敷に来ることはありませんでした。屋敷に向かう道中で何者かに襲われ、家庭教師を続けるのが困難になったため、元いた街に帰ったと私たち姉妹には伝えられました。一族の人間が襲われれば草の根を分けてでも犯人を探すバルツ軍は、その何者かの捜索はすぐに打ち切ってしまいました。先生がハイスバルツ家の人間によって襲撃されたのは、火を見るより明らかでした。……先生との突然の別れは、私と姉さんにとって深い心の傷になりました。特に姉さんは、“あたしが話したせいだ”と激しく自分を責めました。……今でも、この時の話になると姉さんは冷静さを失います。……悪いのは全部、自分の身を守るためならどんな非道な事だってやる、ハイスバルツ家なのに」
「……それが、お二人が家を嫌う理由なんですね」
メリアは窓から外を見つめる。
外は部屋の中より明るいが、空はうっすらと雲に覆われていた。
「……先生はきっと、反抗勢力がどうして反抗するのか、それを私たちに知って欲しかったんだと思います。だってそれまで、私たちにとって反抗勢力は、いたずらに平和を脅かす悪者の集まりでしかなかったですから。でも、先生の話を聞いてから、私と姉さんは考えたんです。ハイスバルツ家を敵に回し、時には命を危険に晒してでも反抗するのは、それ相応の理由があるからだって。そしてその理由を、教わった独裁制の歴史から類推できるかもしれないって。もしも相手を知ることが出来れば、戦いなんてしなくても話し合いで目の前の問題を解決できるかもしれない。仲良くなるための第一歩が相手を知る事というのは、先生が一番最初に私たちに教えてくれた事でした。……姉さんは、一族の人たちにも、犠牲者が出るような戦いではなく話し合いで解決する道を探って欲しくて、成果発表であの話をしたんじゃないかと私は思ってます」
そこまで話し終え、メリアは自分のコップに注がれた茶に視線を向ける。
しかしそのコップを口に運ぼうとはしない。
そんなメリアにランビケは頭を下げる。
「メリアさん、どうもありがとうございます。……辛い話をさせてしまってごめんなさい」
「い、いえ、頭を下げないでください……。私は所詮、加害者側の人間なんです。せめて何があったかを話すくらい、やらなくちゃいけないんです」
「……メリアさんは誠実な方です。それに、アリアさんも……。あたし、今ならはっきりと言えます」
ランビケは席を立ち、メリアのそばまで歩み寄った。
「メリアさんにもアリアさんにも、憎しみの気持ちは一切感じません。……“お二人とも”、とても素敵な方で……あたしの大切な友達です」
そのランビケの言葉を聞くと、メリアはぼろぼろと涙が溢れ出てしまった。
七年間、姉とたった二人で共に抱え続けてきた罪悪感が、初めてほぐされたような気がしたのだ。
嗚咽するメリアを、ランビケはそっと抱きしめた。