愛なき結婚とその後の生活
夜になると、真理亜は家を出て駅に向かった。
駅のスタバで待って明宏を捕まえるつもりである。
改札口から出てくる人が見えるところに座り、本を読みながら電車が着くたびに降車してくる人を見る。
(なかなか帰ってこないわね。
あいつ、やっぱり三流大学にふさわしくブラック企業なのかしら)
ようやく明宏を見つけたのは夜も10時を過ぎ、もう帰ろうかと思った頃であった。
真理亜はすぐに店を出ると、俯いて何かを考えるように歩く明宏に後ろから声をかける。
「明宏、久しぶり。話があるのだけど時間をくれない?」
返事も待たずに真理亜は彼の手を取り引っ張っていく。
明宏は目を白黒しながら、されるがままについてきた。
駅の近くの居酒屋に入ると、真理亜は対面に座った明宏を真正面から見る。
(へー、男の人はちゃんとスーツを着ると3割方いい男に見えるというのはホントね。
あの頼りなさげな明宏でもしっかりした社会人に見えるわ)
そんなことを思いながら単刀直入に言う。
「アンタ、あたしとの結婚の話、断ってんだって。
どうしてよ?」
明宏は真理亜の顔を見ながら、温厚そうな顔でクスッと笑うと切り返す。
「真理亜、久しぶり。
相変わらず気が短いね。
まさかお高く留まっていた君が、あんなに馬鹿にしていた僕との結婚なんて、誰かが勝手に言ってるんだと思ってね。
そもそも君が僕と結婚なんて考えたこともなかったし、嘘だと思って断ったよ」
そう言ったあと、少し考えて付け加える。
「いや、そう言えば幼稚園の頃に大きくなったら結婚しようと言ってたかな。
結婚の意味もわかってなかったけどね。
それでどういう風の吹き回しでそんなことを思ったの」
細い目を更に細くしながら、柔らかく尋ねる明宏に、少し言葉に詰まりながら真理亜は答える。
「親が早く結婚しろとうるさいのよ。
妹の愛も上が詰まっていると結婚しにくいって言うし。
アンタも相手がいないようだし、形だけでも結婚すれば回りが静かになるかと思ってね」
「それだけじゃないだろう。
そんなことで好きでもない相手と結婚しようと思う真理亜ではないはず。
僕を考えさせるなら、理由をいいなよ」
(くそっ。
明宏の奴、前なら言いなりだったのに、粘るようになったわね)
「わかったわよ!
大学のポストに落ちて、親はもうお金を出せないと言うの。
幼馴染みの誼で、後で返すから、形だけ夫になって学費を出してくれないかしら」
真理亜がそうあっさり言ったのは、小さい頃から明宏は自分の言う通りにするという自信のためか。
しかし、そうあっさりとはいかなかった。
「いやいや、親でも兄弟でもない僕がそんな事する理由はないよね。
幼馴染みと言っても、そもそも高校からは没交渉だったしさ」
「いいから、あたしの言う通りにしなさいよ!」
とカッとして言いながら、真理亜は頭に閃くものがあった。
「そうだ!
アンタ、高校受験の時にボーダーラインだと言うのでアタシがしばらくつきっきりで教えてあげたよね。
それで受かったあとに、なんでも一つ言うことを聞くと言ってたわ。
あれを今使うわ」
勝ち誇ったかのようにそう言う真理亜を見て、明宏は笑い出した。
「よくそんなことを覚えているものだ。
あれはオフクロが勝手に頼んだものだし、確か真理亜が受かったあとにアタシのおかげだから言う事聞けと言ったんじゃなかったか」
そこで一度口を閉じた明宏だが、真顔になると再び口を開いた。
「でも、まあいいよ。
いくつか条件はあるけどね」
「ホントに結婚していいの!
アンタ、やっぱりアタシのことが好きなのね。
内心、なんて幸運なんだと喜んでいるんでしょう。
でも、これは偽装だから。誤解して襲わないでよ」
真理亜は少し警戒するように後ろに身体を引く。
「まあ話を聞いてくれ。
うちの会社は中小建設会社で若手社員も少ない。
こう言うとなんだが、僕は希少な大卒出で期待のホープらしい。
そのせいか、社長から娘と一緒になって後継者にならないかと持ちかけられた。
でも年上のバツイチと聞くし、僕は別の会社に移ってもっと大きな仕事もやってみたい。
それで社長にはもう将来を誓った仲の女性がいると断ったんだが、善後策をどうしようかと思っていたんだ」
「なるほどね。
じゃあ偽装結婚で利害は一致してるわね!」
そう言う真理亜に明宏は淡々という。
「ちょっと待って。
君が僕の稼ぎで食べて、学費まで出させるのなら見返りがいるよ。
どうせ研究とやらで家事もろくにしないんでしょう。
対価として僕の子供を産んで欲しい。
正直なところ、誰かとの結婚生活は面倒だが子供は欲しい。
お金払って産んでもらうことも考えたけれど、それではどんな相手の遺伝子かわからず、嫌だったんだ。
真理亜ならよく知っているし、少なくとも顔と頭は安心だ。
育児が嫌なら大学のポストを手に入れられれば子供を置いて離婚すればいい」
(うーん)
子供など考えたこともなかった真理亜だが、こういった時の明宏が引かないことは知っている。
とりあえず目先の課題を解決しなければ八方塞がりだ。
それに明宏は幼馴染み。
イケメンではないし好きというわけではないが、一緒に暮らして子供を生んでも嫌とは思わない。
ラブではないがライクという感じだろうか。
「いいわ。
それで手を打ちましょう」
二人は握手した。
それからは話が早かった。
両家の家族に話すと反対はなく、特に小原家では全員が諸手を挙げて賛成し、明宏に何度も御礼を言っていた。
二人は式も挙げずに、籍だけ入れてアパートで同居した。
2DKのアパートの一部屋は真理亜の本や資料で一杯だが、明宏は特に文句を言わなかった。
家事は分担することとなっていたが、平日は明宏の帰りは遅く、真理亜は思う存分研究に没頭した。
土日の休日は、明宏が家事をしておかずも作り置きしてくれる。
夜の夫婦生活も身体の相性が良く、真理亜は満足だった。
(これなら親や妹に煩く言われる実家よりずっと快適だわ)
たまに様子を見に来る母親もうまくいっている様子に安心して帰る。
家でのストレスがないためか論文も調子よく執筆が捗り、教授からも、「最近レベルが上がっているねえ。以前もこれくらい書けていればポストも問題なかったのに」とお褒めの言葉をいただく。
しかし、応募するポストにはなかなか受からない。
熾烈な競争とは知っているが、何度も落ちると彼女は荒れた。
面接で手応えはあったのに落選との通知を受け、自棄酒を飲んで帰ってくると、家で寛いでいた明宏に絡む。
「アンタみたいなフツメン、三流企業の人間がアタシみたいな才色兼備の上玉と結婚できているなんて幸運に感謝しなさい。
今に大学に職が決まったらアンタなんてさっさと捨ててやるから!
それでイケメンの研究者とでも再婚するわ」
「ハイハイ」
その後も暴言を吐き部屋で暴れる真莉亜を、明宏は相手にせずに寝室に引き上げていった。
何度もそういうことがありつつも、それなりに平穏な日々の中、真理亜は生理が来ないため、調べたところ妊娠していた。
「やったー。
よくやった、真理亜ありがとう」
明宏は大喜びである。
真理亜は落選続きのところに、何もせずに明宏のお金を使い続けるのに罪悪感もあり、公募が切れたときを狙って避妊をやめたらすぐに孕んだのである。
両家の親も初孫に大喜びであり、真理亜は上げ膳据え膳で、前にもまして何もせずに本を読むだけの生活となった。
無事に生まれたのは女の子。
真理亜はヨーロッパでも通じるように杏奴という名をつけた。
育児は大変だったが、両家の親も近所でいつでも預かってくれて、両家の妹も様子を見に来る。明宏も毎日仕事を持ち帰って育児や家事をしてくれる。
真理亜も流石に母乳をやり、オムツを替えて育児に励むが、普通の母親よりも遥かに楽であり、また論文を書き始める。
これは妊娠して執筆できなかった間に熟考していたものであり、真理亜にとってこれまでで一番の構想のものである。
それにできてみると我が子は可愛い。
(これでダメなら研究者は断念して、何処かに勤めながら明宏の奥さんをやっていようかしら)
そんなことを思いながら、真理亜は家計の助けにと塾のバイトを始める。彼女の教え方はうまく、生徒からは抜群に人気があり、彼女も教えることに楽しみを見出していた。
育児とバイトに忙しく、論文はその間に肩の力が抜けて書き上げる。それは指導教授の激賞とともに大学の紀要に載せられた。
そして真理亜が家庭にバイトに忙しくしている間に、その論文は徐々に評判を呼び、彼女の名前も知られるようになってくる。