023-メリアとランビケ
その日、メリアは自分の部屋で一人読書をしていた。
読んでいたのは実家から持ってきた数少ない荷物のひとつ、古い詩集だった。
この詩集はかつて、メリアと姉の家庭教師を務めていたジェーン・トレアが、姉妹にプレゼントしたものだ。
彼女はこの詩集に書かれた詩の美しい響きが好きだった。
そしてメリアは、ジェーンの「詩の解釈に正しい答えはない」という教えが大好きだった。
詩の解釈に耽っている間は、心に影を落とす一切の事柄を忘れられる。
詩の世界にいる間、メリアは勝ち負けという概念から解放されるのだ。
詩に没頭するあまり、メリアは部屋のドアが何度もノックされている事になかなか気付けなかった。
慌てて返事をして扉を開けると、そこにはザガが立っていた。
「すいません、ちょっと集中しちゃってて……どうしたんですか?」
「メリア嬢に客だぜ。二人きりで話したいそうだ」
「お客さん? どちら様でしょう」
「ランビケ嬢」
「えっ……ランビケさんが? 私に? ……姉さんはいないんですよね」
「ああ。なんならアリア嬢は、いつもの休日と同じように、朝からランビケ嬢に会いに行ったはずだぜ」
ランビケとよく会うのはもっぱらアリアで、メリアは姉からランビケとの話を聞くばかりだった。
メリアとしては、ランビケが自分と二人で話したがる理由が見出せなかった。
「やっぱり心当たりはないよな? ランビケ嬢とよく会うのはアリア嬢だもんな。……どうする? メリア嬢がどっかに出掛けてたって事にできなくもないが」
「……よく分からないけど、会います。会うだけなら変な事にはならないでしょうし。私の部屋まで通しちゃってください」
それは可能な限り最悪な予想をした上での判断だった。
例えば、ランビケが姉妹の出自に気付いて、それを理由に強請ってくるというのなら、ここで逃げても何の意味もない。
むしろ、そんな状況なら一刻も早く情報をはっきりさせて、次の行動に備えるべきだろう。
二人きりになる事でランビケがメリアに襲いかかるとしても、メリアは備えてさえいれば余程の相手以外には負けない自信もある。
裏通りのスリのような奇襲でなければ、対応できるはずだと考えた。
メリアが部屋の中で覚悟を決めていると、再び部屋の扉がノックされた。
「どうぞ」
メリアの声に応え、扉が開けられる。
部屋に入ってきたのは、眩い金髪を後ろで束ねた工房の娘。
姉が妙に気に入って暇さえあれば会いに行く女、ランビケ・フレーだ。
「お邪魔します」
「……私、ベッドに座ってますので。そちらの椅子にどうぞ」
メリアに促されるまま、ランビケは椅子に腰掛ける。
その表情は妙に緊張しているようにメリアには思えた。
「あの、メリアさん……でしたよね」
「はい、メリアです。フランブルクの」
「……あたし、今日はあくまで話をしに来ました。なので最後まで話を聞いて欲しくて。変なことはしないと誓います、手足を縛ってもらっても構いません」
「そ、そこまで言います?」
想定していた最悪とは違いそうだが、「縛っても構わないから話を聞いて」とは尋常ではないと、メリアは警戒を強めた。
ただ本当に悪意も危害を加えてくる気もなさそうなので、手足は縛らず、話を続けてもらう事にした。
「単刀直入に聞きます。メリアさん。それにアリアさん。お二人は、バルツの街から来たのではないですか?」
警戒していたため、その質問を聞いてもメリアは固まりはしなかった。
しかし、それでもハラワタを鷲掴みにされたような気分になった。
「……どうしてそう思うんです?」
「アリアさんが言ってました。故郷は魔法石の産地だって。そして、民衆がアリアさんの家を恐れていると。……この近くでその特徴に合うのは、バルツの街です。そして、アリアさんとメリアさんのお家と言うのは――」
「ハイスバルツ家。……お察しの通りです」
メリアは頭を抱えながら、ランビケが言おうとした最後の言葉を自分で言った。
姉は基本的には口を滑らしたりはしないが、気を許した相手と話す時は逆に余計な情報を与えすぎるきらいがある。
そんな姉の失策のおかげで、何度もトランプで勝利した記憶がメリアにはある。
自分以外の相手には、トランプでも無類の強さを誇るというのに。
「やっぱり、そうですよね。じゃあ、お二人は……なんでこの街にいるんですか?」
「質問に答える前にひとつ確認なんですけど……この話、今私たちがしてる話は、まだ姉さんには話していないんですか?」
「……はい。話してない理由は、話を聞いていただければ分かると思います」
「……そうですか。私たちがこの街に来たのは、端的に言えば家出です。家の話を姉さんから聞いたなら、多分家を悪く言っていたと思いますけど」
「言ってました。……アリアさんは何となく家出した理由は分かるんですけど、メリアさんも同じ理由なんですか?」
メリアはすぐに肯定の返事をしようとしたが、言葉が思うように出なかった。
一度深呼吸をしてから、メリアは改めてランビケの問いに答える。
今度は、正直に。
「……私はちょっと違います。私はむしろ、あの街に残るべきだと思ってました。でも、姉さんを追いかけなくちゃいけなかったんです。だって、私は……話が逸れかけましたけど、とにかく私たちはあの家を出て、フランブルク商会に偶然拾われました」
自分も余計な情報を話しそうになっていた事に気付き、メリアは話を本筋に戻した。
ランビケは纏う雰囲気が柔らかく、気を抜くと必要以上に心を許してしまうという感覚があった。
「偶然、ですか。……ふぅー、大丈夫、落ち着けあたし……」
ランビケもまた深呼吸を行い、心を落ち着けようとしている。
ランビケは何度か深呼吸を繰り返してから、視線をまっすぐメリアに向けた。
「あたしは、ジェーン・トレアの姪です」
「……えっ?」
メリアは絶句した。
その名前が、ランビケの口から出てくるとは微塵も思っていなかった。
ロベルトはその名前を知らないと言っていたし、きっとこれから先、何度も同じように尋ね、何度も同じように知らないと言われるものだと思い込んでいた。
「……七年前、バルツの街から帰ってきたジェーンおばさんは、重度の火傷が原因で両足を失っていました。おばさんはどうしてそうなったかと聞いてもただの火事だとしか言ってくれませんでしたが、周りの大人はみんな、ハイスバルツ家と関わったせいだと言いました。バルツの街に恐怖政治を敷く、炎の魔法を操る一族。何か失敗して、雇い主だったその一族の怒りを買ってしまったのだと」
ランビケは依然緊張したままの声色で、しかし感情を昂らせることなく、言葉を繋げていく。
メリアはただそれを黙って聞いていた。
「聡明で優しいジェーンおばさんが、いつかお金が貯まったら子供たちのための学校を作りたいと言っていたジェーンおばさんが……理不尽にその足を奪われ、自由を奪われた。あたしはハイスバルツ家を憎みました。憎くて憎くて仕方ありませんでした。でも、あたしには復讐する力なんてありません。だから、せめて……ジェーンおばさんの助けになりたい。自力で歩けないジェーンおばさんが、少しでも自由に動けるように、してあげたい」
「もしかして、それが……魔法の車を作ろうと思ったきっかけなんですか……?」
「はい。本当は、魔法の車椅子を作りたいんです。でも……輸送力のある車って事にした方が、予算を確保してもらいやすいと思いました」
メリアはランビケに対して、ひどい罪悪感を抱いた。
悪いのは全てハイスバルツ家で、ランビケは被害者のジェーン先生を助けようとしているのに、メリアはランビケを内心疎ましく思っていた。
自分の姉と短時間で仲良くなった事に妬いてしまうという、あまりにも幼い理由で彼女を疎ましく思っていた自分が、恥ずかしくてたまらなかった。
「……ごめんなさい。全て、私の家が……ハイスバルツ家が悪いんです」
「謝らないでください。……その、あたしは、今日その事で自分が分からなくなって、メリアさんと話しにきたんです」
「……? どういうことですか?」
ランビケは目を逸らし、俯いたまま続きを話し始めた。
「……あたしの研究って、魔法以外の要素が多いせいで、魔法大学の他の学生や教師の中には、あまりよく思ってない人も多いんです。認めてくれるのは、ドリー先生くらいで。だけど、アリアさんと初めて会ったあの日。アリアさんはあたしの研究を見て、子供のように目を輝かせて、面白いと言ってくれました。そしてアリアさんは、別に魔法に詳しくないとかではなく、むしろ無詠唱で魔法を使えるくらいに魔法が得意な人で。そんな人に研究を褒められて、心の底から嬉しかったんです。頑張ろうっていう勇気をもらえました……!」
ランビケは話しているうちに熱が入り、語気は少しずつ強く、そして早口になっていた。
「アリアさんは次々無詠唱の魔法を見せてくれて、そんな凄い人と仲良くなれてしかも褒められる事がとても誇らしくて……。でも、アリアさんは、実は……ハイスバルツ家の人間だったんです。その事を知った瞬間、あたしは何も分からなくなってしまったんです」
勇気を与えてくれる大好きな存在が、実は大事な人から自由を奪った諸悪の根源だった。
そんな状況で、自分だったら何を思うのか、メリアは想像もつかなかった。
「だからあたしは今日、メリアさんと話しにきました。アリアさんという人を知るために。……七年前、ジェーンおばさんとハイスバルツ家で何があったのか、知るために」
そこでメリアはようやく、ランビケが姉ではなく自分に会いにきた理由を理解した。
ランビケはアリアのことを好きでいたいのに、心のうちのハイスバルツ家への憎しみが勝手にアリアへと紐付いてしまう。
この状況を解消するためには、もっとアリアとハイスバルツ家の事を知って、絡まってしまった憎しみと親愛の糸をほどかなければならない。
だから、アリアの事をよく知る第三者――メリアに会いに来たのだ。
「あの、先に一つだけ、教えてください。ジェーン先生はこの街に……?」
「……いえ。おばさんは別の街で暮らしています」
「……そうですか」
メリアとしては、それだけは確認したかった。
姉と家出の動機は違っても、もう一度、ジェーンと会って話がしたかった。
メリアにとっても、ジェーンは大切な存在だった。
「――ジェーン先生の事は、私も、姉さんも、ずっと忘れません。そして間違いなく、姉さんは私よりも深く後悔しています。……これから話すことは、多分、姉さんだったら冷静に話すことが出来ないと思います。私も冷静でいられるとは限りませんが。……それでも、いいですか?」
メリアはこれから懺悔するかのような気持ちで、ランビケに確認を取る。
ランビケが頷くのを見てから、メリアは家庭教師との記憶を語り始めた。