3.公爵令嬢2
『愛されているからってなにをしてもイイわけじゃないのよ。ものには限度ってものがあるの。無償の愛は無限に湧いてくるものじゃないのよ。感情なんだから、好きじゃなくなったらそれっきりよ』
リディアはまず、古ぼけた本の紙面に次々に浮かんでくる古語を読み理解するのに懸命になった。そして、その物言いである。
「昔の言葉ってなんか、ヘン」
『ヘンとはナニよ!』
リディアの言葉に即時に反応して浮き出てくる文字に、思わず本を投げ出しそうになった。
「大丈夫かい?」
叔父ギルバートがそっと背中を支えてくれる。
「こ、これは、一体?」
驚いて見上げたギルバートは苦笑を浮かべている。それはリディアに見せたことがない苦味の勝る笑顔だった。
「君には刺激が強いかと思ったんだけれどね」
言いながら、叔父はそっと魔導書に触れる。
『アンタの大好きなオネエサマの娘ちゃんの一大事なのよ! アタシが知る未来だってずいぶん、改変されちゃっているんだから、念には念を入れよ、よ! 第一、セシリアは賛成したんだから、アンタもいい加減、腹を括りなさいよ!』
この叔父に「アンタ」とは。
リディアは目を見張った。しかし、それよりも気になることがあった。
「好きじゃなくなったら、それっきりとは、本当のことですの? わ、わたくしのことを、お父さまはお嫌いになるかしら? だから、弟を? わたくし、他所へ行かなければならないのでしょうか?」
リディアは昨晩ずっと考え続けていたことを吐きだした。言葉にしてみて、声に出してみたら、案外すっきりした。
『アラアラ、そんなことを気にしていたのね? 怖かったわね。でも、大丈夫よ。だって、お父さまはアンタのことが大好きだからね』
「そ、そうですわよね」
『ただね、さっきも言った通り、どんなに好きでも、だんだん気持ちが目減りしていくことってあるのよ。ほら、ギルバートだって、今は好きなオジさんでも、イジワルされたら嫌いになっちゃうでしょう? ————って、痛い痛い! 例え話だってば!』
リディアは引き込まれるように綴られる難解な文字を必死に読み取っていたが、気が付けば、叔父が紙の端を摘んで持ち上げていた。
「あ、あ、叔父さま、破れてしまいますわ」
『そうよう! 破れちゃうわ!』
見上げれば、叔父のいつも浮かべる穏やかな笑みが、今はなんだか奥行きと言うか、向こう側になにかがあるような感じがする。見てはいけない物のような気がした。
リディアはとりあえず、本を掲げて持ち上げることで、紙面が損なわれるのを阻止しようとした。
『あ、ありがとう。アンタ、やさしいコね!』
真っすぐに褒められて、リディアは思わずほほを緩めた。それを見たギルバートはしぶしぶ魔導書に制裁を加えるのを止めた。
いつもならここで、「ふん、本ごときに痛覚があるとは思えませんね」などと返していたところだ。魔導書もきゃんきゃん噛みつく。ふたりのやり取りは始終そんなふうだった。
『あのね、弟君が来たって、アンタは公爵令嬢であることには変わりはないわ。大丈夫。お父さまとお母さまと、今まで通り、いっしょに過ごせるわ』
「よ、良かった」
魔導書の綴る言葉を懸命に目で追うリディアはほっと安堵の息をつく。
それを見たギルバートは、目に入れても痛くはない姪が鬱屈を抱えており、腹立たしいことにそれを魔導書がいともあっさりと解消したのだと知る。
これだから、魔導書は侮れない。このカーライル侯爵家の部屋から一歩も動くことができないどころか、自分に触れた相手から情報を得るしかない。だというのに、様々なことを知っている。真実、予言をしてみせるのだ。
ギルバートも幼少のころは寝台の上から離れることはできなかった。しかし、ほかの者を使って外の世界を知ることができた。そんな自分よりも大分制限された中で、魔導書は姉に協力し、助言を行ってきたのだという。
『でもね、結局はセシリアが勇気を出して、知恵を使ってやり遂げたのよ。アタシは本だもの。助言するだけよ』
そうして、姉は愛を勝ち取ったのだという。
時を経た現在、魔導書は今度は姉の娘に危難が迫っているという。
『もちろん、アンタはいろいろ努力しなければならないわ。でも、大丈夫よ。アタシが助言してあげる!』
「魔導書の、助言」
リディアがうわごとのように呟く。
それは子供には非常に魅力的な響きに聞こえただろう。
『そうよ。なんてったって、アタシはアンタのお母さまにもそうやって力を貸したんですもの』
「お母さまも?」
魔導書を見下ろす目が丸くなる。
『そうよ。セシリアも社交界は苦手だって言ってね。でも、ずいぶん、頑張ったわ』
欠点があるのは自分だけではない、近しい間柄の、完璧に見える者でも過去に努力で補ったことがあるのだと知れば、励みになる。
「わ、わたくしも、努力すれば、お父さまやお母さまといっしょにいられますでしょうか?」
『もちろんよ!』
「わたくし、やります。どうか、わたくしにご助言をくださいませ」
リディアの気持ちは決まった。
フェアクロフ公爵家が預かることになった子供はルーファスという名前で、リディアよりもひとつ年下だという。
リディアがまず最初に感じたのは、おどおどしていて、なんだかちょっと苛々する、というものだった。
そこで、魔導書が言っていたことを思い出す。スチルがどうとか言っていたが、リディアにはなんのことかわからなかった。
『黒髪を風になびかせて、薄手のマントがはためくのよ。胸元でリボンで留めてあってね。その細長い裾野もいいように風にさらわれていたわ。まるで、彼自身が風に乗ってどこかへ行ってしまいそうな風情なの』
黒髪は確かに、そうだ。どこかへ行ってしまいそうというのも、そうなのかもしれない。どちらかというと、風に乗ってというよりも、自らぴゅっと逃げて物陰に隠れそうな感じである。
とにかく、魔導書はやって来る男の子によくしてやれと綴った。
でも、リディアが話しかけても、「あ、はい」「え、その、」「ええと、」というような、不明瞭な言葉にもならない声しか発しないのだ。
そして、なにより、そんな男の子に母はなにくれとなく気を使った。
母はもちろん、父にも言えず、しかし、魔導書には正直に母が気に掛けるのが面白くないと言った。
『アラ、アンタもなのね』
魔導書は含みを持ったかのようにちょっとばかり文字と文字の狭間に妙な間を置いて浮かび上がる。
「わたくしも?」
『そうよ。つまり、アンタだけが面白くないと思っているんじゃないってことよ』
魔導書はもっと周囲をよくよく注意深く見てごらんなさいとつづった。
そうやってみると、実に、面白くなさそうだ。父が。
あの冷静沈着でいつもやさしい父が。
魔導書にそう報告すると『やっぱりねー!』ととても楽しそうだ。
『あと、ギルバートもね』
「叔父上も?」
『そうよぉ。あのふたりってばセシリア大好き仲間だからね。妻とオネエサマが気に掛ける者は誰だって面白くないのよぉ』
そのあんまりな言い様に、リディアは思わず笑い声を上げた。
「わたくしも、面白くなかったわ。でも、わたくしだけでないのね」
『そうよ。誰だって好きな人がほかの者を気に掛けたらそう思うものなのよ』
でも、そこで八つ当たりをするのは違うという。
そして、魔導書は『イイことを教えてあげる』と文字を綴った。それはニンマリしているかのように一瞬の間を置いてずらずらと流れ出て来る。
リディアはそのころにはもうすっかり、この魔導書のことが好きになっていた。そして、古語もすらすらと読めるようになった。
リディアはルーファスの姿を見つけて、近づいた。
「ちょっと良いかしら」
「っ!!」
リディアよりも背が低い上にうつむき加減のルーファスの顔を覗き込む。
琥珀色の瞳。本当だ。
魔導書が褒めていた瞳のことを思い出し、覗き込んでみたのだ。
「本当に金色のようにも見えますわ。とてもきれいね!」
ルーファスはと言えば、銀色の髪にすみれ色の瞳という今までに見たこともないうつくしい、それこそおとぎ話に出て来る妖精のようなリディアに覗き込まれ、至近距離で笑顔で褒められた。
まさしく、息をするのも忘れ、ただただ目を見開いてリディアを見つめた。その顔は真っ赤で、リディアもまた驚いた。そして、なにがなんだか分からないうちにどちらからともなく吹き出した。棒が転がっても笑う年頃である。
いっしょに笑い転げる少年少女に、すわ何事かと人が集まって来た。その後、ふたりはいっしょにおやつを食べて、リディアがルーファスの手を握って館内や庭園を案内した。
そして、そこが分岐点だった。
リディアは知らず知らずのうちに、ルーファスを攻略していた。
逆に、リディアを攻略するにあたって、立ちはだかるのはジェイラスであり、ギルバートであり、そして————。