世界は私のために回っているはず!
公園で杏奴と遊んでいた真理亜の携帯が鳴る。
「小原真理亜さんですね。
内外公論社です。あなたの論文が今年の丸川賞に選ばれました」
丸川賞といえば、小説で言えば芥田賞に該当する若手学者の登竜門の賞であり、真理亜も毎年この賞を狙っていて、受賞者のことを妬ましく思っていた。
それがすっかり忘れていたこの時に受賞するなんて!
真理亜は受け答えの言葉も忘れるほど舞い上がり、自宅に飛んで帰って恩師の教授、友人や実家に電話し、それから授賞式の服や挨拶、更にマスコミのインタビューのことを考えていた。
ガチャとドアが開かれて、慌てたように明宏が帰ってきた。
そして真理亜を見つけると珍しく不機嫌な顔で、言葉を荒げて言う。
「杏奴を放っておいて一人で帰っていたんだな。
暗くなって公園で泣いているところを警察に保護されたそうだ。
持ち物から名前がわかり、僕のところに電話がかかってきた。
君の電話はずっと話し中だったとか。
事故でもあったのかと慌てて帰ってきたんだけど、娘を置いていくほど大問題が起こったようには見えないが」
(あれっ。
杏奴ってどこにいたかな?)
明宏に負われている杏奴は目を真っ赤にして泣き腫らしていた。
一人で置き去りにされよほど怖かったのだろう、明宏の背中に必死でしがみついている。
ちょっと悪いことしたかなと思いつつ、真理亜は上機嫌で話す。
「それよりも聞いてよ。
私、丸川賞受賞したんだよ」
「はぁ?
何を言ってるんだ」
「ああ、あんたに丸川賞って言ってもわからないか。
とにかく凄い賞なの。
これを授賞したということは優秀な若手研究者として認められたということよ。
これでどこかの大学に確実に就職できる」
(さんざん世話になったアンタにも恩返しできるわ)
真理亜は明宏への感謝は照れて言葉に出せなかった。
「そんなことよりも、杏奴に何かあったらどうするんだ!
子供の心配より自分のことばかりじゃないのか!」
「うるさい!
無事だったんだし、細かいことを言わないで!
それとしばらく忙しくなるから杏奴の面倒を見て。
お母さんや愛にも手伝ってもらえばいいわ」
しつこく注意する明宏に、真理亜は怒り出す。
「はあー」
明宏は呆れたようにため息をつき、泣き疲れて眠った杏奴をベットに下ろすとキッチンに向かった。
最近は真理亜が料理していたが、忙しげに授賞式の服を選ぶ彼女に見切りをつけ、自分で料理する気のようだ。
横目で明宏を見ながら、真理亜は次々と鳴る祝いの電話に出ていた。
翌日から授賞式まで、内外公論社や大学関係者への挨拶や会食が続き、真理亜は夜まで帰宅せず、育児や家事は明宏に任せ放しである。
授賞式の後の懇親会と二次会を終え、夜遅く真理亜が帰宅すると明宏がテレビを見ていた。
ちょうど真理亜の授賞が映っていて、最近浮気が原因で別れたばかりのコメンテーターが彼女を見てコメントする。
「美人な受賞者ですね。
これまで研究一筋で独身だそうですが、これだけの才色兼備の方、これからは周りも放っておかないでしょう。
私も立候補するかな。ハッハッハ」
それを聞いた明宏は、無言でじろりと真理亜を見る。
「ごめんね。
友人のテレビ局に勤める子が、マスコミで売れっ子になるなら絶対に独身と言った方がいいからと勧めるので、そう言っちゃった。
テヘ」
と酔った赤い顔で弁解する。
「三流大学出の土建屋の夫や娘なんて恥ずかしくて外に言えないよな」
明宏はそう吐き捨てるように言うとテレビを消して寝室に向かった。
寝室からは、パパ早く来てという娘の声がする。
真理亜に置き去りにされてから杏奴は一人になることをひどく恐れるようになり、明宏にべったりである。
「やあねえ。
そんなに拗ねないでよ」
真理亜の声だけが家に響いた。
マスコミのインタビューやあちこちの講演に忙しい真理亜は、気に入っていた塾の講師を辞めることにした。
「先生、受験まで面倒見るって言ってたじゃない!」
受験が近づくシーズンで辞めることに生徒からは恨みつらみが言われるが、真理亜は気にしない。
「ごめんね。でもあなた達、近いうちに私に習ったことを自慢できるわよ」
真面目に詫びることもなく、自信満々にそう言う真理亜に生徒は言葉もない。
そんな彼女にいくつかの大学からポストの提示があった。
その中には以前応募して落とされたところもある。
「うーん。もう少し良いところから来ないかしら」
最初は職につければと思っていたが、周りに持て囃された真理亜はだんだん欲が出てきた。
そこへフランスの財団から研究留学の助成の話が来る。
「これよ!こういうのを待っていたの。
ヨーロッパに留学に行きたかったのにお金がないから行けなかったのよ。
明宏、2年間留学に行って来るから、あとをよろしくね。
それとこれで最後だから準備のお金を少し用立てて。
杏奴のことはお母さんたちにも手伝ってもらって面倒見てね」
「ああ、最後ね。
わかった、好きにするといい」
真理亜の言う「最後」は留学後は就職してそれからはお金を返すという意味だが、明宏は離婚前の最後の手切れ金という意味である。
それに気づかず、真理亜は満面の笑みでフランスに旅立った。
フランスは真理亜にとって夢のようであった。
家事や育児に煩わされることもなくお金の心配もなく好きなだけ研究でき、これまで本でしか知らなかった有名教授と議論ができる。
更にテレビ局からは現地コメンテーターとして起用され、収入を得て、名前も売れることとなる。
私生活でも、フランスの大学関係者や日本からの留学生はもちろん、マスコミ関係者、大手企業のエリートサラリーマンから次々とアプローチがあった。
学生時代勉強一筋だった真理亜はこんなにモテたことも、豪華なデートを市たことも覚えがない。
毎日が楽しすぎて、自宅への連絡など取る暇もない。
たまに明宏と杏奴の顔が浮かぶが、何か言われれば時差もあって難しかったといえばいいと気軽に考えていた。
2年はあっという間に終わる。
その間にヨーロッパでは大きな国際紛争が続き、彼女がテレビでコメントする機会も多くあった。
顔が売れた彼女には大学だけでなく、マスコミからも多くのオファーが来る。
「どうしょうかな。
でもやはり母校のT大学よね」
帰国の機内で悩む彼女の隣には、フランスから留学の男リュカが座っている。
留学先の教授から帰国に際して世話を頼まれたのだ。
空港では、夫の明宏が車で出迎えに来ていた。
ダサい業務用のハイエースだったが。
「明宏、ありがとう。
でももうちょっと良い車にしてくれないと困るわ。
もう私、有名人なのよ」
「そうかい。それは悪かったな。
頼み込んで仕事を抜けて来たもんでな。
それでその外人が次の旦那か?」
明宏の冷たい声を気にもせず、真理亜は明るく言う。
「つまらないヤキモチ焼かないでよ。
銀座でリュカを降ろして、それからT大学に行って」
リュカを降ろすと、彼は真理亜にキスして去っていく。
「浮気するなら離婚してからにしてほしいんだが」
車に戻ると明宏がボソッと言う。
「バカね。ただの挨拶よ」
「ここは日本だし、俺は日本人だぞ。
まあいい。もう少しだしな」
大学で車を降りた真理亜が「じゃあ」と言うが、明宏は口も聞かずに車を出した。
真理亜は少し気になったが、すぐに迎えに来ていた大学の関係者と話を始める。
ポストの詳しい話を聞かなければならない。
数日後の夜、大学の話が纏まった真理亜は足取りも軽く家に帰宅する。
その気持ちは凱旋将軍である。
ずっと使っていなかった合鍵を出して、ドアを開ける。
「喜びなさい、明宏、杏奴!
T大学の准教授になれたわ!
これからは一緒に暮らせるし、これまでかけた苦労も返せるわ!」
真理亜の喜ぶ声が響くが、その視線の先には多くの人がテーブルを囲み、異星人を見るかのように彼女を見ていた。
(あれっ。
あそこにいるのは明宏と杏奴、うちの両親と義両親、愛と義妹の里緒奈ちゃん、幼児はその子どもたちかな。
一人知らない女の人がいる。その座っているところは私の場所じゃないの)
少し固まった真理亜だが、ほぼ家族だとわかると明るく近寄っていく。
「私の歓迎会かな。
よく今日帰ってくるってわかったわね」
しばらく沈黙が続き、その後、妹の愛が叫ぶ。
「このバカ姉!
これを見ろ!」
指さしたところには『あんぬちゃん、誕生日おめでとう!』と書かれた大きな紙が貼られていた。
「あれっ。
そう言えば杏奴の誕生日だったわね。
ごめんね。
明日プレゼント買いに行こう!」
真理亜の言葉は冷やかな沈黙で受け止められた。
「悪いが、ここは家族での誕生日会だ。
話はあるのかも知れないが、今日は帰ってくれないか」
明宏は彼女の前に立って肩を押しながらそう言った。
「はあっ?
私は母親よ。一番の家族でしょう。
それにそこの女性は誰よ!」
「2年間なんの連絡もなく、誕生日も忘れていてよく言うよ。
お前が育児放棄をしてからどれだけ大変だったか。
そこの彼女は俺の勤めている建設会社の社長の娘さんだ。
育児との両立に苦労する俺を見かねて、自分の子供と一緒に面倒を見てくれたんだ」
二人の言い争いは幼い声によって遮られる。
「やめて!
どうしてあんぬの誕生日の邪魔をするの!
ずっと楽しみにしていたのに、お姉さんはもう帰って!」
娘から見知らぬ人を見る目で見られて、さすがの真理亜もたじろぐ。
思えば3歳から2年間顔も見せなかったのだ。
もう忘れているのだろう。
助けを求めて両親や妹の方を見るが、誰の視線も冷たい。
「これだけ好き勝手やって望みのものを手に入れたんだから、ここに拘ることはないよね。
お姉ちゃんをチヤホヤしてくれるところに行けばいいじゃない。
そもそもそういう約束だったんでしょう」
愛に突き放されて、真理亜は膝を付く。
どうやってホテルに帰ったかは覚えていないが、カバンには離婚届が入っていた。
何度か明宏に連絡を取るが、「俺は約束通りスポンサーになったし、お前は職につけた。これまで言っていた通りに、さっさと俺や杏奴を捨ててお前に似合ったいい男を捕まえればいいだろう」と言われるだけだった。
そんなつもりじゃなかったと言っても通じない。
娘に近づけば怯えた顔で逃げられる。
真理亜は諦めて離婚届に判を押した。
それから真理亜は色々な男と浮名を流し、結婚と離婚を繰り返した。
しかし杏奴の冷たい目が脳裏に焼き付き、遂に子供は産まなかった。
彼女は時々もとの夫の家の近くをふらつき、遠くから明宏と杏奴と再婚した家族との様子を見ていた。
その後は実家に上がりこみ、妹の子と遊んでいくのが常であった。
妹の愛がご飯の用意をしていると、子供に話をしている姉の声が聞こえてきた。
話はアリとキリギリスのようだ。
「あるところにバイオリンを弾くのが大好きなキリギリスがいました。
キリギリスは夏の間、好きなだけバイオリンを弾いていたのだけど、寒くなってきて困っていたら、友達のアリさんが家に入れてくれました。
キリギリスはそこでご飯をもらってお手伝いしながら好きなバイオリンを弾いて過ごしました。
キリギリスはアリさんと暮らして幸せだったのだけど、そのバイオリンが思いの外褒められて遠くで弾いてくださいと頼まれました。
そしてあちこちでバイオリンを弾いて拍手してもらっていたら楽しくて楽しくて時間を忘れちゃった。
ようやく思い出してアリさんの家に帰ってみると他のアリさんが住んでいて、キリギリスは家に入れてもらえませんでした」
「それでキリギリスはどうしたの」
「家がなくなったので、ウロウロしながらバイオリンを弾いて暮らしています」
「そのキリギリス、可愛そうだね」
そこに愛がご飯を持って顔を出す。
「そのキリギリスさんは世界は自分の為に動いていると思っていたのよ。
だから何でも自分の思い通りになると勘違いしていたんじゃないかな。
カナは相手のことを思い遣らないとダメだよ。
さあ、ご飯だよ。手を洗ってきて」
「はーい」
洗面所に行く姪を見ながら真理亜は妹を睨む。
「睨んでもダメだよ。
明宏さん達のストーカーはやめてよ。
外面だけは良いのだから、それは守ってよね。
さあ、さっさと何人目か知らないけれど見目好くインテリのダンナさんのところに帰ったら」
真理亜はノロノロと立ち上がる。
こんなことになるならと呟いているようだが、愛は気にしない。
平凡な暮らしを馬鹿にしていた姉はそれに相応しい世界に入っていたのだ。
今更、後悔しても仕方ない。
それよりも明日はカナの誕生日でみんな集まってのパーティだ。
カナや杏奴ちゃんの好きなものを作らなきゃと愛は気持ちを切り替えた。